エルヴィン・ロンメル/wikipediaより引用

ドイツ その日、歴史が動いた WWⅡ

連合軍に「砂漠の狐」と畏怖されたドイツの英雄ロンメルとは?

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「箱の中のりんごが一つ腐っていると、周りも全て腐ってしまう」

組織の腐敗などでよく使われる表現ですが、世の中には不思議な事に、真逆の現象が起きることもあります。
世界史上で最も嫌悪されているであろうあの組織にも、敵味方から非常に尊敬された人物がいました。

1994年(昭和十九年)10月14日は、ドイツ軍人のエルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメルが自決した日です。

モンスター揃いだった第二次世界大戦時のドイツ軍において、指揮官として才能を発揮した稀な人物でもあります。
こう書くといかにもそびえ立つような人物を想像してしまいますが、ロンメルはドイツ人男性としては小柄で166cmぐらいだったそうで。

三国時代の曹操といい、軍の指揮に優れた人は小柄な傾向があるんですかね。諸葛亮は背が高かったそうですが、どちらかというと政治家ですし。

しかし、そんな英雄も最期は自決するのですが、なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。

 

飛行機に憧れながらも19歳で軍に入隊

ロンメルは、ドイツ中南部のハイデンハイム・アン・デア・ブレンツという町で1891年に生まれました。

祖父と父は数学者であり教師でもあるという人物で、地元では尊敬されていたといいます。
母も地元の名士の娘なので、ロンメルは「王侯貴族ではないがいいところの生まれ」という感じでしょうか。

小さい頃は病気がちながら、元気な時はよく走り回って遊んでいたという、ごく普通の少年でした。
勉強には熱心ではなく、10代になってからいろいろなことに興味を持ち、親友と二人で実物大のグライダーを作ったこともあったといいます。残念ながら飛べなかったそうですけど。工作の才能はなかったのかもしれませんねw
当時は飛行機が登場したばかりの時代であり、幼いロンメルも大いに惹かれたと思われます。

そのせいもあってか、ロンメルは当初、航空機関連の仕事を希望していました。

しかし父親に反対され、19歳で軍に入隊。
ここで反対を押し切ってパイロットにでもなっていたら、第二次世界大戦は全く違う経過になっていたのかもしれません。

ロンメルは下士官として勤務した後、王立士官学校に進み、順調に経歴を重ねていきました。
この在学中に妻となるルーツィエと出会い、1916年に結婚しています。その一方で別の女性と娘をもうけたりもしているのですが……男心は複雑怪奇です。

 

第一次世界大戦ではフランス各地を転戦す

第一次世界大戦が始まったときには23歳になっていましたので、充分に戦線へ出られる年齢でした。

対フランス戦線に参加し、初めての実戦はベルギー・フランス国境付近のブレドという村だったといいます。

このときは前の日に丸一日偵察をさせられていた上、胃の調子が悪いにもかかわらず、上官に「軟弱!」と言われるのが嫌で黙っていたそうで。
どこでも根性論ってあるもんなんですね。って、軍隊でしかも戦時中なら当たり前か。

後に「砂漠の狐」と称される指揮能力を見せるロンメルも、このときはまだ新人士官の一人。
結果的には勝ったものの、体調不良で副官に指揮を任せた時もあり、自軍だけでなく民間人や牛馬を戦火に巻き込んだことで、かなり落胆したといいます。

その後は体調不良や疲労・負傷を抱えながら、フランス戦線各地を転戦しました。

この間、ドイツ軍もフランス軍も「自分から攻め込むより迎撃するほうが効果的」と判断し、塹壕戦が始まっています。

教科書で第一次世界大戦のことをやるとき、絶対に出てくるアレですね。
詳細を知ると悲惨すぎて、意識しなくても脳裏に焼き付くんですが、トラウマになるから授業ではやらないんですかね。

ともかくロンメルが優れた指揮能力を発揮し始めたのは、この頃からでした。

 

ドイツ軍人憧れの「プール・ル・メリット勲章」は……

ロンメルは、戦争で最も難しい後退を僅かな損耗で成功させ、当時のドイツで下から二番目の功労賞である一級鉄十字章を受章。
その後、新たに編成された山岳部隊に転属となり、スキー訓練などを受けた後、再びフランス軍と戦いました。

1916年からはルーマニア戦線とフランス戦線をたびたび移動しています。

この間一時的にドイツに戻り、ルーツィエと簡単に結婚式を挙げました。
時期が時期なので新婚旅行などは出来ませんでしたが、負傷で一時休養したときは一緒に過ごせたそうです。ヒューヒュー!

そして1917年秋からはイタリア戦線に転属。
この戦いでは「最初に要所を占領した部隊の指揮官にプール・ル・メリット勲章を与える」という餌がぶら下げられたため、ドイツ軍の士気は大いに高まったそうです。

プール・ル・メリット勲章とは、ドイツ(正確にはプロイセン)の最も偉大な君主とされるフリードリヒ2世が制定した、歴史と栄誉ある勲章のこと。第一次世界大戦で多くの軍人に授与されました……というか、戦間期に廃止されてしまったのですが。

プール・ル・メリット勲章/Wikipediaより引用

プール・ル・メリット勲章/Wikipediaより引用

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ロンメルはこの勲章について「部下を犠牲にしてまで欲しいものでもない」とも考えていました。
一方で、軍人としての能力を示すものが欲しいのもまた事実です。

そして夜間に偵察を行い、イタリア軍の隙を突いて襲撃をかけました。

が、部下に無茶振りをしていた他の部隊が先に要所を抑えてしまったため、せっかくの勲章はそちらに与えられてしまうという骨折り損なことになります。
お膳立てをしたのはロンメルの部隊なのに、それが無視されてしまったのです。

当然ロンメルは怒りながら、かといってスグにどうこうなる問題でもありませんでした。

 

短期間で17,000人ものイタリア兵を捕虜にする

これに対して、ある程度同情してくれたのは直属の上官でした。
「もうアッチとは協力しなくていいから、お前の隊で山一つ攻略してみろ」と言われます。

ロンメルは再びやる気を出し、攻略を成功させただけでなく、9,000人ものイタリア兵を捕虜にします。

ロンメル自身の部隊は500人しかおらず、しかも5人の戦死者と20人の負傷者しか出さない、という素晴らしい戦果です。
そもそもイタリア軍があまりにヤル気なさすぎたとの話でもありますが、どんだけー。

しかし、一度あることは二度ある――。
このときも別の山を攻略していた部隊が、ロンメルの勝ち取った山と勘違いして上に報告してしまい、またしても彼はプール・ル・メリット勲章を逃します。

二回も出し抜かれて当然、激怒&猛抗議!
にもかかわらず「もう決まったことだから」とはねつけられてしまいました……お役所仕事イクナイ。

それでもロンメルはなんとか気を取り直し、今度は別の場所で再びイタリア兵を8,000人も捕虜にし、やっとプール・ル・メリット勲章が与えられます。
えーと、短期間にロンメルの部隊だけで1万7,000人も捕まえたことになるんですが、どういうことなの。

ロンメルの華やかな戦績・指揮能力は、やがて上の目にも留まります。
第一次世界大戦末期には幹部候補の一人として参謀となり、最前線からは身を引くことになりました。

しかし、これほど優秀な軍人がいても、ドイツは第一次世界大戦で敗北を喫します。

敗戦からの帝政廃止を経てヴァイマル共和政へ移行し、ドイツは大きく変わろうとし、ロンメルは軍人であり続けました。
転属先の兵士は革命派が多く、当初はロンメルをナメていたが、やがてその人格によって団結するようになったといいます。ごく◯んかっ!

敗戦国となったドイツには、これまた教科書でお馴染みの「膨大という言葉が生ぬるいほどの賠償金」の他、さまざまな罰が課せられました。

その中には領土と軍の縮小も含まれており、将校(指揮官を務められる人)は6人に1人しか残れないほどの厳しい減らし方をしております。ロンメルはこの1人として選ばれています。

戦間期にはドレスデン歩兵学校の教官を務めたこともあり、彼の講義はわかりやすさと臨場感で人気を博したそうです。
後に執筆活動などもしていますし、話が上手かったんでしょうね。

 

警備体制をめぐり、ちょび髭のSSと真っ向勝負!

さて、その後、悪夢の独裁者・ヒトラーとナチスが同国内で台頭してくると、ロンメルも党是の反共主義・軍拡に賛成し、支持者の一人になりました。

日本ではユダヤ人関連のイメージが強いですが、ナチスが当時熱狂的に支持されたのは、賠償でボロボロだったドイツをたった数年で立て直し、再び先進国に押し上げたからです。
そうなると当然、軍隊も以前の規模に!となりますよね。

ロンメルは生涯をかけての党員にはなっておりません。

これは他の政策に頷けない部分も多かったからだと思われます。

実際にヒトラーと対面したのは、ロンメルが所属する連隊がいたゴスラーという町でのことです。ヒトラーがここでの収穫祭にやってきたとき、SSとロンメルが警備編制を巡って口論したことがありました。

SSは「ウチが最前列を務めるべき」と主張しましたが、これは地元の軍を信頼していないも同然の発言。
当然ロンメルは激怒し、「ならば私の大隊は出席しない」とはねつけました。

当然騒ぎになり、SSのトップに直接謝罪されています。
この話をヒトラーは好意的に受け取ったそうです。

その後、ロンメルは第一次世界大戦での経験と、教官時代の講義をまとめた「歩兵攻撃」という本を出版しました。

ヒトラーは同大戦で歩兵をしており、現実に即したこの本を絶賛。
ロンメルに絶大な信頼を置くようになります。ロンメルもまた、ヒトラーを信奉するようになっていきました。

まぁ、帝政時代にあれだけ功績を蔑ろにされていれば、「今度の上司はちゃんと評価してくれる!」と大喜びするのは当たり前の流れですよね。

ロンメルが貴族出身でなく、他人を見下すような態度がまったくなかったことも、ヒトラーの好感度を大きく上げました。
これによって警備を任されるようになり、1939年にドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まっても、しばらくそのままでした。

……とはいえ、歩兵の指揮に優れていて、実戦経験も豊富な人を国内に置いておくのは戦略としてどうよという気はしますね。

ヒトラーは当初「ポーランドを落とせば英仏は講和を選ぶ」と思っていました。
が、そうはならなかったため、フランス侵攻を決めます。

「あっちのほうが戦備が整ってるいるのに攻め込むのは無理っしょ」と言われていたの強行したあたり、政治的才能と軍事的才能の両立は難しいということがわかりますね。

ともあれ、ロンメルはこの戦線拡大路線によって、再び前線に戻ることになりました。

 

ほとんど戦車の知識はないにもかかわらず……

新しく編成された部隊は機甲師団の一つ。
機甲師団とは、戦車を中心とし、自動車が随伴する師団(軍隊で三番目に大きい規模の組織)のことです。

ロンメルはこれまで機甲師団や戦車の知識がほとんどありませんでしたが、この配属で一気にやる気が出たらしく、すぐに運用法を見に付けたそうです。

ロンメルがフランス侵攻作戦に参加した時点で、戦車の数はドイツ2800両に対し英仏軍4000両。

数の上では不利な状態にありながら、ロンメルの師団は異様なほど進軍速度が早く、ドイツ国内では「最も西にいる師団」と呼ばれ、敵からは「いつの間にか防衛戦をすり抜けている、あいつらは幽霊か!」と恐れられました。

作戦開始の半日後にはベルギーに侵攻し、この地点にいたフランス軍は一時は抵抗しようとしたものの、奇襲を受けてすぐに撤収します。

このように目覚ましい活躍をしたロンメルですが、ときには味方の資材を盗んで使ったり、上からの命令を無視するなど、「それどうよ?」という行動もしています。

もちろん、ときにはそういう非常識的な行動もしなければならないでしょうし、特にロンメルは「戦争は司令部で起きてるんじゃない、戦場で起きてるんだ!」(超訳)というポリシーを持っていたので、きちんと結果も出しています。
そして、ちょび髭もロンメルを「英雄」にしたかったので、この辺のことは不問にしています。

一方で、ロンメルのこうした行動は、他の部署やちょび髭以外のお偉いさんとの軋轢を生むことにもなりました。

 

本の執筆だけでなく映画撮影まで自ら行う

多くの捕虜と兵器・物資を得ながらロンメルたちの師団は戦場をひた進み、その後ドーバー海峡沿岸での戦いで、空軍の爆撃による協力を得て多くの英仏軍を降伏させました。

戦闘の前には部下とともに海水で遊んだ、というちょっと微笑ましいエピソードも残っています。ドイツはほぼ内陸国ですし、ロンメルの地元も内陸ですから、海が珍しかったのかもしれませんね。そういう無邪気な人間が殺し合うのが戦場の悲哀ですが……。
ちなみに、ロンメルたちが沿岸部で勝利を収めた頃、パリが無血占領されていました。ドイツから見て、この時点での西部戦線は順調だったということになります。

フランス戦後、ロンメルはすぐにイギリス上陸を予期しておりました。が、イギリス上空の制空権を取れていなかったため、しばらく休息を取ることができました。勤務時間の他には狩猟や本の執筆、宣伝のための映画撮影などを行っていたそうです。

特に映画撮影は面白かったらしく、部下や捕虜への演技指導まで熱心にやっていたとか。

映画出演によって、ロンメルはドイツの英雄として抜群の知名度を得ることになります。
後々一度だけ社交パーティーに出たときも、顔が知られていたため、女性たちにモテモテだったとか。

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