wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた 日本史オモシロ参考書

【応仁の乱】はややこしい?全国の争いにも注目すると見えてくる本質

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将軍義政に跡継ぎが生まれてしまった

あっちもこっちもお家騒動をやらかしていた寛正六年(1465年)、ついに歴史が動きます。

将軍・足利義政に、長男・足利義尚が誕生したのです。

上述の通り、当初は弟・足利義視を九代将軍にすると言っていたのに、心変わりをした義政
実子に継がせたいと言い出し義視は激怒します。
ムリもありません。義視は再三、将軍職を断っていたのに、兄にゴリ押しされて僧侶から還俗してまで将軍継承を引き受けたのです。

足利義政/Wikipediaより引用

義視は細川勝元、義政……というか、その妻・日野富子は山名持豊を頼ります。

この辺りからですね。
将軍であるはずの義政が急速にヤル気を失い、さらに天災が続いたために民衆が困窮。
遡ること40年ほど前には史上初の土一揆正長の土一揆)も起きており、徳政令が求められるようになって大分経っているので、民衆サイドも力による解決をためらわなくなっておりました。

「借金、チャラにしいや~」
と迫る民衆。しかし、いつまでも徳政令が出ません。そこで待ちきれなかった彼らは【私徳政(勝手にチャラにする)】を盛んに行います。

こうした状況に対し幕府はすっかり諦め
「債務者が借銭の十分の一にあたる分一銭を幕府に納めれば債務を破棄される」
という【分一徳政(ぶいち)】を行いました。
でも、これって、幕府に金が集まることになるんですよね。

結果、土一揆を起こした面々は徳政を求めるのではなく、京都市内での略奪・放火をする暴徒へと変わっていってしまいました。
絵に描いたような社会不安。リアル北斗の拳とはこの頃のことかもしれません。

それでも幕府は京都の治安を回復しようとせず、これまでに記述したような権力闘争(物理含む)に明け暮れ、民衆の信頼はガタ落ちでした。

 

まだ義政も頑張っていたが、いよいよ開戦へ……

いったん、ここまでの関係をマトメておきましょう。

足利義政・日野富子・山名持豊・斯波義廉
vs
足利義視・細川勝元・斯波義敏

こんな感じです。

一応、将軍である義政もこの時点ではまだ完全には丸投げしていませんでした。
文正元年(1466年)に義政は、育ての親でもある政所執事・伊勢貞親の献言を容れ、斯波義廉を引っ込めて、大内氏に身を寄せていた斯波義敏を当主にしました。

しかし、「義視が謀叛を企てている」と義政に讒言したことがキッカケで、伊勢貞親は失脚。
連座して義敏も越前に逃れ、再び義廉が当主になりました。

仮にも三管領の一角である家がこんなにコロコロ当主を変えていたら、政局が不安定になるのも当たり前です。

それは当の本人たちもわかっていて、山名持豊・斯波義廉、そして細川勝元などが急いで兵を集めにかかります。さらに山名持豊らは、足利義政に畠山義就を赦免するよう迫り、義就の軍が入京します。

だんだん収集がつかなくなってきましたね。
いよいよ開戦です。

 

畠山政長が屋敷に火を付け神社に立てこもる

応仁元年(1467年)、持豊らは義政に
「管領を畠山政長殿から斯波義廉殿に変えてください(変えないとどうなるかわかってますね?)」
と迫りました。

義廉は先述の通り、持豊側の人です。
つまり、幕府の中枢において、勝元よりも持豊の勢力が強まったことになります。

政争に敗れた政長はこれを知ると、京にあった自分の屋敷に火を放って上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に立て籠り、義就に決戦を挑みました。

いよいよ応仁の乱スタート!

さすがにヤバイと思ったか。
足利義政は、細川勝元と山名持豊の二人に、この戦への介入を禁じましたが、既に命令を聞く二人ではありませんでした。

持豊が義就を大々的にバックアップして勝利し、実質的に京都を占領します。

むろん、細川勝元もここで引くようなタマではありません。

自分に与する守護大名たちに上洛と派兵を呼びかけ。最初に応じたのが赤松政秀でした。嘉吉の乱で一度滅亡同然になったあの家ですが、勝元が復興させていたのです。

政秀は勝元に与し、近所かつ旧領かつ持豊の領国である播磨を攻めて占領しました。彼にとっては願ったり叶ったりの展開だったかもしれません。

 

勝元陣営が各地で奮闘 しかし持豊も負けてはおらず

全国の勝元陣営はさらに奮闘します。

斯波義敏が越前の奪還に、武田信賢が一色義直の占拠する若狭に……と、かねてから遺恨のある相手に戦いを挑んで勝ち、山名方の勢力を削る戦略を次々に進めていったのです。
勝利を収めた彼らは、やがて大軍を率いて京に集まってきました。

勝元自身も、北陸・畿内・四国などの領国や、代々付き合いのあった京都周辺の武士たちを数多く動員できました。
それに従って兵站も確保しやすかったので、緒戦の段階では勝元方が圧倒的に有利だったといえます。

しかし、持豊も負けてはおりません。
その年の夏、国元の兵三万を京都に迎え、さらに西国の雄・大内政弘や伊予の河野通春などを味方につけました。

細川方は花の御所(将軍御所)に、山名方は堀川の西にあった持豊邸に本陣を置いたといわれています。

京都市街として見ると、細川方が東側、山名方が西側にあたります。
そのため前者を「東軍」、後者を「西軍」と呼ぶようになりました。

西軍の本陣付近は「西陣」という地名の由来でもあります。織物で有名なあのあたりですね。
なお、両軍の兵力は、東軍16万に対し、西軍11万といわれ、まさに大乱といった様相を呈しておりました。

戦いの炎が全国へ飛び火――というより全国の対立が京都に集結したような応仁の乱/photo by Masaqui wikipediaより引用

 

「守護大名たちの地元を突き、京都から連中を遠ざけよう!」

両軍はさらに、皇族までも味方につけます。
その辺も含め、あらためて対立構造を整理してみましょう。

【西軍】
足利義政・日野富子・山名持豊・斯波義廉&小倉宮(後南朝の末裔)
vs
【東軍】
足利義視・細川勝元・斯波義敏&後花園上皇・後土御門天皇

この時点で、戦況は一進一退をくり返してgdgdになっていたので、もうヤメれ!と言いたいところなんですが……。

すでに兵の統率も何もあったものではなく、京都市内では両軍の足軽によって補給線の切断、敵陣への放火、襲撃などのゲリラ戦が続きました。
民衆はたまったもんじゃありません。そろそろ「カオス」以外の形容詞が欲しい(´・ω・`)

文明元年(1469年)に入ると、細川勝元が戦略を変えてきます。

守護大名たちの地元を突き、京都から連中を遠ざけよう!」

なるほどナイス。
地元に帰らせれば京都は自軍にとって有利に……なるどころか、今度は北陸・中国・九州地方にまで戦線が広がってしまうのです。

九州では、大友氏・少弐氏が筑前をはじめとする大内氏の領地へ攻め込みました。
他には、越前・備後・安芸など、両勢力の大名が勢力圏を接する場所で戦闘が始まっています。あーあー。

当初の戦略としては正解だったのかもしれませんが、なんで「争いを起こさずに話をまとめる」ほうに使えなかったんですかね。
命の価値が薄い時代とはいえ、早く収まったほうが人も物も金も消費しなくて済むでしょうに……。

 

両軍の総大将が立て続けに病死だと!?

文明三年(1471年)、大事件が起きます。

西軍に属する斯波義廉の守護代・朝倉孝景が、細川勝元に応じて東軍に寝返ったのです。
斯波義廉にとっては「都で仕事をしている間に自分の家を取られた」みたいな感じですから、そりゃ大騒ぎになるわけです。

こうした流れを受けて、勝元の目論見通り帰国を急ぐ守護大名が相次ぎました。
ようやく戦略の効果が現れ始めたんですね。

しかし、このような状態の中、文明五年(1473年)3月に持豊が病死。さらにその二ヶ月後に勝元も病死という大事件が起きます。

決着がつかないまま両軍の総大将が亡くなってしまったのです。
これ以上のカオスがあるでしょうか。

まぁ、こういった展開ですと、普通は両軍に厭戦気分も出てきますよね。
『もう、いい加減、お互いに帰国しようよ』みたいな。

しかし、この後も東軍は畠山政長と赤松政則、西軍が畠山義就と大内政弘を大将としてgdgd戦闘を続けました。
もはや「先に謝ったら負け」な考えになっているのです。

こんなときは天皇から「お前らもうやめなさい」と勅令を出してもらうのが最も早い解決方法。
しかし、すでに皇族が巻き込まれており、朝廷の権威も失墜していたためなのか、誰もそういった手段を進めてなかったようです。
一番いいのは、将軍なんですけどね。
ポンコツ化していた義政には、どだいムリな相談でした。

 

大切な記録も美術品もことごとく焼けてしまう

結局、このgdgd状態は、文明九年(1477年)まで続きます。

畠山義就が河内に兵を引いたのをキッカケに、畠山政久や諸大名もそれぞれ領国に引き上げ、一応、応仁の乱は終わったことになります。戦とセットになる【講和】などが行われていないため、なんともスッキリしない結末なんですけどね。

なんせ総大将の山名持豊と細川勝元が世を去ってから四年間もgdgdしていたことになります。長すぎだってば。

この乱で一番割りを食ったのは?
やっぱり京都の一般人でしょう。

戦火によって町の大半は焦土と化し、平安遷都以来の寺社も記録も美術品も、ほとんどが焼けてしまったのです。
「京都では『先の大戦』というと応仁の乱を指す」という都市伝説(?)がありますが、こんな状態になったのだから当然ともいえますね。しかもこの後も焼かれるんですから、いっそ町の原型が残っていることが奇跡的です。

足利義政は存命中、将軍の権威回復どころか京都の復興すら実施しませんでした。

そのせいで幕府は名実ともに形骸化の極み。
三管領の畠山氏も細川氏もさらに身内争いを繰り返し、治安は乱れきった状態で固定されてしまいます。

むしろ、義政より足利義尚のほうがこのあたりに対してはなんとかしようとしていたのですが、あまりにも袋小路過ぎて解決方法が見つからず、遂には【酒】にのめりこんで若死にしてしまいます。
その後の将軍たちも、やはり身内争いが原因で京都を出たり入ったりするばかりで、腰を落ち着けた人はいませんでした。

地方でも、守護大名が留守にしている間に家臣が反乱を起こしたり、国人と呼ばれる武士が力をつけて自治体制を作ったり。
いよいよ戦国時代の幕開けとなるのでした。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「応仁の乱」
応仁の乱/wikipedia

 



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