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昇流は歩いてく

木曽三川を流れる薩摩四十七士の無念に想いを馳せて【昇流は歩いてく】

更新日:

江戸時代、徳川家は絶大な権力を誇っていたことは言うまでもありませんよね。

しかし、その絶大な権力であるがゆえに辛酸を舐めた人々もいるわけです。

今日はそれを【治水】の観点から見ていきましょう。

尾張藩に逆らえず美濃藩の村だけが水害に

私が住んでいる地域では、尾張や美濃の歴史が交錯しています。

例えば、愛知県と岐阜県の境を流れる木曽川という川があります。日本有数の大河ですが、ここに築かれた堤防にドラマがありました。

木曽川1

木曽川は現在でも、愛知県と岐阜県の県境ですが、江戸時代当時も尾張藩と美濃藩の境でした。

尾張藩と言えば、当時、徳川御三家の一つであり、幕府に対して物が言える強い存在。 従って、藩にダメージを与える事態があってはならないということで、木曽川の堤防を美濃藩側より、現在の高さで約3メートル高くするよう決められており、この尾張藩が築いた堤防のことを、徳川の所領を守るという意味で「お囲い堤(おかこいづつみ)」と言われていました。

当時の木曽川は治水状態が悪く、大雨が降るたびに川が氾濫するため、周囲の村々では大きな被害が出ていました。

この状況からすると、美濃藩側からすればたまったものではありません。

しかし、相手は御三家のひとつ。逆らうこともできず、甘んじてこの状況を受けざるを得なかったのです。

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三つの大河が幕府や地元の藩を悩ませていた

案の定、大雨が降り木曽川が暴れだすと決まって美濃藩側へ水が流れ込みました。

現在、この岐阜県側の地域に伝わる民話や古老が話す昔話には、尾張藩に対するやるせなさをつづるものが多く存在します。

そもそも、なぜ、それほどまでに水害が発生するかというと、この木曽川周辺の地域には、日本有数の大河が3つも流れているためです。

「木曽川(きそがわ)」「長良川(ながらがわ)」「揖斐川(いびがわ)」で、地元では「木曽三川(きそさんせん)」と呼ばれています。

 

もしかしたら、みなさんも一度は耳にしたことがあるかもしれませんね。

「お囲い堤」の話は、江戸時代初期から続く話なのですが、これらの大河の治水に幕府や美濃藩は常に悩まされてきました。

それゆえ、江戸時代後期にこの大河に翻弄される藩が出てくるわけです。

意外かもしれませんが、薩摩藩です。

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なぜ薩摩藩が美濃の治水工事を請け負うのか?

江戸時代後期、幕府はこの木曽三川の大規模治水工事の命を薩摩藩に下し、薩摩藩は47人の武士を美濃に送り込みました。

なぜ、遠く離れた九州の地から、美濃に来なければならなかったのでしょうか?

 

理由は単純です。当時、薩摩藩は70万石以上を誇ると同時に琉球との交易で経済的に力を付けており、幕府がその台頭を恐れたからであります。

治水工事によって地元民が助かり、薩摩藩に経済的ダメージを与えられば一石二鳥。

さらに、万が一工事に失敗した場合は、薩摩藩に責任を負わせることができるため、幕府にとってはノーリスク・ハイリターンの処置だったのです。

 

果たしてこの工事はどうなったのか?

結果は成功しました。彼らは、網の目のように入り組んでいた長良川と揖斐川を見事に分離し、整流化させたのです。

藩士たちを待ち受けていた過酷すぎる運命

しかし、工事が成功したにも関わらず、彼らは英雄として薩摩に帰ることができませんでした。

なぜなら、工期が大幅に延びたことにより、責任を取らされて切腹させられたからです。

 

私は、この話を小学校の社会科の時間に聞いた時、思わず涙が出てしまいました。

 

今の時代であれば、確実にこの47人の武士たちは難工事をやり遂げた英雄でしょう。

ところが、この工事は幕府の策略から始まったものであり、成功してもなんの名誉も築けません。

彼らは、ただ薩摩藩の誇りのためにこの難関に立ち向かったのです。

 

もしかしたら、彼らは最初から死を意識して薩摩から美濃にやってきたのかもしれません。だとしたら、その心中は、遠く故郷に残された家族たちの想いは、いかほどのものだったでしょう…。

 

現在、彼らの魂は、「薩摩四十七士の墓」として美濃の地に眠っております。

彼らは、地元の人々から栄誉を称えられると同時に、この歴史上の出来事がきっかけで、今でも岐阜県と鹿児島県との間に続く文化交流のキッカケも作りました。

例えば、両県の間では小中学校の教員3~4名を交換し、数年間、お互いの県に赴任させるなどの交流もあります。

薩摩藩士47人が築いた堤防には、現在見事な松林が出来ています。

当時の彼らが植えたものと伝えられており、地元の私たちは「千本松原」と呼んでいます。

今、この千本松原の周辺には「木曽三川公園(きそさんせんこうえん)」があり、春になると一面にチューリップの花が咲き乱れます。

その公園に行くたびに、私はこの歴史のひと幕を思い出し、胸に熱いものがこみ上げてくるのです。

 

文/昇流

 

木曽川2

 

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