鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた 日本史オモシロ参考書

赤松満祐は嘉吉の乱後にナゼ討たれた?将軍・足利義教の暗殺には成功したはず

投稿日:

歴史上の戦いは「小説より奇なり」。
子供みたいなケンカが大きな合戦を引き起こしたり、奇跡的なタイミングで平和的解決がもたらされたり、ハプニングの連続です

その一方で、戦争や政争には一定のセオリーもあって、「敵のトップを倒せば8割方勝ったも同然」というのは、皆様もご納得でしょう。
暗殺でも毒殺でも、敵の頭をブッコロしてしまえば自分に有利になるわけで、様々な謀略が登場するんですね。

しかし、です。
たとえ暗殺が成功しても、最終的な勝者になれるとは限りません。

室町時代、赤松満祐による【嘉吉の乱】は、まさにそんな出来事でした。

まるでタランティーノ映画のようにド派手な暗殺劇。しかしその後の準備が周到とは言い難かったため……。

 

まずは六代将軍・義教を確認しましょう

嘉吉の乱とは、
「現職の征夷大将軍が家臣にブッコロされる」
という大事件です。

大事件にしては、これが初めてでもなく。
鎌倉幕府ともなりますと……二代目……三代目……うっ、源氏、何やってんの><;

それはともかく、もっと具体的に見ますと
「室町幕府の六代将軍・足利義教が暗殺され、その下手人である赤松氏が討伐された」
という話です。

まずは当時の背景として、義教の将軍継承とその前後に起きたことを簡単に確認しておきましょう。

1、鎌倉公方・足利持氏の不満から永享の乱と結城合戦が勃発
2、称光天皇の崩御と後花園天皇の即位に後南朝は不満を抱く(後亀山天皇の皇子小倉宮を担ぐ北畠満雅ら)
3、日本史上初の民衆蜂起・正長の土一揆が発生
4、義教自身による延暦寺の処断
5、義教による公家・武家の粛清

一言で言えば足利義教の厳しい政治政争があり、彼のことを恐れている人は少なくない――そんな状況でした。

足利義教/wikipediaより引用

 

義教の就任直後は悪くない関係だった

嘉吉の乱を起こすことになる赤松満祐(みつすけ)は、当時、幕府の長老のような立ち位置にいた人です。

もともと赤松氏という家柄は、後醍醐天皇の檄に応じて鎌倉幕府討伐に動き、その後、南北朝時代では足利尊氏に仕え、播磨・備前・美作と、いわゆる「四職(ししき)」の地位を得た一族です。

四職とは、侍所の長官である頭人(とうにん)となる四家【赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏】のこと。
室町幕府にとっては、スタート時点からの功臣ですね。

しかし、そんな名門ながら、満祐は「明日は我が身か」と不安を感じておりました。
他の有力な守護大名が数多く粛清されていたのです。

満祐は、自分の背の低さなどからかなり劣等感の強い人物だったと思われ、余計に焦燥していたのかもしれません。

というのも、義教の就任直後の頃は、全然状況が違ったのです
満祐は侍所の頭人として重用され、悪い関係ではなかった。

しかし六代将軍・義教は次第に、実務経験の豊富な満祐を次第に疎んじるようになり、赤松氏の分家筋にあたる赤松貞村(さだむら)を寵愛するようになります。

そのあたりで当時の長老格だった三宝院満済、山名時熙が亡くなり、義教が政治を主導しはじめました。
「じいや達がいなくなった若様が血気にはやり始めた」みたいな感じですね。

 

そして暗殺計画は企てられた

そして永享九年(1437年)。
「公方様は近々、満祐の領地のうち播磨と美作を取り上げるらしい」という噂が流れ始めます。

これはただのデマでした。
が、その三年後、満祐の弟・赤松義雅が義教の不興を買って所領をすべて没収され、その一部が赤松貞村と細川持賢(細川家の分家筋・典厩家の祖/後述する管領・細川持之の弟)に与えられます。

義雅の領地を全部ぶんどって他の人に与えたというわけではありませんし、えこひいきするなら貞村だけに与えただろうと思うのですが……満祐にとっては「特に落ち度のない俺の家を、公方様がめちゃくちゃにしようとしている!」としか思えなかったようです。
同時進行で、他の大名たちへの処断も続いてたからでしょう。

そして満祐は「やられる前にやらなければ!」と思いつめ、嫡子・赤松教康とともに将軍暗殺を計画した……というわけです。

嘉吉元年(1441年)、6月24日。

二ヶ月ほど前に終結した【結城合戦】の戦勝祝いとして、満祐は「私の屋敷で猿楽の宴を催したいと思うのですが、公方様に御成りいただけませんか」と、義教を招待しました。

江戸時代にもたびたび出てきますが、将軍が家臣の家に行く「御成り」は、その家にとって名誉なこと。
お偉いさんたちにとっては年間行事みたいなものでしたので、誰も何も疑っていなかったと思われます。

また、「我が家で珍しい鴨の子が生まれたので、泳ぐさまを見にいらしてください」という内容だった説もあります。

鴨は普通、日本では産卵しない(飛来するのは越冬のため)ので、これは専門家の間でもちょっとした謎になっているようです。

「鴨の卵を入手して鶏に温めさせて孵化した」
「実はアヒルだった」
というように様々な推測がされています。

鴨・アヒル・ガチョウは近縁種なので、実際には鴨でなく他の似た鳥だったのかもしれません。とはいえ、どれも日本で過ごす時期は越冬期で、産卵時期ではないというのは同じですが……。
シナガチョウ(紀元前2000年頃に中国で家禽化されたガチョウ)の雛でも輸入したんですかね。それなら野生よりは多少手に入りやすいでしょう。

 

ざっくり見積もって数十人~百人が赤松邸へ

閑話休題。
さて、将軍のお出かけとなれば、一人で身軽に……とはいきません。

護衛の面々はもちろん、他のお偉いさんもたくさん同行していました。
彼らについても簡単にご紹介しましょう。

【この宴に相伴した人たち】

◆武家
細川持之 管領
畠山持永 河内・紀伊・越中守護
山名持豊 後の宗全、応仁の乱の当事者の一人
一色教親 丹後国・伊勢国(北半分)守護
細川持常 相伴衆、阿波・三河守護
大内持世 周防・長門・豊前・筑前守護
京極高数 山城・出雲・隠岐・飛騨守護
山名熙貴 石見守護
細川持春 伊予国宇摩郡守護
赤松貞村 義教のお気に入り

◆公家
正親町三条実雅 義教の正室・正親町三条尹子の兄

それぞれにお付きがいたでしょうから、この日の赤松邸にはざっくり見積もって数十人~百人以下くらいの客が訪れた、というイメージでいいかと。

この面々が猿楽を鑑賞していたとき、いよいよ満祐の計画が始まりました。
庭に馬が放たれ、門が一斉に閉じられたのです。
「突然馬が暴れだした」という名目で、門を閉ざしたという説もあります。

義教は当然訝しんで「何事か」と叫んだとか。
義兄にあたる実雅は「雷鳴でしょう」とのんきに構えていたそうで。さすが公家というかなんというか。

しかし、悠長にしていられたのも束の間。
直後に隣室から赤松家の武士たちが乱入し、即座に義教の首が刎ねられます。上座にいたでしょうから、狙うのは簡単だったでしょうね。

当然その場は文字通りの血の海となり大混乱です。

 

抵抗する者も切り捨てられ

大名たちの多くが応戦もできず逃げ回っていたといいます。
情けないといえないこともないですが、そもそも大名自身が白兵戦をすることはないでしょう。

抵抗したのは山名熙貴、細川持春、京極高数、大内持世、正親町三条実雅などだったといいます。

熙貴はその場で斬り殺され、実雅はその場にあった太刀で応戦したものの、やはり斬りかかられて卒倒したとか。
京極高数と大内持世は抵抗したものの瀕死の重傷を負い、後日、亡くなりました。

細川持春は片腕を斬り落とされる重傷を負いながらも一命をとりとめ、寛正七年(1466年)まで長生きしております。
よほど手当をした人の腕が良かったか、生命力が強かったのか……両方ですかね。

庭では、将軍の警護としてやってきていた走衆と、赤松氏の武者たちが斬り合っていました。
その脇を通り、塀をよじ登って逃げようとする大名も。まあ、命が惜しいのは誰でも同じですからね。戦のときならある程度覚悟もできているでしょうけれども。

この辺で赤松氏の者が
「将軍が狙いなので他の者には危害を加えない」
と言ったため、騒ぎが収まったといわれています。
いやいや。この時点ですでに大量の被害者が出てますってば……(´・ω・`)

そして放した馬はどうしたんでしょう。
踏み潰されてる人もいると思うんですけど、そこが特記されてないあたり大丈夫だったのか、そもそも馬の件自体が狂言だったのか。

何はともあれ、当時その辺にツッコむ人はいなかったらしく(それどころではない)、そのまま負傷者を含め客は退出しました。

続きは次ページへ

次のページへ >



-鎌倉・室町時代, その日、歴史が動いた, 日本史オモシロ参考書

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.