絵・小久ヒロ

その日、歴史が動いた 諸家

美少年だった武闘派武将・陶晴賢~下剋上した理由はオトコの嫉妬か権力欲か

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ぽっと出の若造に、先祖代々の土地も権力もかっさらわれる――そんな話を聞くと「アホなの?バカなの?」って思いますよね。

しかし、これに当てはまる人がたくさんいたのが戦国時代。
陶晴賢という武将は、中国・九州に広大な領地を持つ大大名だった大内義隆を滅ぼし、後に、この地方で毛利元就が躍進していく転換期になりました。

一体なにが起きていたのでしょう?

 

陶晴賢によるクーデター

天文二十年(1551年)の8月27日、中国地方で大寧寺の変だいねいじのへんという反乱が起きました。

どんな事件か?

簡単に言うと、いくつかのすったもんだの末、大内氏家臣の陶晴賢(すえはるかた・当時の名前は陶隆房すえたかふさ)が、富田若山城とんだわかやまじょうで挙兵し、主君の大内義隆を攻め滅ぼしてしまったという事件です。

このとき大内家では、武士だけでなく、領内の民まで晴賢に味方したと言います。
謀反を起こす前から「年貢が苦しいのは大内義隆のせいだ!」と広めていたんですね。

結果、大内義隆は大寧寺で自害。
嫡子の大内義尊も殺害されております。

しかし、晴賢は乱の後、明智光秀のように自らが主になろうとはしませんでした。

あくまで殿様にキレたという立場であり、九州の大友氏から一時期義隆の養子に来ていた大内義長(前・大友晴英はるふさ)という人を新しく当主につけています。
この方は、母ちゃんが大内義隆の姉だったのですね。父親は九州の大名・大友義鑑よしあきで、兄に大友義鎮よししげ(大友宗麟)がいます。

まぁ、いずれにせよ義隆から見れば甥っ子なわけであり、血筋は申し分ありません。

ではどうして晴賢はキレてしまったのでしょうか?
主な理由は二つあったといわれています。

 

義隆の度を越した公家趣味

一つは、主君・義隆の公家趣味でした。

大内氏はもちろん武士ですが、代々貴族文化を好む家柄でした。
その中でも義隆はとくに公家贔屓が過ぎたといわれています。

和歌を詠んだり連歌(五七五と七七を交互に詠んでいく形式の和歌)を催したり、まるで平安貴族のような趣味だったそうです。

まぁ、連歌は戦国武将の多くもハマっていて、例えば黒田官兵衛真田幸村最上義光といった有名どころもその一人なんですけどね。

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たまに詠むくらいなら「ウチの殿様は風流人だぞ!すごいだろ~」ということにもなるのですが、義隆は度を越していたのが問題になりました。

特にライバルの出雲(島根県)の尼子氏との戦で大敗した後は変な意味で逆ギレしていまい、「これからは風流に生きるぞよ」とまったく政治や軍事をやらなくなってしまったとさえいわれています。

これでは領主としても武士としても失格。
現代で言えば、トップシェアを奪われたメーカーの社長が「ワシこれからゴルフに生きるから!」と出社しなくなるようなものでしょうか。

そりゃ「お帰りくださいご主人様」とでも言いたくなります。特に晴賢は、お父さんの代から武勇で優れた家でしたので、見ていられなかったのでしょう。

ちなみにこの変で京都から遊びに来ていた公家が全員惨殺されています。こわー。

大内義隆/wikipediaより引用

 

衆道の主従関係だったとも

もう一つは、これまた戦国時代によくあるアノ話です。

義隆と晴賢は若いころ衆道(男色)関係にあったため、次第に相良武任さがらたけとうという家臣が寵愛されていくことが晴賢にとっては耐えがたかった――というものです。

衆道は単なるごにょごにょだけでなく、主君と家臣の絆が強まり、出世のきっかけになるものでもありました。
忠誠と愛情の入り混じった複雑な関係だったのでしょうね。

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国史大辞典によると、晴賢は幼い時は美少年で、文化的素養はなかったと書かれています。つまり、美貌だけで通った若い時期が過ぎて、教養が求められる大人になってからは……という?

一方、恋のライバル武任は文官肌の人で、実際に能力もあったのですが、晴賢にとっては目の上のたんこぶ。

「殿がヤワな思考になってしまったのは、アイツがたぶらかしたからに違いない。
現に、殿はアイツに政務を任せっきりじゃないか!
アイツが殿を言いくるめて、自分のやりたいようにやってるんだ!おのれええええええええ!!アーッ!」

……というように、嫉妬と忠誠と猜疑心を爆発させてしまったんじゃないか?という話です。

まぁ、陶晴賢らの武断派(武力を中心とした一派)と、相良武任ら文治派(行政を中心とした一派)らの対立というがあり、その権力争いだった――という見方が自然かもしれませんが。

 

かくして毛利元就が中国地方の覇者に成り上がる

さて、新しく当主を決めたものの、その後の大内氏は歴史から消えていってしまいます。

そりゃ、理由があったとはいえ主君を殺した家臣がそのまま家の中にいるのですから、周りからは評判悪いですよね。
大内氏に従っていた周辺の領主達も「もうアンタの家はイヤでーす」とばかりに次々と離反していってしまいます。

替わりに出てきたのが、かの毛利元就でした。

1555年、元就が表舞台に出てくるキッカケとなった「厳島の戦い」が勃発。
大寧寺の変で弱体化した大内氏は、毛利氏の前に敗れてしまいます。

結果、晴賢は35歳の若さで戦死してしまいました。

皮肉なことに、晴賢は主家を再興するどころか元就の前座になってしまったのです。

厳島の戦いは、毛利元就による鮮やかな奇襲が炸裂した戦いとして知られます。
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【参考】
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
『戦国人名事典 コンパクト版』(→amazon link
陶晴賢/wikipedia
大内義隆/wikipedia

 



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