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飛鳥を謎の石の都にした「石の女帝」斉明天皇が吉備(岡山)で集めたものとは

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NHK歴史秘話ヒストリア(2014年10月15日放送)は「日本にもあった!謎の巨石文明~目覚める飛鳥“石の女帝”謎の巨大」でした。
古墳にコーフンする人が増えている昨今、当サイトの筆者の一人で、古代史の本を多数出している歴史作家の恵美嘉樹さんから、石の女帝こと斉明天皇について寄稿をいただきました。

明日香の石造物のひとつ猿石は斉明天皇の母・吉備津姫の墓の近くにある credit: aurelio.asiain via FindCC

斉明天皇――この名を耳にしたことがあるとすれば、本人の業績よりもむしろ天智天皇、天武天皇の母としてであろう。

だが、その生涯は皇子たちに負けず劣らず波瀾万丈であった。唐の勢力がいよいよ朝鮮半島全土へ及ぶという不穏な世界情勢の中、国内では土木工事に励み、外交では親百済(くだら)政策をとった。そして百済が滅亡すると、唐・新羅(しらぎ)との決戦に臨むべく事を起こすのだが……。

女帝の最晩年を吉備の地に追いかける。

 再評価の高まる女帝は土木工事がお好き

飛鳥時代の斉明天皇。

2010年、奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘調査で、その被葬者と判明し一躍脚光を浴びた女帝である。

実のところ、彼女が天皇になる可能性はほとんどなかった。あまたいるライバルに打ち勝つほどの血統でなかったためだ。だが、名前しか伝わらない最初の結婚相手高向王(たかむくおう)と別れて舒明(じょめい)天皇と再婚すると、人生は急展開をみせた。夫の死後、ついに最高権力を手中にするのだ。

ただ、息子の中大兄皇子(天智天皇)が天皇になるまでの中継ぎというイメージが強く、影の薄い存在だった。しかし、実際のところはどうだったろう。

興味深い逸話が『日本書紀』にある。斉明天皇が多くの犠牲を代償に造らせた溝を、飛鳥の人々は「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)」と呼んだというのだ。天皇の正統性を示す正史に「狂っている」とまで書かれるなど評判は芳しくないが、かなりの労働力を調達し土木工事をやり遂げた剛腕政治家だったともいえるのではないか。

事実、飛鳥で近年になって発掘された飛鳥京跡、酒船石(さかふねいし)、亀形石造物、須弥山石(しゅみせんせき)など、有名な遺跡や遺物の多くが、斉明天皇によって造られた可能性が高いとされている。今や歴史学や考古学の世界ではむしろ、壮大な構想と実行力を併せ持った人物という見方が強まっているのだ。

 

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幻の「吉備王国」の実像

この斉明天皇が、飛鳥から250キロ近く離れた吉備(岡山県)を訪れ、強い指導力を発揮した痕跡がみつかった。一体、斉明天皇はその地でなにをしたのか。岡山へ向かった。

吉備は、古代の瀬戸内海で最大の勢力だった。旧国名で言えば、備前、備中、備後、美作(みまさか)の4カ国、現在の岡山県を中心に、広島県東部にまで広がる。

日本で四番目の大きさを誇る巨大前方後円墳、造山(つくりやま)古墳が存在するなど、畿内をのぞけば、間違いなくナンバーワンの実力を持っていた。

吉備1

斉明天皇の治世で、この吉備地方と密接にかかわる重大な事件があった。660年の百済滅亡をうけて決定した朝鮮半島への派兵だ。

翌661年1月、68歳の斉明天皇は、息子の中大兄皇子とともに難波宮(大阪府)を出発。瀬戸内海の国々に立ち寄りながら兵を集めることになった。

斉明天皇が吉備に立ち寄ったのはこの時だ。古代の地方勢力のリーダーである吉備を納得させられなければ、ほかの地方の豪族も協力を拒む可能性が高い。果たして、その結果は?

吉備の中心部である備中の歴史をあつめた『備中国風土記』によると、なんと2万人もの兵が吉備において集結したというのだ。最終的な総動員数は2万7000人だから、そのほとんどが大和でも九州でもなく、吉備だったことになる。

風土記では、661年、斉明天皇一行が下道(しもつみち)郡に宿泊したとき、家が多く建っている様子を見て、兵士を徴募したところ、2万人が集まった。天皇は喜んで、その土地を「二万(にま)郷」と名付けた。この土地を後にあらためて、「邇摩(にま)郷」といった、とある。

邇摩郷があったのは岡山県倉敷市。地図を開くと、高梁(たかはし)川の西岸に上二万・下二万という地名が残っている。風土記が書き留めた「邇摩郷」の最有力候補地だ。

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瀬戸内から集まった2万の兵の集合場所?

もっとも、小さな邇摩郷だけで2万人も集めたというのは無理がある。現在の二万地区は河口から五、六キロ内陸だが、飛鳥時代の海岸線は二万地区のすぐ南にあり、菅生小学校裏山遺跡などの港湾跡の遺跡が見つかっている。また、北には古代の山陽道が走っていたと推定されている。陸路と航路が交わる交通の要衝だった「二万郷」は、兵士たちの集結地だったと考えるのが自然だろう。

吉備2

もちろん、ただ交通の便がよかっただけではない。ここがかつての「吉備王国」の足元だったことがさらに重要な理由である。

飛鳥時代以前の日本は、ヤマトの大王(天皇)を対外的には倭王としながらも、実際の地方支配は各地の「王」である豪族にまかせていた。九州北部や出雲などにも「王」がいたように、吉備にも王がいた。邇摩郷より東に10キロほどの足守川周辺(岡山市、総社市、倉敷市)に本拠地をおいていた。奈良時代以後も備中の国分寺や国府が置かれるなど、政治の中心地であり続けた重要なエリアだ。

栄華を誇った吉備王国。だが、ヤマトで最初の専制君主といわれる雄略天皇(400年代後半)が権力を誇った葛城氏を滅ぼした際に、葛城氏と近かった吉備は反乱を起こすが、逆に返り討ちにあって雄略天皇につぶされてしまった。このことを裏付けるように、吉備ではこの時期に100メートルを超えるような大古墳の築造がぴたりと止まる。かなり大規模な粛正が起きたようだ。

だが、雄略天皇の強引な支配がたたったのか、子孫が途絶えてしまう。507年には、雄略天皇の血をひかない越(福井県)出身の継体天皇が即位して、彼の子孫たちが飛鳥に王朝を開く。斉明天皇は、継体天皇から数えて5世代目にあたる。

 

吉備の復興と渡来人移住

継体天皇系の天皇は、吉備の復興に手を貸したふしがある。

555、6年には、ヤマト王権を主導した豪族の蘇我氏がわざわざ吉備に出向いて、天皇家の直轄領の白猪屯倉(しらいのみやけ)と児島屯倉を設置している。屯倉の設置は、地方の力をそぐものと考えられがちだが、少なくとも吉備においては、一度、壊滅した地域を復活させる起爆剤になった。

それは畿内にいた渡来人の移住である。正倉院文書からは、邇摩郷に近い賀夜(かや)郡の約2割が渡来人だったことが分かっている。さらに日本最古の製鉄炉跡が500年代の千引カナクロ谷遺跡で見つかっている。こうした最先端の技術は渡来人が持っているもので、ヤマト王権の許可と後押しがないと地方への技術移転は不可能だった。

渡来人の技術で、鉄産業の地となった吉備は飛鳥時代に不死鳥のようによみがえった。吉備王の末裔は、ヤマトへのお礼(もちろん服従の意味もあっただろう)として娘を差し出したようだ。

そうした一人と考えられるのが斉明天皇の母の吉備津姫王(きびつひめのおおきみ)である。彼女が吉備の出身と断じられれば話は早いが、残念なことに出自は不明。その名前から、吉備の豪族に育てられた皇女か、あるいは吉備の出身者を父か母に持つ姫と考えたい。娘の斉明天皇にとって吉備は第二の故郷だったのだろう。

 

鬼ヶ島のモデルとなった山城築城の目的は練兵か

二万地区から北に約10キロの標高400メートルほどの山の上に有名な鬼ノ城(きのじょう)という遺跡がある。

鬼ノ城―甦る吉備の古代山城 (日本の遺跡)

桃太郎の鬼ヶ島のモデルともされ、史書に登場しないため謎の遺跡といわれていたが、近年になり発掘が行われ、斉明天皇・天智天皇のころの遺構である可能性が高まってきた。さきに触れた日本最古の製鉄炉跡が見つかったのも、この山の中腹である。

山頂を囲うように、一周2・8キロにわたり高さ7メートルもの土塁と石垣の城壁が築かれていたというから驚きだ。およそ3時間をかけて、城内を一周した。

山を登り切ると、眼に飛び込んでくるのは、復元された西門と「角楼」だ。吉備平野に数多く点在する古墳を見下ろし、瀬戸内海まで見える眺望の良さは、敵に備えるのにふさわしい。西門から南門・東門へと抜けるころ、アップダウンが激しくなる。見学者もまばらになる。

発掘の結果、西門だけでなく、東西南北にはそれぞれ防御に適した構造を持つ門が築かれていたことが分かった。こうした特徴は朝鮮に見られる山城と共通する。設計には渡来人がかかわっていたのだ。完成させるには、一体どれほどの労働力が必要なのか。ある研究ではのべ17万人と試算されている。

これほど大規模な城を造った理由は何だったのか。これまでは、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本が唐と新羅の連合軍に敗北したのをきっかけに、連合軍が日本へ侵攻してくることに備えた、とする見方が一般的だった。ところが、建築時に使われた古代の物差しを復元した結果、鬼ノ城の南門が白村江の戦い以前のものであるとする説が出された。この解釈によれば、斉明天皇が築城したとする説に軍配があがる。

斉明天皇が、これほど手間のかかる鬼ノ城を作り上げた目的は、2万の兵たちの練兵にあったのだろう。日本軍が海を渡るのは、500年代前半の継体天皇以来、150年近く途絶えていた。

岡山の一地域に残された邇摩郷の伝承と鬼ノ城。これらはヤマトと吉備が密接にかかわった歴史の記憶と足跡だったのだ。そこには、ヤマト王権に屈服させられた過去の遺恨を捨て去り、協力を惜しまなかった吉備の人々がいたのである。

飛鳥の民に「狂っている」と批判された斉明天皇。60歳を優に超していた老女が戦地に自ら赴き、土木工事を断行しているのは驚異の一言につきる。吉備の人々は、斉明天皇の強烈なまでの熱意に打たれて、工事に参加したのかもしれない。

斉明天皇の人となりを一言でいえば、「地形すら思い通りに変える野心たっぷりな女性」となろうか。自分のやりたいことは徹底的にやる。人の意見には左右されず、我が道を行くタイプだ。独裁者ともいえる遺伝子は、多くの政治改革を行った二人の子の天智天皇・天武天皇にも引き継がれていく。

ヤマトと吉備が再び手を結ぶことで栄光の再現を試みた斉明天皇だったが、661年7月、海を渡る前に福岡県で急死してしまう。中大兄皇子は母の遺志をついで開戦に踏み切るが、白村江の戦いで大敗北する。

斉明天皇は、息子や吉備の兵士たちの行く末を案じたまま亡くなったにちがいない。

恵美嘉樹・記(歴史作家)

 
本寄稿は恵美嘉樹さんの最新刊「日本古代史紀行 アキツシマの夢」の一部です。
卑弥呼から平清盛まで日本古代史を彩る人物たちの足跡を実際に歩くことができる必携の歴史旅ガイド!東海道新幹線グリーン車の車内誌「ひととき」で好評連載された「アキツシマの夢」を加筆編集版です。ぜひ読んでください。

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