ピラミッドの戦い/wikipediaより引用

フランス その日、歴史が動いた

ナポレオンのエジプト遠征~戦果は散々だったけど文化的には結果オーライ?

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英雄の条件といえば、戦争に勝つこと。

いや、戦争に勝ち続けた人が後々”英雄”と呼ばれるようになる、といったほうが正しいですかね。

1799年(日本では江戸時代・寛政十一年)10月9日、エジプト遠征に行っていたナポレオンがフランス・パリへと帰還しました。

フランスから見てエジプトは、地中海の向こう側。
しかも砂漠と遺跡・歴史以外、何もないように思われるところです。

英雄は、なぜ攻め込んだのでしょうか?

 

エジプト遠征の先にあったのは英国のインド

実は、お約束?のイギリス対策でした。

当時イギリスは既にインドを植民地化しており、エジプト他中東付近を通って連絡を取っていました。
スエズ運河は開通していませんでしたが、それが最短距離だったのです。

インドから綿織物を大量に輸入したり、政治的な書簡のやり取りもあったことでしょう。

イギリス本国を攻めるには手間がかかりすぎると判断したナポレオンは、せめて経済力を削ぐことを狙い、あわよくばインドを手に入れるためにエジプトを攻めたのです。いつものことですが地元民大迷惑やな。

エジプトは、当時オスマン帝国の領土になっていましたが、支配を受け始めて三百年ほどの間に半ば自治国化。
軍事も自分達で行っており、マムルークと呼ばれる元奴隷の外国人傭兵たちがいろいろな意味で幅を利かせていて、エジプト人を支配していました。

ナポレオンはここに目をつけました。

フランス革命が”王族その他特権階級から民衆を解放する”という名目でしたので、「エジプトでも民衆が苦しんでいる! 俺たちが助けてあげるよ!」(超訳)という大義名分を掲げたのです。
本音は前述の通りですが、イメージ戦略というやつですね。バレバレだけど。

 

真夏のエジプト マムルークたちとの大会戦でWIN!

そしてご苦労なことに、1798年7月、わざわざ真夏のエジプトへやってきたのでした。
なぜもっと攻めやすい時期に来なかった……。

カイロのナポレオン/wikipediaより引用

とはいえそこは”英雄”率いるフランス軍ですから、アレクサンドリアなどの都市を順調に落としていきます。後のロシア戦役の苦戦っぷりを考えるとホント雲泥の差というか何というか。

ピラミッドで有名なギーザ付近でも、マムルークたちと大会戦を行い勝利しています。

このときナポレオンは「諸君、四千年の歴史が君たちを見下ろしているぞ!」と言って士気を上げたとされていますが、初出はこのときの記録ではなくセントヘレナ島に流された後の回想録らしいので、おそらく脚色でしょうね。

余談ですけども、ナポレオンって結構言葉選びが綺麗というか文学的な才能も感じますよね。
ジョゼフィーヌへのラブレターはpgrされてましたけど。

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カエサルもそうですが、フランスに行った軍人は文学が得意になるんでしょうか。
さすが芸術の国。

 

イギリス艦隊にボコられ壊滅 補給ができない\(^o^)/

フランス軍は首都・カイロも占領し、エジプト上陸から三週間という驚異的なスピードでほぼ全土を征服します。
しかし、それだけでは終わりませんでした。

目の敵であるイギリス艦隊によってフランス艦隊を壊滅させられてしまい、補給・連絡・退路を奪われてしまったのです。

マムルークたちもやられてそのまま黙っているわけはなく、再起のタイミングを狙っていました。

ナポレオンは当初の名目を信じ込ませるため、アラビア語で「俺らは味方だから、みんな協力してくれよな!」(超訳)というビラを撒いておりました。
当然のことながら、やられたほうは、そんなキレイゴト信じるわけがありません。

そして、フランス軍がカイロに入ってわずか三ヵ月後――フランス兵が300人も殺されるという大暴動が起きてしまいます。

しかもこれを鎮圧するためにエジプト人を2500人をブッコロしてしまい、モスクなど大切な建物も破壊してしまったので、民心はどんどんフランス軍から離れていきます。
自分達だってキリスト教バンザイなくせに、エジプト人にとってイスラム教がどれほど大事かってことがわからなかったんでしょうか……いや、理解する気がなかったんでしょうね。

他にもイスラム教的にも政治的にも反感を買うことばかりやってしまい、フランス軍は徐々に苦しい状況に陥っていきます。

その間、ヨーロッパの情勢は動き始めていました。

 

アジアとヨーロッパの境目には何がおるんや!?

ナポレオンの時代――。
イギリス・オーストリア・ロシアなどがフランスを囲い込むため何度か同盟を組んでおり、そのメンツがフランスへ攻め込み始めたのです。

一方エジプトではペストが流行り始めており、本国が危ういと聞いたナポレオンは中東方面の攻略を断念し、帰国を決意します。

ペスト患者を見舞うナポレオン/wikipediaより引用

傷病兵をほったらかしにして逃げたも同然だったので、現代では「味方を見殺しにして何が英雄だ!」という意見もあります。そりゃそうだ。

これまた余談ですが、アレクサンドロス大王も東方への遠征中に熱病で亡くなったといわれていて、
「二人の英雄が病気によって東方への進路を阻まれた」
と考えると奇妙な偶然ですね。

ペストはモンゴル帝国がヨーロッパへ侵攻したときに持ち込まれたともいわれていますし。

単なる偶然というよりは風土の違いや抵抗の有無によるものなのでしょう。
アジアとヨーロッパの境目にはそういう神様でもいるんでしょうか。ちょっとオカルトすぎるか。気候や地理が影響しているんでしょうね。

そんなわけで、フランス軍は戦争には勝ったものの、ほとんど戦果のないままエジプトを去ることになってしまいました。

 

副作用でロゼッタ・ストーンや王家の谷を発見!

しかし、人類としては大きな収穫を得ています。

それは何かといいますと、エジプト文明の再発見です。

ナポレオンは遠征に際して科学者や建築家、数学者など調査団を連れて行っていて、彼らがロゼッタ・ストーンや王家の谷、カルナック神殿など多くの史料や遺跡を初めて学術的に記録しました。

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非戦闘員の代表ご一行様を戦地へ連れて行くのが不思議な気もしますが、「四千年の歴史が~」なんて台詞を思いつくくらいですから、ナポレオンはエジプトの文化や文明に対してある程度興味や尊敬の念を持っていたのでしょう。実家はイタリア貴族ですから、元からそれなりの教養はあったでしょうし。

軍人としての才能は疑うべくもありません。
しかし、学問の道に進んでいたほうがナポレオン個人としては幸せになれたのかも……。

引き替えにフランスという国がどうなっていたかわかりませんが。

長月 七紀・記

【参考】
エジプト・シリア戦役/Wikipedia

 



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