1942年2月8日はイギリス軍(連合国軍)と日本軍の間で【シンガポールの戦い】が始まった日です。
この日、始まった戦闘は、わずか8日間で終了。
【シンガポール陥落】として語られ、その様子を間近で見ていたのが、書籍『シンガポール陥落』著者のフランク・オーエン(英国陸軍の将校)でした。
フランクは陥落後に辛酸を嘗め、戦後そうした思いを綴ったのです。
1905年生まれという時代を背負い、かつ、過酷な体験を経ただけあって、日本人には厳しい筆致であり、それ以上に、英国政府への怒りを隠そうとしません。
難攻不落とも称された要塞が、何故、あんな簡単に落ちてしまったのか?
これが本書のテーマでもあります。
最初のほころびはチャーチルだった
読み進むに連れ、野村克也さんではないですが「負けに不思議の負け無し」という言葉が脳裏をよぎりました。
それほど、当時のシンガポールにおける防衛体制が杜撰だったのです。
著者によると、最初のほころびはチャーチルからでした。
電撃戦で勝利したドイツに連携する形で、アジアの権益に次々と手を出しつつあった日本。
それに対する備えを具申した参謀長に対し、1941年2月13日付で
「かかる大規模な力の分散を私が容認した記憶はない。それどころか、私の記録からは逆の傾向が見られるであろう。現在の極東におけるかかる大軍事力の維持は政治情勢からも必要でないし、我が空軍の力ではとても許されない」(25ページ)
との回答を寄せています。
ほぼ1年後の1942年2月15日に、シンガポールは陥落しています。
これが運命を決める判断ミスでした。
そして、これだけに留まらなかった。
1941年9月に開かれた極東情勢の分析会議では、日本はソ連を狙っており、10月からモンスーンで荒れ始めるマレー半島への上陸はありえないとされてしまったからです。
どれもこれも、その後の展開を思えば途轍もない見誤りとしか言い様がない。
さらに、上陸する日本側が近衛師団や第15・18師団という、訓練されて協同作戦にも慣れていた部隊を投入したのに対し、英国側が用意出来たのはオーストラリア、インド、マレーシアなどからの寄せ集め。
致命的だったのは、マレーに配置されたオーストラリア軍が、ジャングル戦はおろか、戦闘訓練そのものを受けていなかった事でしょう。そりゃあ、負けて当然ですよね。
お役所仕事が極まっていて危機感ゼロ
わけても「信じがたいことだ」と著者が残念がるのは、次のエピソードです。
1941年5月に中国で撃墜されたゼロ戦のデータが、重慶駐在武官経由でシンガポールに送られていました。
見積もられたデータは、実際のゼロ戦の性能とほぼ一致する精緻な内容で、同年7月と9月の2度に渡り、空軍省と極東空軍司令部に届けられたのですが
「空軍司令部の組織に欠陥があり、編成に情報スタッフがいなかったので、この価値ある報告は一般情報の山に埋もれて、何の対策もとられなかった」(32ページ)
読者の皆様は、ある言葉を連想なさるに違いありません。
そう、まんま「お役所仕事」だったのですね。そもそも危機感が無かったという……。
英国のデイリー・エクスプレス紙の従軍特派員であるD・O・ギャラガーは、シンガポール在住の白人の余りの緊張感のなさに呆然とし、着任したオーストラリア軍将校も、駐在将校らが夜ごと豪勢なパーティーを開いているのに驚きを隠せなかったそうです。
上が上なら下も下で、オーストラリア軍を除けば現地のマレー兵と派遣軍の交流が殆ど無かったと、オーエンは書き残しています。
人種差別が根っこにあったのでしょうけど、普通そんな事している場合ではありませんよね。
現に、戦端が開かれると真っ先に投降したのが、こうした有色人種の兵士たちだったのは、他の史書でも指摘されています。
負け濃厚ながら急遽オーストラリアから増兵あっても
こんな調子でしたので、開戦後の展開も実に惨憺たるものがありました。
マレー半島のペナンを放棄するに当たり、軍の施設を十分に壊さないままだったので、占領した日本側に早速利用されてしまった事などは、その最たる例でしょう。
特に放送施設を破壊し損なったのは致命的で、
「一週間しないうちに、激烈な反英宣伝の奔流が流れ始めた」(80ページ)
ようです。
しかも「ペナンから避難できる民間人は白人に限る」という通達を日本側は入手。
それをどう利用したかは、書くまでもありませんね。
文字通りのキラー・コンテンツです。
急遽オーストラリアから増援が到着したのが1942年1月23日ですから、戦いの大勢が決まりつつあった頃です。
諦めが悪いのは賞賛できるかもしれませんが、問題は兵士の質でした。
「彼らは金曜日に召集され、次の週にはマレー行きの船に乗せられた」(豪州軍司令官、H・ゴードン・ベネット少将)
そんな兵士たちに答えを出せというのが無理な相談でしょう。
一矢を報いた唯一の存在が、中国系のゲリラ部隊だったというのは、もはや悲劇を通り越して喜劇ですらあります。
準備の拙劣さ、事後の対応の酷さは……
なお、本書は2007年8月の発行です。アマゾンでは1円で売られていました。
新刊として読んだ当時は、1人の日本人として痛快さを感じなくも無かったのですが、今読み返すと、どうしても日本における様々な政治的対応の稚拙さと重なってしまいます。
準備の拙劣さ、事後の対応の酷さ。歴史は繰り返すものですね。
著者によると、戦後永らくシンガポール陥落を調査する政府委員会は開かれず、1957年になってようやく公式の政府報告書がまとめられたそうです。
どこの国も、大失態に向き合えないようです。
英国にもまた、ムラ社会があるとなるのでしょうか?
南如水・記
【参考】
『シンガポール陥落 (光人社NF文庫)』(→amazon)