八日町の戦い

江馬氏家臣十三士の碑/photo by 立花左近 wikipediaより引用

合戦・軍事

飛騨の関ヶ原と呼ばれる「八日町の戦い」姉小路頼綱と江馬輝盛が激突

織田信長が本拠地とした美濃に隣接しながら、戦国史において存在感の薄いエリアがあります。

飛騨です。

漫画やゲームで人気になる有名武将もいなければ、有名な合戦が繰り広げられたこともない。

険しい山に囲まれたエリアだけに、それも仕方ない……と思ったら、実は同地域でも“飛騨の関ヶ原”と呼ばれる「八日町の戦い」が起きていたのをご存知でしょうか?

場所は、戦いの名称でもある岐阜県高山市の八日町。

“関ヶ原”と呼ばれるからには三成派と家康派に別れて争ったのだろう!と思いきや、実は【本能寺の変】をキッカケに起きています。

なんだかややこしい……天正10年(1582年)10月26~27日にかけて勃発した「八日町の戦い」を振り返ってみましょう。

 

江馬輝盛vs姉小路頼綱

天正10年(1582年)10月――八日町の戦いで主役となったのは、飛騨の武将である江馬輝盛と姉小路頼綱です。

輝盛は、江馬家の16代当主。

方針の違いにより父を殺害した後、上杉や武田と組んだりしながら生き残ってきた飛騨国・高原諏訪城の城主です。

一方の姉小路頼綱は『信長の野望』で国力の弱い飛騨の代表的存在として知られますね。

史実においては三木自綱と名乗っていたところ、親の良頼から姉小路性を名乗るように指示されたのがキッカケ。

もともと飛騨国司であった姉小路氏と三木氏は何の関係もなく、むしろ敵対していましたが、朝廷からの官位が欲しくて欲しくてたまらなく、わざわざ名乗ったと言います。

そして従五位下飛騨守を得るのですが、それには飽き足らず大納言も自称(引け目を感じていたのか、織田信長に対しては中納言を名乗っていた)。

そんな権威に憧れを抱く姉小路氏が、飛騨の覇権を争って江馬氏と戦ったのが八日町の戦いでした。

 

伏兵から発射された銃弾が大将を貫く

江馬輝盛の軍勢3,000人に対し、姉小路軍は2,000人です。

数の上では江馬軍が優勢であり、姉小路の家臣からは籠城戦の声もありましたが、頼綱はそれを拒否。

自ら大阪峠に出向いて野戦に出ました。

八日町付近に進んだ両軍は、荒城川を挟んで決戦を始めます。

戦の情勢は江馬軍が優勢で姉小路軍は押されっぱなし。

こんな状況ですから、輝盛も「勝ったな(確信)」と余裕の状況であったでしょう。

しかし、です。

そんなほぼ勝ち確定の状況で、突如、姉小路軍の伏兵が出現。

奇跡を願うようにして発射された伏兵の銃弾が、事もあろうに大将・江馬輝盛に命中する――土壇場のミラクルが起きます。

たった一発の銃弾により、輝盛は討たれて形勢は逆転。

戦いは姉小路軍の勝利となりました。

敗北した江馬軍の重臣たちは輝盛に続いて殉死したため、そこで亡くなった13人にちなみ、大阪峠は十三墓峠と呼ばれるようになります。

十三

十三墓峠の説明板

その後は、姉小路側の小島時光によって、居城の高原諏訪城を攻められ、江馬氏は降伏――という話が伝わっていますが、実際は疑問点が多く、少し詳しく見てみたいと思います。

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