足利義輝/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた 剣豪・武術・忍者

永禄の変って実は戦国インパクト大!三好三人衆に襲われ、剣豪将軍、刀で応戦

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室町時代の「変」や「乱」って、ほとんどが将軍権力の奪い合いです。

むろん各大名家の家督争いなんかも含まれますが、基本的には「次の将軍は○○だろ!」という軸があり、その周囲に別の権力集団が群がるカタチですね。

そこで、こんな風に思ったりしません?

この頃の将軍って弱すぎ。
ヤル気あんのか……と。

本日は、そんな既成概念をぶっ壊す「永禄の変(1565年)」に注目です。

1565年と言えば、もはや完全に戦国時代であり(桶狭間の戦いが1560年)、その中でも凄まじさランキングでは上位に入るのではないか?という将軍の最期。

何がインパクト大か?
って、将軍の足利義輝自ら、刀を握って敵襲に応戦し、そして壮絶に討ち死にするところでしょう。

本稿では、前後の政治史や時代背景を押さえつつ、振り返ってみたいと思います。

 

将軍の生命すら懸念されるカオス

1467年に始まり、京都を火の海にした【応仁の乱】。

細川政元の手により将軍がすげ替えられた1493年の【明応の政変】。

この両事件をもって日本は引き返すことのデキない戦国時代へ突入したとされ、室町幕府では将軍の生命すら懸念されるカオスに脅かされておりました。

むろん、足利将軍家とて手をこまねいているばかりじゃありません。

何とかして自分たちの地位を安定させたい――そのために十二代将軍・足利義晴も、失われた権威と実権を取り戻すため、本来は味方であるはずの管領・細川氏も含めて戦い続けていました。

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永禄の変の加害者側となる三好氏は、もともと室町幕府の管領を担ってきた細川氏の家臣筋です。その細川氏が政元以降、当主と管領の座を巡って分裂しまくり、三好氏はその戦のために畿内を転戦していました。

しかし、細川晴元が管領の地位に落ち着くと、三好氏の力はかえって邪魔になります。

そして享禄五年(1532年)6月。
当時の三好氏当主である三好元長は【飯盛城の戦い】で、晴元と手を組んだ一向一揆に敗死してしまいました。

さんざん利用しておいてヒドイ……でも、これが戦国なのよね……。

 

長慶が新当主 いったんは細川と和解するものの……

当主を失った三好氏は代替わりし、元長の息子である三好長慶が当主となりました。

まだこの時点では元服も済ませていないような少年でしたが、早くから頭角を現し、細川晴元軍とも戦います。

その後は晴元が
「長慶はまだ若年だし、今帰参するなら許してもいいよ」(超訳)
という態度を取ったため、長慶はこの話に乗って細川氏へ戻りました。

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その後、長慶が晴元の武将として働いていると、領地問題でちょっとしたトラブルが起きます。

長慶の父・元長が生前与えられていた河内の代官職を長慶が望むと、晴元が聞き入れなかったのです。

元長の死後、この職には同族の三好政長が就いていました。
この両者(元長と政長)、三好家内でも非常に仲が悪く、政長が度々晴元に「元長の野郎、こんなことを企んでますよ!」といった讒言をしていたといわれています。

そんな人が一度手に入れた職をそう簡単に譲るはずもありません。
晴元からしても、ここであっさり長慶に代官職を与えてしまったら、今度は政長から恨みを買うことになります。

晴元や政長はそんな感じでナァナァにしたがりましたが、長慶は納得しきれません。そりゃそうだ。

 

六角氏の仲介で和議が成立する

かくして、間にいくつかの別件を挟んで天文十八年(1549年)、長慶は政長を討ち取ります。

これを危惧した細川晴元は、前将軍・足利義晴と十三代将軍・足利義輝を連れて近江坂本へ逃げました。
事実上の人質です。

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しかしその間に、今度は長慶が京都を掌握し、実質的には政権交代が起きるのです。

晴元から見ると
「将軍を人質にして優位に立ったと思ったら、力がなさすぎて意味がなかった」
という感じになります。あぁ、涙目。

ここからしばらく、近畿を手中に収めた長慶と、京都に戻りたい義輝&晴元の対立が続きます。

権力的には長慶が有利。
戦力的には近江守護・六角氏を味方につけた足利義輝らに有利でした。

そして永禄元年(1558年)、六角義賢の仲介で、やっと和議が成立します。

和議は、長慶が以下の条件を受け入れること。

・晴元が隠居すること
・細川氏の家督は親戚の氏綱が継ぐこと
・晴元の息子聡明丸(後の昭元)を幕府の中枢に据えること
・義輝の上洛

これで公的には足利義輝の側近となり、一応、話も丸く収まったかに見えました。

 

次々に身内が脱落し、そして長慶自らも

先に動いたのは細川晴元でした。
晴元が再び挙兵すると義輝も呼応し、再び三好長慶と対立します。

一方の長慶は、自身の病気に加え、弟の十河一存と三好実休、そして嫡男・三好義興など、身近な親族を立て続けに亡くし、その影響なのか、徐々に判断力を失っていきます。

残っていた弟の安宅冬康も、家臣からの讒言で自害。
実に、長慶の居城・飯盛山城に呼び出されての死となりました(長慶により殺害されたという説も)。

次々に親族が死にゆくなか、永禄七年(1564年)には長慶自身もついにこの世を去ります。

この間、足利義輝は、全国の戦国大名へ合戦の調停を行なったり、幕府の役職を与えたりして、権威回復に努めていました。

特に、三代将軍・足利義満以来、ほぼ伊勢氏が独占していた政所執事の座を奪い、義輝の義理のイトコにあたる摂津晴門に同職を与えたことは、将軍親政の足がかりとなりました。

政所は室町幕府の財政と領地関係の訴訟を扱う役所です。
将軍の権力や統治と密接に関わっていますね。

義輝からすると、何をやるにしても、ここをおさえなければいけなかったワケです。

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三好や松永を恐れて逃亡なんてもってのほか!

足利義輝の行った親政は、当人にとっていいことばかりじゃありません。
特に、残った三好一族の危機感を強めてしまったのは、結果的に失敗でした。

長慶亡き後の三好氏では、長慶の甥・三好義継が当主になっていたのですが、彼は若すぎて実権は皆無に等しい状態。
三好三人衆と呼ばれる重臣三人と松永久秀が中心となっておりました。

彼らは当然ながら義輝を敵視し、
「あの将軍、くそウゼーな、ブッコロそうぜ」(超訳)
という方針を固め、さっそく動き始めます。

義輝側でも不穏な空気を感じておりました。
二条御所の堀や土塁を強固にするなど、いざというときに備えます。

ルイス・フロイスの「日本史」によると、永禄の変前日、義輝は一旦京を離れようとして、御所から出ていたそうです。

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しかし、義輝の近臣たちが「三好や松永を恐れて逃げ出すなんて、将軍の権威を失墜させることになる」と大反対。
義輝も死出の旅の伴をする気満々の彼らに対し、「それでも俺は逃げる!!」とは言えず、御所に戻っています。

こんな流れだと、なんだかその人たちが義輝暗殺に一枚噛んでいそうな気さえしますが、乗り込まれた後の行動を見るとそうでもなさそうです。

現代の我々からすると
「権威のために命を捨てるとか本末転倒じゃね?」
と言いたくなってしまいますがね。

そこは当時の価値観ですから……。

 

「征夷大将軍が兵を直接率いて戦った」稀有な例

かたや三好三人衆と松永軍は、当時行われていた御所の門の改修が済む前に決着をつけてしまおうと考えました。

清水寺の参詣を名目として、約1万の兵を率いて市中に入り、一気に御所へ。
「将軍に訴訟あり」と偽って、取次を求めました。

訴訟自体は事実だったとする説もありますが、この直後に攻撃を開始しているので、その可能性は低そうです。

義輝は、既に完全に包囲されたといっていい状況でしたが、近臣たちはよく応戦しました。

十数名で三好方の数十人を討ち取ったそうですから、単純に考えて一人で二人以上倒しているわけで、士気の高さがうかがえます。
その力は、もっと別の機会に発揮したほうが良かった気がしますけどね。

彼らの抵抗は、将軍を守るためというよりも、名誉を保たせるための時間稼ぎだったのかもしれません。

まず側近の一人・進士晴舎(しんじ はるいえ)が、敵の侵入を許したことの詫びとして、義輝の御前で切腹しました。

義輝はその後、近臣たち一人一人と最後の盃を交わし、三十名ほどを率いて自ら討って出たといいます。

これが日本史上稀に見る
「征夷大将軍が兵を直接率いて戦った」
瞬間でもありました。

義輝自身も剣豪・塚原卜伝に教えを受けていたとされるだけあり、自ら薙刀を振るい、その後、手元にあった刀で応戦したといわれています。

このとき「名刀を畳に予め突き刺しておき、切れなくなっては次々に持ち替えていた」という図で語られることが多いのですが、おそらくや後世の脚色でしょう。

まあ、この状況で
「鞘から出してすぐ使えるようにする」
「それでいて自分が怪我をしにくい状態を保つ」
を兼ねるには、畳に突き刺すのがベストといえないこともありませんけれども。

また、このとき現代でも国宝となっている名刀中の名刀「三日月宗近」を義輝が使っていた、という話もありますが、これも確実な史料ではないようです。

現在残っている三日月宗近の刀身からすると、このような荒っぽい状況で使われてはいなさそうです。
そもそも、三日月宗近は伝来にはっきりしない部分が多いため、義輝が持っていた可能性についても確定はできないそうで。

 

義輝の家族も、多くが乱の被害者となり

このように奮戦した義輝主従も、やはり多勢に無勢というもの。
当日、在京していた公家の山科言継の日記「言継卿記」によれば、この日の正午過ぎあたりには側近が全員討死あるいは自害し、義輝も自害したといいます。

ちなみに主犯の一人とされる松永久秀は、永禄の変当日は京都ではなく大和にいたそうで。

足利義昭の書状からすると、久秀個人としては将軍家に対して手荒なことをするつもりはなかったようです。
完全に冤罪ですね。

義輝の家族も、多くがこの乱の被害者となりました。

・義輝の弟 鹿苑院院主・周暠(しゅうこう)三好方に殺される

・義輝の母 慶寿院(近衛尚通の娘にして十二代将軍・足利義晴の正室)自害

・義輝側室 小侍従(進士晴舎の娘)義輝の子を身ごもっていたため殺害される

義輝の正室である近衛稙家の娘は、実家の近衛家へ送り届けられました。

また、義輝のもう一人の弟であり、当時は興福寺一乗院の門跡を務めていた覚慶(後の足利義昭)も助かっています。
二ヶ月ほど軟禁状態に置かれた後、細川藤孝やその兄・三淵藤英らに救出されるという流れでしたので、なかなか大変でしたが。

このあと義昭は、六角氏や若狭武田氏などを頼って転々と移動し、朝倉氏の元へ身を寄せることになります。

 

次はお約束とばかりに松永の排除始まる

こうして邪魔な義輝を片付けた三好三人衆と松永久秀。
お約束とばかりに、その後は、仲間割れを始めます。

彼らは11代将軍・足利義澄の孫・足利義栄を14代将軍として担ぎ上げていたのですが、この時点ではまだ朝廷も対応を決めかねていました。
つまり、まだ神輿が定まってもいない状況でケンカを始めているわけで……お前ら、何しよんじゃ(´・ω・`)

三好三人衆は年若い三好氏の当主・三好義継の名のもとに、松永久秀の排除を計画します。
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