関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

徳川家 武田・上杉家 その日、歴史が動いた 関ヶ原の戦い

上杉を殴りに行ったら大坂で三成挙兵! 超速移動で関ヶ原まで何日かかった?

投稿日:

9月の歴史ネタといえばやはり関が原の戦い――。

慶長五年(1600年)9月1日は、徳川家康が江戸城から上方へ出発した日ということで、家康がどのように行軍していったのかを見ていきたいと思います。

ここまでの経緯についてはまた書く機会もあるので、ざっくりマトメますと……。

上杉家が怪しいので東北まで殴りに行ったら、その間に石田三成が大阪城を占拠とかイロイロやらかし、淀殿他豊臣家のお偉いさんから「助けて家康!」と言われたので慌てて戻ってきました――そんな感じです。

「上杉家と三成が結託していた」
とか
「家康はそれを承知でわざと上方を空けた」
とかいろいろ真っ黒な説もありますが、淀殿が「家康助けて!」と言っている時点で、既に三成の大義は薄れてしまうんですよね。

三成としては「秀頼様のために家康を始末する!」という強い気持ちだったのでしょう。

上方が空いてる隙をつく、という点はいいんですが、上杉討伐に際して家康はときの天皇からもお墨付きをもらっていますので、いわば官軍。(まだ勝ってないけど)それを義憤とはいえ勝手に始末しようとするというのも?????ですよね。

 

秀頼の味方は東軍の家康!?→表向きだが

石田三成にせよ、豊臣秀吉にせよ。
実務は得意なのに、世間体とか建前とか大義名分を整えるのが不得手に見えるのは気のせいでしょうか。

江戸に戻る前、家康は同行していた武将たちに
「人質取られてる奴もいるし、ここからどうするかはお前らに任せるわ。言っとくけど俺はアホの三成を叩きに行くんであって、秀頼様に刃向かうつもりはないからそこんとこよろしく」(超訳)
という話をしていて、これを信用して東軍についた人が多かったなんて話もあります。

おそらくこういう対応も大きかったのでしょう。

家康が実際に行軍した日程はこんな感じです。

【江戸城から関が原まで】

9月1日 江戸城出立(家康3万)
2日 藤沢
3日 小田原
4日 伊豆
5日 清見寺
6日 島田
7日 中泉
8日 白須賀
9日 岡崎
10日 熱田
11日 清洲城
13日 岐阜
14日 秀忠の遅刻確定を知る (#^ω^)
前哨戦にあたる杭瀬川の戦いで勝手に動いた武将たちが負けて(#^ω^)
15日 関が原の戦い

杭瀬川の戦いについては別にマトメておりますので、よろしければ以下の記事をご覧ください。

杭瀬川の戦い【関ヶ原前哨戦】は西軍の勝利だった!家康&三成ガクブル

旧 ...

続きを見る

 

秀忠の強行軍とさほどの差はなかったんですよね

現在の地名でいえば、9月1日~4日までで関東を通過、5日以降は静岡県をゆっくり行軍して岐阜県に入ったということになります。

ただこれ、現在の高速道路の東京~関が原(400km)で計算すると一日平均26km以上移動したことになります。
ということは、大坂冬の陣時に秀忠がやった強行軍(一日平均27km)とほぼ同等のスピードだということになります。

部隊編成や指揮の上手下手も大いに関係していると思うのですが。

これで兵が疲弊していたという話もなく、小早川秀秋らを裏切らせて兵数の補充をしたとはいえ、家康本隊とほぼ同数だった秀忠の別働隊なしで勝っているのですからさすがとしか。

地味な点ではありますが、この辺が家康の一番スゴイところかもしれませんね。狸△。

長月 七紀・記

【参考】
『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制 (講談社学術文庫)』(→amazon link
関ヶ原の戦い/Wikipedia

 



-徳川家, 武田・上杉家, その日、歴史が動いた, 関ヶ原の戦い

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.