玄奘三蔵/wikipediaより引用

中国

西遊記ではなく史実の三蔵法師さまが無事帰国 もちろん猿や河童はおりません

更新日:

645年(中国の貞観十八年)12月5日、「西遊記」の主人公としても知られている玄奘三蔵が唐へ帰国しました。

もちろん現実にはお供の空飛ぶ雲に乗ったサルも河童も豚もおらず、金髪でもなければリボルバーをぶっ放したりもしていません。
ついでに、日本のドラマや映画では画面の美しさ優先で女性にされてしまっていますが、れっきとした男性です。

むしろある意味、おとこの中のおとこともいうべき人です。

そもそも彼がインドへ旅立った理由は、王様や皇帝・お寺のお偉いさんからの命令ではありませんでした。
移動手段なんて徒歩か馬くらいしかないこの時代に「正しい本から仏教の研究したいから、ちょっくらインド行ってきます」と自ら出立を決めているのです。

当時、中国では隋から唐へ王朝が代わったばかりで、まだ国内も落ち着いていません。
しかも「危ないから許可できないよ」という役人の厚意(命令?)を無視して「ならこっそり出て行けばいいよね、バレないバレない」と密出国を成功させてしまいました。

これが629年(中国の貞観三年)のときのこと。
現代のチベット僧の方々などもそうですが、仏様に仕える道を選んだ人の肝の据わりようがすげえ。

唐からインドまでは途中、さまざまな大自然の試練が待ち受けていました。

現在の新彊ウイグル地区にあるタクラマカン砂漠、中国・キルギス・カザフスタンの国境に位置する天山山脈など、高低差も寒暖差も激しい地形が続きます。
今も別の意味で危険地帯ですが、当時も盗賊が跋扈していて安全とはいい難いところだったようです。

途中商人の一行に混じったり、仏教を篤く信仰していた王様の支援を受けられたことが良かったのでしょう。

 

ガンダーラは愛の国じゃなく勉強の国だった

三年ほどかけてインドにたどり着いた玄奘は、休むこともせず猛勉強を開始します。

座学だけでなく、各地の仏教遺跡を渡り歩いて見識を深めました。
正しい教えを知るため、彼は旅の期間の数倍をかけて仏典の研究にいそしみます。

そして唐へ帰ってきたのが645年、日本では乙巳の変(いっしのへん)があって年号が大化と定められた年のことです。
十年以上経っているとはいえ密出国していたのですから、いくらお坊さんでもお咎めを受けそうだと思いますよね。

しかし当時の皇帝・太宗は「インドまで行って帰って来れたんだから、よほど仏様のご加護があるに違いない!密出国不問!!ついでに迎えも出しちゃう!」と実に太っ腹な扱いをしてくれました。

もちろん完全にタダというわけではなく、「西の国のことをレポートにまとめて欲しいな(チラッチラッ)そしたら研究も進めておk」という交換条件つきでしたが、勉強熱心な玄奘はもちろんこれを引き受けます。

こうしてできたお経が「大般若経」、レポートが「大唐西域記」です。

よくおばあちゃんちの仏壇に掲げてあったりする「般若心経」は大般若経との類似点もありますが、直接の関係はないそうです。
大般若経の偽典(お経の要約版のこと。×ニセモノ ○レジュメ)が般若心経では?ともいわれています。

 

1000万字を訳して大往生

持ち帰った経典の数は全部で657部と言われており、さすがの玄奘も全てを自分で訳すことはできませんでした。

しかし、それでも帰国から亡くなるまでの約20年で、1000万字を超える分を訳しています。
しかも単純に直訳したのではなく、より中国の人々にわかりやすいよう言葉を選んで書いていたそうです。いくら有難い教えでも、意味がわからなかったら広まりようがないですものね。

おそらく皇帝へのレポート提出がなければもっと進んでいたのでしょうが、レポートはレポートで当時の国々を知る貴重な資料になっていますので、彼が多方面でイイ仕事をしたことには間違いありません。

玄奘の生誕年には諸説ありますが、帰国時点で40代後半から50歳過ぎであったことは確実。
国史大辞典には「26才でインドに渡り、17年間で130カ国を見聞」したとありますので、43才だと妥当なところですかね。
当時の寿命からしても、おそらく一人で全てを訳せるとは思っていなかったでしょう。

そして持ち帰った657部の法典のうち、大般若経にあたる部分を訳し終わった100日後、玄奘は静かにその生涯を終えました。
享年69。かなりの大往生かと思います。

聖人伝説にありがちなアレコレの奇跡は伝わっていませんので、穏やかな最期だったのではないでしょうか。

長月七紀・記

【参考】
玄奘三蔵/wikipedia

 



-中国

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.