筒井順慶/wikipediaより引用

明智家 麒麟がくる特集 その日、歴史が動いた

明智の誘いに一度は応じた!? 筒井順慶36年の生涯をスッキリ解説

投稿日:

天正十二年(1584年)8月11日、大和の戦国大名・筒井順慶が亡くなりました。

「誰それ?」
「聞いたことあるよな、ないような」
戦国ファンの皆さまでも、そんなリアクションが多いかもしれません。

実はこの方、
・戦国三大梟雄の一人松永久秀と激しい戦闘を繰り返し
明智光秀の配下になったかと思ったら
本能寺の変が起きてドドスコ〜!
という数多いる戦国大名の中でもなかなか波乱万丈な生涯を送っておられます。

もしかしたら「山崎の戦いを洞ヶ峠から傍観していたずるい人」という悪評をご存知の方もおられるかもしれません。

いったい筒井順慶とは如何なる武将だったのか?
その生涯36年を追ってみましょう。

 

筒井順慶 2歳にして家督を継ぐ

筒井順慶は1549年生まれ。
2歳のときに父を亡くし、家督を継いでいます。

スタート地点から人生ハードモードですね。

しかも当時の地元・大和国(奈良県)には、後に爆死大名として悪名を轟かせる全盛期の松永久秀がいて、筒井家は四面楚歌状態でした。
久秀とは折り合いが悪く、それでいて別の親しい大名が久秀に屈してしまい、四方八方を囲まれてしまったのです。

頼みにしていた叔父の純政も順慶18歳のときに亡くなってしまい、その隙を狙って久秀が攻め込んできて、順慶は呆気なく居城・筒井城を追い出されてしまいました。

こうした状況を見て「ダメだ、こりゃ」とばかりに出て行った家臣もおりました。
涙目ってレベルじゃござーせん。

しかし、順慶には妙な神様仏様のご加護があったのか。
城を追われて殺されることはなく、堺へ逃亡するなどして命は助かります。

そして裏切り者の城を攻め、近所の三好家の家臣・通称三好三人衆と協力し、居城奪還を計りました。

三人衆は、久秀に直接当たり、順慶は久秀方の陣を焼き、ついに居城を奪還。
城を取り戻した直後に春日大社に詣でたといいますから、信仰心が厚いほうだったのでしょうね。

なお、このドタバタで久秀が東大寺の大仏殿を焼き払ってしまうというトンデモナイ事件も起きています。
1567年のことで、詳しいことは以下の記事を併せてご覧ください。

「自爆武将」松永久秀はいかにして東大寺大仏を燃やしたか

& ...

続きを見る

 

奈良出身ながら信長に従い活躍

筒井と松永とのドンパチの間、尾張では信長が台頭してきていました。最後の将軍・足利義昭を担ぎ上げていた時期です。

こうした世情には殊のほか目ざとい久秀。
「ここでアイツに取り入っとけば順慶をギャフンと言わせられるな」として信長に近付きます。

そして織田家の後ろ盾を得て、再び順慶と交戦。
粘り強さはあっても情報戦には「???」な順慶、またしても城を追い出されてしまいます。

が、この頃にはこれまでの苦労もあって、即座に手立てを講じています。

地元民からの評判が上々だったため、経済的支援を受けることができ、最終的には久秀方から城を取り戻すことができました。
日頃の行いってホント大事ですね。

その後、明智光秀と佐久間信盛を通じ、織田信長から正式に領地を認めてもらいます。

このころ信長は、義昭と決定的に対立。
武田信玄や浅井長政、浅井義景、石山本願寺らによる包囲網を敷かれ、少しでも近畿地方で味方を増やしたかった状況でしょう。

順慶は、明智光秀の配下として働くことになります。
「信長殿につくことが生き残る道」という考えになっていたようで、あの【長篠の戦い】にも積極的に参加しています。

長篠の戦い 見方が変わる~注目は鳥居強右衛門の意地と信長の戦術眼だ!

天 ...

続きを見る

なお順慶は、人質として母と家臣を織田家に差し出しておりました。

 

因縁の松永久秀の裏切りにはもちろん先鋒でGO

1577年、因縁の相手・松永久秀が、信長に対し三度目の裏切りを強行。
このときの戦いで、久秀は爆死という道を選びます。

その翌年には大和(奈良県)の一向一揆勢を掃討し、ようやく国内の支配を固め、織田家内でのさらなる飛躍を望んだことでしょう。
しかし、そう簡単にはいかないのが戦国時代。

1582年6月2日本能寺の変、勃発――。

ここにきて順慶は、強制的に人生の岐路に立たされてしまいます。

光秀には織田家に口利きをしたもらった恩がありますし、日頃から教養を通じて親しい仲でした。
さらに、光秀の奥さんと順慶の奥さんは姉妹だったともいわれています。

当然のことながら「私に味方してくれますよね^^」という誘いが届きました。

いかに戦国時代とはいえ光秀は主君を討った謀反者です。
由緒正しい武家の一員である順慶としては、日頃のつきあいがあるとはいえ気が進みません。

一度は兵を挙げ、明智に従いました。
が、途中で考え直して引き返しています。

運命の分かれ道でした。

 

洞ヶ峠で待っていたのは順慶ではなく光秀だった

一方そのころ光秀は、順慶や戦国のチート・細川藤孝細川幽斎)をはじめとした「味方になってくれそうな人」からの援軍が来ないことに歯噛みしながら、洞ヶ峠に布陣していました。

そう、洞ヶ峠にいたのは順慶ではなく光秀だったのです。

諸将の動向をうかがっていたのもまた光秀。
順慶は洞ヶ峠にはおりませんでした。

「順慶を待っていた光秀」のはずが、いつの間にか「順慶が戦の決着を待っていた」という話にすり替えられた、もしくは歪曲して伝わったんですね。

山崎の戦いは、わずか一日でケリがついてしまい、順慶はその後の動向を見計らいながら、秀吉の下に出向くのが遅れたためこっぴどく叱られています。

これが原因で順慶が体調を崩したという説もありますが、清洲会議には出席しているようなので、この時点では顔色が悪くなった程度でしょう。
所領も認めてもらっていますし。

 

秀吉にこき使われて36歳の若さで…

二年後の小牧・長久手の戦いの頃にはすっかり病身になっていたようです。

胃痛を訴えていたといいますから、たびたび秀吉からのプレッシャーを受けていたのでしょう。
久秀とやりあっておいて秀吉が怖いか?とも思いますけれど、久秀とは戦で対峙していただけマシだったのかもしれません。

豊臣秀吉って、結構、陰湿な攻撃をしますからね……。
「人たらし」だった分、人の傷つけ方も熟知していたような節があります。

「洞ヶ峠」も、もしかしたら秀吉が冗談交じりにほざいたのが発祥だったりして。

命令もあって無理して小牧・長久手に出向き、さらに伊勢・美濃の戦にも参加した順慶は、居城に戻ることはできましたが、とうとう力尽きてしまいます。

享年36。
「人生五十年」の時代とはいえ早すぎる死でした。

死因は胃がんとか胃潰瘍とかいわれていますが、はっきりしていません。
とりあえず秀吉は人使いが荒すぎですね。

明智煕子(明智光秀の妻・妻木煕子)のナゾ多き生涯~糟糠の妻は如何に生きたか

大 ...

続きを見る

明智光秀の生涯55年をスッキリ解説!なぜ織田家No.1の出世頭が本能寺へ?

明 ...

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
筒井順慶/wikipedia

 



-明智家, 麒麟がくる特集, その日、歴史が動いた

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.