アジア・中東

親日国トルコの首都が国際都市イスタンブールではなくアンカラになった理由

首都は国の顔のようなもの。

しかし、その顔よりも他の商業都市のほうが有名な例はたくさんありますよね。

【アメリカ合衆国】
→首都はニューヨークではなくワシントンD.C.

【オーストラリア】
→首都はシドニーではなくキャンベラ

【ブラジル】
→首都はサンパウロではなくブラジリア

今回の注目は、そんな感じで首都を盛大に勘違いされる国の一つ。

1923年(日本では大正十二年)10月13日、トルコ共和国が首都をアンカラに定めました。

トルコで一番有名な都市といえば、なんといってもイスタンブール!
東ローマ帝国・オスマン帝国時代を通しても首都であり、政治的にも宗教的にも大昔からの大都市でした。

ではなぜ、わざわざアンカラにしたのでしょうか……。

 

オスマントルコとトルコ共和国は違う

ポイントになるのは、オスマン帝国とトルコ共和国は全く違う国だということです。

”帝国”と”共和国”というだけでも、国のトップの役職以外に異なる点が数多くあります。
辞書みたいな話になってきますが、ザックリまとめていきますと。

まず”帝国”は、複数の国家を支配下に置いている大きな国のことを指します。

植民地をたくさん持っていると言い換えてもいいでしょう。
第二次世界大戦までのイギリスがそうでしたね。

オスマン帝国も同様に、ヨーロッパを除いた地中海沿岸・中東でさまざまな国を支配していました。
トップは必ずしも皇帝ではなく、宗主国が王制の場合は王・女王ということもよくあります。ヴィクトリア女王とか。

ちなみに、日本がなぜ帝国だったかというと。
古代では東北の蝦夷えみしや九州の隼人はやとという別の「国家」を支配したということ(名目的ではあっても)、近代では琉球りゅうきゅう、北海道の蝦夷えぞ、そして朝鮮半島など。

朝鮮も一時期、大韓帝国を名乗りますが、これは「済州島」を別の国家と見立ててのこと、とされています。

 

君主のいない共和国

トルコに話を戻しまして、対する”共和国”は君主のいない国家という定義です。

よく誤解されていますけれど、大統領とか首相は「国民の代表」であって国の主ではありません。だから世襲ではなく、選挙で選ばれないとなれないんですね。……基本的には。
ちなみに台湾(中華民国)や韓国(大韓民国)の”民国”も同じ意味だそうで。へぇへぇへぇ。

ちょっとややこしい話ですが、”議会”は帝国でも共和国でも存在します。

議員が貴族だけなのか、あるいは庶民でも選挙で選ばれればなれるのか、はたまた君主・国民の代表とのパワーバランスなんかが国によって大分違いますけどね。

”君主”というと絶対王政のような「俺の言うことは何でも聞いて当然!」という状態をイメージする方も多いと思うのですが、実際の君主達は少なからず議会によって行動を阻まれたり、退位させられたりその他諸々の影響を受けていることが多いです。

他にもいろいろ相違点はありますが、どんどん本題から離れていってしまうのでこの辺にしときましょう。
話をトルコに戻します。

 

トルコ帝国 ついに20世紀で崩壊する

”瀕死の病人”と呼ばれるようになってから、100年以上持ちこたえていたオスマン帝国。
20世紀に入るとついに瓦解を迎えます。

第一次世界大戦の敗北で大きく領地を失った上、戦中に敵に通じるのを防ぐためとはいえ、アルメニア人虐殺などの大失策をやらかしていたことが大きな原因でした。

1915年4月、オスマン帝国軍の武装兵により追い立てられるアルメニア人/wikipediaより引用

お金も領地も民心も失った国家が、それ以上存続できる道理はどこにもありません。

最後の皇帝・メフメト6世は何とか帝国を保とうと努力しますが、彼以上に求心力・政治力に優れたムスタファ・ケマル・アタテュルクが中心となってトルコ人の議会を作ってしまうと、もはやどうにもなりませんでした。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク/wikipediaより引用

そして、このトルコ人議会が作られた場所がアンカラだったのです。

 

トルコ人の議会が置かれた場所、それがアンカラ

イスタンブールは腐ってもまだ皇帝のお膝元でした。
そこで新しい組織を作ったところであっという間に潰されてしまうに決まっていますからね。この議会を作る前後には内戦も起きています。

また、「俺たちは今日から新しい国家を作るんだ!」ということをわかりやすく示すためには、帝国の残り香が強いイスタンブールよりも、アンカラを新しく首都にしたほうが良いと考えたのでしょう。

帝国から共和国という大きな転換をわかりやすく示すには、国の顔である首都も変えてしまうのが一番だというわけです。

元々アンカラはイスタンブールほどではないものの、長い歴史を持った町でした。

紀元前189年にはローマ帝国の支配下にあり、劇場や公衆浴場、神殿といった大きな施設が作られています。
その後はイスラム教やキリスト教、モンゴル帝国と戦うときの軍事拠点として利用されることが多かったようです。

オスマン帝国の時代になって県都としての地位も得ましたが、内陸部のため気候変動が激しく、交通の便もよくないということで開発が遅れ、人口も数万人程度の小さな町のままでした。

そのぶん新しい国の首都を作るにはもってこいの場所となったのです。

歴史ある場所でないと他国にナメられますし、既に開発が進んだ場所だと人口増加対策や施設の充実のための建設計画が進めにくくなりますからね。
国土のだいたい真ん中あたりにあるということも、イメージ的に功を奏したかもしれません。

現在もアンカラはイスタンブールほどの観光名所や人口はありませんが、政治の中枢として開発が進んでいます。
いずれはイスタンブールを”古都”、アンカラを”新都”として肩を並べるようになるかもしれませんね。

東京と京都よりはちょっとだけ近いですし、鉄道でのツアーも組まれたりして?

長月 七紀・記

【参考】
アンカラ/wikipedia

 



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