大内義隆/wikipediaより引用

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大内義隆45年の生涯をスッキリ解説!なぜ西国一の大名は陶晴賢に滅ぼされたか

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戦国大名として名を知られた一族には、大きく分けて3つのタイプがあります。

①歴史の表舞台へ一気に出た家

②元は名門だったが没落・滅亡してしまった家

③生き延びて江戸時代も続いた家

①のパターンは、北条早雲に始まる後北条氏や、美濃の斎藤道三で知られる斎藤氏。

②は武田信玄の武田氏や、朝倉義景の朝倉氏など。

③は細川氏や、その他多くの家……といったところでしょうか。

一族が細分化されるなどして、いくつかのパターンが重なるケースも見受けられます。

今回は②のケースに当てはまる家のうち、なんとも悲しい逸話を含んでいる【大内義隆(よしたか)】を見たいと思います。

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中国地方と九州の数カ国に影響力

大内氏は、日本の大名には珍しく、渡来人の末裔を自称している家です。
義隆の代には中国地方で数カ国に影響力を持つ、かなり抜きん出た存在になっていました(勢力範囲は次段落で詳細を掲載)。

父親は大内義興。
母親は長門守護代・内藤弘矩ないとうひろのりの娘で、義隆は1507年に生まれてます。

大内義興/wikipediaより引用

義興は【明応の政変】のときにチラッと名前が出てきましたね。

母方の祖父である内藤弘矩は、
「義興の家督相続に反対し、異母弟の高弘を推している」
と讒言されて誅伐されてしまった人です。

しかし後日、弘矩の無実が発覚したため、責任を取る形で義興は弘矩の娘・東向殿を正室に迎えたのだそうで。
これ、内藤家や東向殿からすると地獄絵図ですよね……戦国時代にはよくあったことですが。

とはいえ、東向殿は実に穏やかな女性で、夫婦仲も悪くはなかったようです。
子供もたくさん生まれています。

となると家督争いのかほりがしますが、義隆は男きょうだいがおらず(一人いたけど早世した)、姉妹ばかりだったので、跡継ぎに関するトラブルはありませんでした。

衛生・医療環境の良くなかった当時、これは大名家としてなかなかのギャンブルなのですが、義隆は無事に成長。
17歳以降は父と共に安芸へ出陣しています。

毛利元就の地元としてお馴染み、現在の広島県あたりですね。

 

家がデカすぎ 代替わりごとに粛清していた

このころ大内氏にとって邪魔だったのが尼子氏。
出雲から山陽地方に進出しようとしており、ちょくちょくぶつかり合っていました。

が、決着がつかないまま、享禄元年(1528年)12月に父・義興が亡くなり、義隆が家督を継ぎます。

この時点で【石見・安芸・周防・長門・豊前・筑前】の守護と、左京大夫への叙任を受けました。

九州北部から中国地方にかけて大勢力を築いた大内氏

実は大内氏では、代替わりの際に親族・重臣の粛清が常態化していたのですが、義隆のときはそもそも家督を争う男兄弟がおらず、重臣の中にもそれらしき人がいなかったようで、穏やかに済んでいます。
それが後々に響いてくるのですが……まあ、時系列順に見ていきましょう。

上記の通り、当時の大内氏は中国地方西部~北九州にまでまたがる大大名です。

各地方は、それぞれ守護代たちが

周防守護代・陶氏
長門守護代・内藤氏
豊前守護代・杉氏
石見守護代・問田氏

◆山口(周防長門)-大内氏本拠

という感じで治めていました。

周防と長門は本拠地である山口があることもあって、比較的安定していたのですが、石見などいささか不安定な地域ももちろんあります。
さらに、上記の世襲領主たちも決して忠実とは限らず、大内氏としては悩みのタネでした。

かといって一族の人間だけを配するのにも限りがあり、足元を手薄にしすぎるのも考えものです。

まぁ、いつの時代も上下関係で信頼感を築くのが難しいのは常ですよね。
中間管理職みたいなものです。

しかもトップで全国に睨みを利かせるべき将軍家は常に家督争いを繰り広げている状態ですから、大内氏のように数カ国を持つ大名は、自分で自分のシマをきちんとシメなければなりませんでした。

だからこそ、代替わりごとに粛清していたという面もあります。
乱暴な気もしますが、他に方法がないですからね……。

もちろん「お前謀反を企んでるな? ブッコロ^^」(超訳)だけでは恐怖政治になってしまい、崩壊するだけ。
費用や人命損耗もバカにできません。

そこで大内氏は、上記のような守護代たちを山口に常住させ、大内氏本体の中核を担わせました。
そして国元のことは、守護代のさらに代官にあたる人にやらせています。

室町幕府と守護大名の関係に似ていますね。

江戸時代でいうなら、水戸藩みたいな江戸常在の大名がちょっと似ているでしょうか。
こういうふうに、「何か似てる」ポイントを見つけるのも楽しいですよね。……え? 楽しくない? そっか(´・ω・`)

 

北九州の少弐氏を追い詰めて

次は、義隆本人が何をやっていたのかを見ていきましょう。

最初のうちは、北九州攻略を目標にしていました。
大内氏は大陸と貿易をして巨万の富を築いてきたので、海路の途上にある北九州をできれば自分のシマにしておきたいわけです。

仮に、もしこの辺でよその家同士の戦が起きて長引きでもすれば、大内氏の地元に影響がなくても経済的に大打撃を喰らうリスクがあります。
応仁の乱】以降、大内氏を頼って身を寄せていた公家や商人も多かったので、彼らへの面子も保たねばなりません。

大大名であるだけに領国経営のためにもお金やモノは必要……ということで、大内氏の場合は金策も大きなウエイトを占めていたのです。

北九州における戦の相手は、主に少弐氏(しょうにし)でした。

少弐氏は筑前・肥前の大名で、藤原北家の血を引く名門です。
元は平家方でしたが、【一ノ谷の戦い】で源氏に投降して御家人となり、九州に根付いた家です。九州の大名はそういうところが多いですね。

そして元寇鎌倉幕府倒幕の際も活躍するのですが、室町時代からは大内氏に圧迫されつつあり、一族の多くが戦死、あるいは肥前に押し込まれて滅亡ギリギリでした。

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大内氏は九州の喉元ともいえる大宰府も押さえており、少弐氏の完全滅亡によって北九州制覇を狙っていたというわけです。

当然、少弐氏は反発します。
大内氏からするとそれはウザい。
そこでまた戦が起こる、という流れです。

 

大宰大弐の官職で大義名分をゲット!

義隆は、肥前で有力な水軍を持っていた松浦党を傘下に入れました。
北九州海域を勢力下におさめ、貿易ルートを確保したのです。

それでも細々と残っていた少弐氏を排除するため、義隆は違うアプローチをしはじめます。

これは義隆に限ったことではなく、金と領土が手に入ると、次に欲しくなるのが名誉です。
元から彼は、太宰府No.2である【大宰大弐】の官職を欲しがっていましたが、朝廷から簡単には許可が降りず、焦れてもいました。

そこで義隆は、後奈良天皇の即位式費用を献金するなどして、さらにゴマすr……お願いを重ねます。

天文五年(1536年)5月。
長年の活動がやっと実を結び、大宰大弐の官職をゲット!

後奈良天皇は嫌がっていたようですが、朝臣に説得されて折れたようです。

後奈良天皇木像

これによって義隆に大義名分ができたので、同年9月になると少弐氏を攻め、結果、滅ぼすことに成功しました。

ちなみに、この翌年には十二代将軍・足利義晴から
「上洛して幕政手伝って♪」
と言われていたのですが、義隆は
「ウチ国元が忙しいんで行けません^^」
と断っています。

すでに形骸化した幕府のために働くより、地元を発展させたほうが自分の家のためだと判断したのでしょう。賢明ですね。

あるいは、大宰大弐の官職を得た時点で
「俺はもう朝廷に認められたんだから、幕府なんかどうでもいい」
と思っていたのかもしれません。

実力でいえば朝廷のほうをナメてもおかしくはないのですが、そこはそれ、権威というやつです。……多分。

 

あの毛利も傘下におさめていた

天文九年(1540年)からは、安芸の毛利氏に攻めかかっていた尼子軍を追い払うため、毛利氏に加勢します。

吉田郡山城(現・広島県高田郡吉田町)を取り囲んでいた尼子軍に対し、その外側からつついて撤退させました。
実際に出向いたのは陶晴賢などですね。

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また、翌年には厳島神主家の友田氏を滅ぼして桜尾城を手に入れ、さらに佐東銀山城さとうかなやまじょうを陥れて安芸守護家の名門である安芸武田氏を実質的に滅ぼし、同エリアの領国化をほぼ完成させています。

毛利元就が大内氏の傘下にいた頃、と考えてもいいかもしれませんね。

イラスト・富永商太

これらの戦績もあって、天文十年(1541年)の年末には従三位に昇格、公卿の一員となりました。

戦国時代は好き勝手に官位を名乗っていた大名や武将が多かったことで有名ですが、義隆は正式に朝廷から任じられたものです。

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こうして名実ともに抜きん出た義隆は、この機会に尼子氏を完全に討伐してしまおうと考えました。
大内氏にとっては運良く、このころ尼子氏では謀将と名高い尼子経久が亡くなっており、力も弱まったと考えられたようです。

家中からも賛成の声に押され、天文十一年(1542年)正月、自ら率いた尼子討伐軍が出発。
今日では【第一次月山富田城の戦い】と呼ばれる戦が始まります。

このとき、安芸から出雲に向かうルートを使っており、備後や石見の豪族たちも従軍しています。
当時の義隆の威光がうかがえますね。

大所帯かつ途中で厳島神社に寄って戦勝祈願などもしていたので、出雲に着いた頃には既に4月頃。

しかし、尼子氏の本拠である月山富田城に着く手前の城攻略に1ヶ月以上を費やしてしまい、月山富田城の手前に本陣を置いた頃には既に10月になってしまいました。
旧暦の10月ですから、そろそろ冬が見えてくる頃合いです。

 

天然の要塞とゲリラに悩まされ、攻略に失敗

月山富田城は、天然の要害をさらに要塞化したような場所でした。
加えて、尼子軍はゲリラ戦術も取り入れ、そう簡単には揺らぎません。

そもそも、城攻めは城方が有利なものですし、本拠であればなおのことです。

富田月山城絵図/wikipediaより引用

大内軍の旗色の悪さを悟った豪族たちの中からは、天文十二年(1543年)4月末に尼子軍へ寝返る者も出始めました。

このままでは攻略ムリ!と見て、義隆は5月7日に撤退を始めさせます。

しかし、撤退戦が難しいのは戦の定番。
尼子軍の追撃は激しく、大内軍は総崩れギリギリのところまで追い詰められます。

しかもこのとき、義隆と別行動・海路で撤退しようとしていた養嗣子の大内晴持(甥・姉の息子)が、船の転覆という事故で水死してしまうのです。

なんでも「水に落ちた兵が船に乗り込もうとするのを、船上の漕手が棹で払い落とそうとして、バランスが崩れた」そうです。なんじゃそりゃ!
こうして義隆の尼子征伐は大失敗に終わりました。
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