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美濃のマムシ・斎藤道三堕つ!~長良川の戦いを歩く

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戦国時代では、親族間同士でも殺し合いがあったりするというのは特に珍しくない話であります。皆様が知っている有力大名の中にも、そういった話は多く、それだけ苛烈な時代であったのであります。

そんな中で、戦国時代でもかなり大きな争いに発展したものといえば、1556年(弘治2年)の、美濃のマムシこと斎藤道三とその息子で長男の斎藤義龍(よしたつ)との争いではないでしょうか?

この<親子喧嘩>の経緯にも諸説ありますが、今回はこの戦いに関連する史跡などを紹介しつつこの戦いの詳細を追っていきます。

なぜ父を裏切った?その1 義龍は道三の実の子供ではなかった?

そもそも、息子の義龍自身については、実は道三の子供ではないのでは?とも言われています。

道三は、美濃守護の土岐頼芸(ときよりのり)から側室であった女性(深芳野)を嫁にもらうのですが、結婚してからそれほど経っていない時期に子供が生まれております。そのため、実は道三の子供ではなく、頼芸の子供ではないかというような話があったそうです。

そして、それを信じた義龍は実の父親を美濃から追い出した道三を憎んで争っていき、土岐氏の旧家臣もそれに続いたのでは?といわれています。

ただ、この説が出てきたのは江戸時代の話らしく、ちょうどそのころには勧善懲悪ものがはやっていた時期だったそうなので、信ぴょう性は極めて低いと言わざるをえないのだそうです。

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その2 災害で荒れた領土を整える政策が出せなかったから?

実は斎藤道三には美濃国内を治めるための政策がうまく打ち出せなかったのではないかというような説もあります。

道三、当主であった土岐頼芸を追い出したのですが、その時期については詳細は不明です。ただ、1550年あたりにはまだ土岐氏が支配していた痕跡があることから、1554年に斉藤道三が突如隠居するまでには土岐氏は追い出されたようです。

ちょうどその間に美濃を流れる大河川・木曽川と長良川が相次いで氾濫し、周囲の土地が荒廃してしまっていました。そして、1552年には近江国(滋賀県)の六角氏が美濃に攻め込んできており、戦によって更なる荒廃が進んでしまっていました。この六角氏は土岐氏とは名門同士の親戚であり、土岐氏の復権のために戦争を仕掛けたとの説もあり、土岐氏はこの前に追い出されたのではないか?とも言われています。

ところが、道三がこの状況を打開するために打ち出された政策の形跡がないのです。むしろ、義龍が道三を滅ぼしてから、宿老を中心とした合議制や、禄高制による安堵状を発給して所領問題を解決するなど様々な政策を打ち出しており、父の過ちを犯さないように国内の安定化に務めようとした節があります。

また、下克上の戦国時代とはいえ、長年仕えてきた土岐氏を追い出してしまったことからも、道三は国主には不適格であるとされて、隠居させられたのではないかと思われます。

その3 次男や三男をかわいがり、長男を遠ざけたから?

まわりから無理やり隠居させられたとしたら、道三自身も面白くはありません。何とかして実権を握り返そうと考えたはずです。そのため道三は、長男の義龍について無能な人間であると見下しているような感じで接するとともに次男や三男を溺愛するようになります。うまくいけば義龍を追い出し、自分の言うことを聞く次男や三男を使い、復権を果たそうと考えたのかもしれません。次男と三男も長男を軽く見るようになっていきます。

こんなことをされれば、家督を継いだ義龍は「これは、こっちを追い出そうとしているに違いない」と

なるのも当然ありうる話。ここからこの親子の仲は悪くなっていきます。

 

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弟を惨殺、親子同士の戦いへ

そんな険悪な関係が続いていた時についに出てしまう事件が起こります。

義龍は二人の弟を重病と偽り、ひとこと言いたいことがあるといって呼び出します。そして、二人にお酒を飲ませながら油断をさせたところで二人を殺害。

そして、なんとそのことを義龍はわざわざ道三に伝えたのであります。道三はかなりあわてていたようで、岐阜城下の町に火を放って混乱しているすきに、岐阜城から長良川を挟んだ北西にある大桑城に逃れたというほどでした。(岐阜城の当時の名称は、井ノ口城。岐阜城のある山は稲葉山でしたが以下も岐阜城で統一)

そのあとは、冬を迎えたということもあって、そのまま両者は川を挟んでにらみ合いといったような感じになります。

 兵が集まらない道三軍。 織田信長の援軍は間に合う?

そして、ついに春になった時に両雄は決戦を挑みます。

1556年4月18日。道三軍は大桑城から、鶴山まで進軍(信長公記では、隠居した城があった鷺山に布陣したといわれているが、近年ではこちらが有力とされる)。ここで相手の動向をうかがう姿勢を見せます。

現在の鶴山

現在の鶴山

しかし。道三のもとには肝心の兵が全く集まってくれません。

やはり、土岐氏が追い出された経緯からでしょうか、道三軍には昔から慕ってくれた兵士がわずか2、3000人ほど集まってきてくれる程度でした。

一方の義龍は美濃三人衆、旧土岐氏の勢力などが合流して1万7000人ほどと戦力差は歴然でした。

この差を覆そうと、道三は信長に援軍の要請を送ります。信長も尾張から兵を出して援護に向かいます。

しかし、援軍到達前の4月20日に義龍軍が岐阜城から南岸付近に陣を移してきたときに、道三軍も山を下りて長良川北岸にて決戦の構えを見せます。

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初戦は道三軍奮戦も まじであった一騎打ち

両雄は長良川で激突。義龍軍の先鋒は竹腰道鎮。川を渡って道三軍を攻撃しようと試みます。

ここで道三軍は奮戦を見せます。川を渡ってくるときには、相手の動きは鈍く防備もうまくできないところをうまく攻撃していきます。なんとか竹腰勢は川を突破して道三の本陣まで迫りますが、道三の指揮により道鎮は討死します。

一騎打ちの後の全軍での乱戦 だが、多勢に無勢

この初戦の後、義龍は自ら旗本を率いて渡河を決行し、道三軍と対峙します。

そのまま決戦の火蓋を切るのか?という前に、またまたこの時代に何気にめずらしい話というべきか、義龍軍の長屋甚右衛門と道三軍の柴田角内というものとが、一騎打ちに応じるということが起こります。(開戦前に一騎打ちとか三国志あたりの見すぎじゃないだろうか?)

勝負は柴田角内が長屋甚右衛門を打ち取ることにより終了。そして、その一騎打ちが終わった後に両軍とも突撃を開始します。

ここでも、最初は一騎打ちで士気が上がったのか道三軍が有利に戦況を進めていきます。

ですが、兵力の差が徐々に効いていき、やがて劣勢となってしまいます。

道三は劣勢に立ち城田寺城に退こうとしますが、時すでに遅く本陣にも兵が押し寄せてきており、道三の目の前にも兵士が現れます。

最初に現れたのは長井道勝というものであり、道三を見つけるや否や、道三に掴みかかります。その後に、小牧源太というものが遅れてやってきたところ、道三の脛を薙いだ後に、首を切り落としたとされています。(この時に手柄をとられた長井道勝は怒って、のちの証拠のために道三の鼻を削いだと言われています。)

ここに、美濃のマムシといわれた斉藤道三は息子に打ち取られるという結末によって幕を閉じるのです。

自らも下剋上で美濃一国の主になったのでありますが、その下剋上により今度は自分が殺されるという戦国時代ならではの最期を遂げたのでありました。

道三が打ち取られた後の信長軍は?

信長の援軍は、合戦には間に合わず、行軍途中で道三の死を知らされたため、撤退を開始。途中で道三軍の敗残兵と合流も果たしつつ尾張に引き返します。

その後、撤退する途中で追撃してきた義龍の軍と大良河原というところで衝突。手痛い打撃を受けて信長の軍勢は撤退する羽目になるのですが、この時にはなんと、信長自らが殿(しんがり)をつとめ、鉄砲を撃ちかけるという命がけの撤退をしたのでした。信長って結構戦場で一般兵かと思うくらいに体張ってることしてくれるのですよね。

 

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その後の美濃は義龍から龍興へ 

義龍は勝利したものの、不徳と不孝を感じのちに出家して「はんか」(唐の故事で、やむをえない理由で父を殺してしまった者)と名乗ります。

義龍は2年後の1558年(永禄元年)には治部大輔に任ぜられ、翌年には室町幕府相伴衆に列せられ、中央で出世していきます。しかし、1561年(同四年)5月11日に35歳の若さで病死しました。14歳で、息子(道三の孫)の斎藤龍興(たつおき)が継ぎますが、信長の美濃侵攻をとどめることはできず、美濃三人衆をはじめとする味方の裏切りが相次ぎ、1567年(永禄10年)城を失います。そして新たに城に入った信長が「岐阜」と名前をかえました。

さて、長良川合戦に話しを戻します。首実検後、道三の首は道端に転がっていたようですが、道三の首を打ち取った小牧源太によってその首は拾われて手厚く葬られたとされます。

その手厚く葬られたお墓は道三塚といわれるようになりますが、前にあった場所(現在の岐阜メモリアルセンター付近)は川が何度も氾濫して、塚が流されてしまうことがあったので、現在の位置に移転されることになりました。

道三塚

道三塚

道三の墓石

道三の墓石

ただこれまで出てきた、長良川古戦場については川の流れが合戦当時より変わっており、実際どのあたりで展開したのか定かではありません。

最後はここらへんで合戦があったのでしょう、という岐阜城から見下ろした長良川のパノラマ写真を紹介して幕を閉じたいと思います。

 

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http://www.yunphoto.net/kwdjp/92b797c790ec-1.html より引用)

若年寄・記

参考文献 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』




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トップ画像は「岐阜城盛り上げ隊」サイトより。現代の斎藤道三さんは歌も歌う

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