久米幸太郎

江戸時代

親の仇を捜し続けて41年~新発田藩士・久米幸太郎は本懐を遂げたが

殺された親族や主君の仇を討つ!

忠臣蔵』はじめ壮絶な「仇討ち」は時代劇の定番テーマですね。

史実における【赤穂事件】も「日本三大仇討ち」に数えられるほどで、我々の歴史に深く根付いています。

しかしながら、捜査や通信の技術が発達していない江戸時代

実際問題、仇を見つけ出して討ち果たすのは容易ではありませんでした。

遠くに逃げた相手を見つけられなかったり。見つけても返り討ちにあったり。探し出すのに時間がかかりすぎていて、当の仇が既に死んでしまっていたり……。

一説によれば、その成功率は1%ほどだったといいますから「武士の掟」も非常に過酷でした。

さような厳しい状況の中、なんと41年もの長きにわたって憎き相手を探し続け、安政四年(1857年)10月9日、ついに宿願を果たした人物がいます。

江戸時代後期の実在した久米幸太郎です。

日本三大仇討ちにこそ数えられませんが、現在までに伝わる記録の中で、最も壮絶な話の一つ。

それは一体どんな内容だったか?

振り返ってみましょう。

 


7歳にして父を殺された幸太郎

事の発端は文化14年(1817)12月20日のこと。

越後国(現在の新潟県)新発田藩で、滝沢休右衛門という男が同僚の久米弥五兵衛を殺害しました。

囲碁の対局中口論になったとも、藩金の横領が発覚するのを恐れ口封じに殺したとも言われています。

当時、弥五兵衛の長男幸太郎は7歳、弟盛次郎は5歳。

大黒柱を失った久米一家は、藩からの援助でなんとか糊口をしのぎます。

そして文政11年(1828)、18歳になった幸太郎は幕府に仇討ちを願い出て、免状をもらいます。

幸太郎は藩からも資金を受け、弟の盛次郎、叔父(弥五兵衛の弟)の板倉留六郎の3人で仇討ちの旅に出ました。

留六郎は進んでいた縁談を苦悩の末断ってまで、助太刀として参加したのです。

 


仙台藩領・洞福寺にいる僧侶が怪しい……

途中、三手に分かれたり、重病を患ったり、お金が尽きて僧侶に化けて托鉢をしたり。

仇討ち探しの旅は、相当な困難を極めました。

そんな折、幸太郎は、仙台藩領・洞福寺(現在の石巻市)という寺の僧侶・黙照が「どうも滝沢休右衛門らしい」という情報を得ます。

本当にその僧侶が滝沢なのか――幸太郎は黙照の姿を盗み見たものの、そもそも滝沢の面体を知らないので確証が持てません。

いったん新発田藩へ戻り、滝沢の知人に同行を願い、再び洞福寺へ向かいました。

そして黙照が休右衛門である事を確認!

執念、おそるべしですね。

なんでも滝沢休右衛門は、逃走中に僧侶となって黙照と名乗り、寺院を転々としながら洞福寺に身を寄せていたようです。

内心、仇討ちや藩の追手に怯えていたのでしょう。

他国者を異常なほど警戒し、刀の仕込み杖を使用したり、懐刀を常に忍ばせていたという伝承が残っています。

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