唐と新羅に挟まれた微妙な立地の渤海国/wikipediaより引用

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日本にも朝貢した渤海国ってどんな国? 唐や新羅に挟まれながら渡海して

神亀四年(727年)9月21日は、渤海(渤海国・ぼっかい)の使節が東北へ漂着したといわれている日です。

さっそく「ドコ、それ?」というツッコミが飛んできそうですね。

まずはドコにあった、どんな国なのか。

その辺から見ていきましょう。

 


渤海と渤海国は微妙に違うので受験生は注意

この国のことを語るときには、少々注意しなければならないことがあります。

「渤海」と「渤海国」では、ビミョーに違う場所を示しているからです。

「渤海」は中国北部の遼東半島及び山東半島に囲まれた湾状の海域をさします。

アルファベット表記ですと「Bohai Sea」となる/wikipediaより引用

一方、「渤海国」は中国東北部~朝鮮半島北部~ロシアの沿海地方(ウラジオストックとか)あたりに存在した国のことです(TOP画像参照)。

同国の原型となっているのは、高句麗の遺民だった大祚栄という人が作った「震国」。

高句麗は、中国東北部~朝鮮半島にあった国ですね。

古代史では、どちらかというと新羅・百済・伽耶のほうがよく出てきますが、その北方にあったのが高句麗です。

場所が場所ですので、渤海国も中国の影響を強く受けておりました。

唐の玄宗が即位した後、ときの王様が唐の傘下に入ることで「渤海郡王」に封じられ、正式な国名が「渤海」になりました。

一時は渤海に面していたこともあるのですが、面していない時期のほうが長いので、ややこしいことになっています。

渤海国は、唐へ頻繁に使いや留学生を送り、文化や学問を受け入れ、発展していきました。

日本が遣唐使を送ったのとよく似ていますが、地続き故に行き帰りがしやすく、回数はかなり多めです。

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中国の王朝は朝貢してくる相手には寛大(かつ尊大)なので、

「よしよし、お前の国はよくウチに従っているようだから、位を上げてやろう」

と、三代目の王様を「渤海国王」にしました。

渤海国があった場所は、現在寒冷な気候になっていますが、当時は今より温暖であり農業・畜産業なども盛んで、特に漁業が発展していたとされています。

唐への貢物の中に鯨の目玉を加工したものがあるため、捕鯨もそれなりの頻度でやっていたようです。

渤海国とは、だいたいそんな感じの国でした。

 


立地が微妙なため、いざという時には日本の助けを欲す

ではなぜ、わざわざ海を超えて日本へ使いを送ってきたのでしょうか。

当初の目的は、軍事的・商業的に友好な国を作るためだったといわれています。

上記の通り、渤海国は唐と朝鮮半島の国々に挟まれていますので、もしその両方を同時に敵に回してしまったら、ひとたまりもありません。

ある時、唐との関係が悪化すると、早急に味方になってくれる国を探さなければならなくなりました。

渤海国がいつ頃日本の存在を知ったのか?

その点についてはハッキリしませんが、唐を通じて知る機会はあったでしょう。

もしかしたら、唐へ行った渤海国の留学生と、日本の遣唐使や留学生が交流したこともあったのかもしれません。

こうして727年に日本への使いが送られるのですが、まだ航路も確立されていない状態ですから、船が東北へ流されてしまいます。

ついでにいえば、当時は日本も統一されているとは言い難い時代ですから、流れ着いた渤海国使節のうち、ほとんどは「蝦夷えみし」と呼ばれていた人々に殺されてしまったといわれています。

その生き残りが流れ流れて、翌年に聖武天皇へ拝謁。

異国の地で都の方角をすぐに調べられたというのは考えにくいですから、おそらくは彼らに協力的な人々もいたのでしょう。

こうして渤海国と日本の間につながりができ、使節をやり取りする関係ができました。

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