中国

中国「太平天国の乱」って何なの? 日本人には理解し難い内戦を噛み砕いて解説します

 

戦争は最悪の外交手段といわれます。
が、戦が起きるのは対外だけとも限りません。むしろ、内戦のほうが質が悪いことも多々あり、さらに当事者の一方に外国が肩入れした場合などは余計そうです。
本日は外国の関与こそさほどでもなかったものの、10年以上ある国を荒らしまわった、とある乱のお話です。

1851年(日本では江戸時代・嘉永四年)1月11日は、中国で太平天国の乱が始まった日です。

「中国のキリスト教信者が起こした反乱」と記憶されている方が多いかと思うのですが、実はビミョーに違います。どういうことなのかざっくり見ていきましょう。

赤で囲まれたのが太平天国の主要支配地域/Wikipediaより引用

 

リーダーの洪秀全はもともと科挙を目指す青年だった

太平天国の乱のリーダー・洪秀全は、もともと科挙合格を目指して勉学に励む青年でした。
しかし、科挙の前段階にあたる試験に落第し続けたショックにこの世の終わりのような気分で寝込んでいたところ、ある夢を見ます。

「品の良いお爺さんから剣を授けられ、中年の男から妖怪退治の手助けをしてもらう」
というもので、何となくただの夢とも思えず、気にかけながらまずは体を治しました。そしてもう一度試験を受けに行ったとき、道すがらプロテスタントの勧誘パンフレットをもらったのです。

中を読んでティン!

ときた洪秀全は、「何てこった、あのお爺さんは神様で、おっさんはイエス・キリスト様だったのか!」と妙な方向に勘違いしてしまいました。
そして「特別な夢を見た私は、きっと特別な男に違いない」と信じこみ、まず各地・各宗教の偶像を破壊し始めるという暴挙に出ます。
キリスト教というか「アブラハムの宗教」と呼ばれる旧約聖書を使う一神教では、偶像崇拝は大きな罪だからです。

もちろん、こんな乱暴行為を働いて賛同できる人は少なく、最初のうちはごくわずかな人しか味方はおりませんでした。そりゃそうだ。
洪秀全は試験勉強でさんざん中国の文化や歴史を学んでいて、それでも合格できなかったので憎む気持ちもあるでしょう。でも、多くの人は古くからの文化を大切にしているのだから当たり前ですよね。

 

神の子イエス・キリストの弟(らしい)洪秀全の言うことを聞け

そんなこんなで1847年、洪秀全たちは「拝上帝会」という組織を作ります。キリスト教+αの宗教団体ですが、純粋なキリスト教からするといろいろツッコミどころがありました。
「上帝(神様のこと)を拝む会」のはずなのに、「リーダーであり神の子・イエス・キリストの弟(らしい)洪秀全の言うことを聞け!」というものだったのです。

この時点で信心も何もあったもんじゃないと思うのですが、当時の民衆は「腹減ったよう」「お上が何もしてくれねえだよ」(※イメージです)という状況だったので、力強く「俺についてこい!!」と言われてついて行ってしまう人も少なからずいました。
この時点で、だいたい3000人ぐらいの信徒がいたといいます。こうして拝上帝会は大きくなっていきますが、その分身動きも取りにくくなりました。
役人や土地の有力者とぶつかり合うようになって、まだまじめに仕事をしていた当局に捕まる人も出てき始めたのです。

しかし、これで萎縮せず、「正しいことをしている俺らが捕まるのは、国がおかしいせいだ!」と考えた洪秀全は、ついに革命を起こすことを決意しました。
結成から三年経った1850年、拝上帝会は軍事組織化します。会員を男女別々の施設で暮らすよう厳しく言い渡し、武器の密造を始めたのです。

岳州の戦い/Wikipediaより引用

 

兵の数は3000人でも、それに勝てないgdgdの政府軍

武器の密造なんて物騒なことを始め、周囲に情報が漏れないワケはなく、この時点で軍や自警団との小競り合いがありました。
兵として使い物になる成年男性は3000人ぐらい。それでも軍に勝ってしまったあたり、いかに当時の政府軍がダメダメだったかがうかがえるというものです。
この勢いに乗ったのか、翌1851年、拝上帝会はいよいよ本格的に軍事行動を始めました。太平天国という国号もこの年から使っています。

が、元々根無し草に近い団体だったので、しばらくの間は他の賊とあまり変わりませんでした。
一応、洪秀全をトップとし、その下に五人の幹部を据えたのはいいのですが……幹部の中から「俺は神様から直接お言葉をいただけるんだぜ!」と言い出す人が出てきて、洪秀全の影が少しずつ薄くなっていきます。イヤな予感しかしませんね。

一方、清王朝からすれば、太平天国は頭痛の種の一つでしかありませんでした。
アヘン戦争が終わってようやく一息ついたかと思ったところに、再びイチャモンをつけられて、英清関係がまたきな臭くなってきていたからです。アロー戦争前夜ってところですね。
そりゃ、よそとケンカしかかってるところに身内である(はずの)自国民が暴れ出したらイラっとするしか。

こうして小競り合いが始まるわけですが、太平天国側も決定的な戦闘が起こる前に食料や火薬が尽きるという計画性のなさでした。もうgdgdやがな。

太平天国の玉璽/Wikipediaより引用

 

首都設立はいいけど、為替レートがいきなり倍

それでも革命を夢見て戦い続けた洪秀全。1852年には上記の五人の幹部のうち二人が戦死するという惨事が起きます。これにより「お偉いさん方の敵討ちだ!」という気分になってしまった彼らは、引くに引けなくなりました。
1853年、上海から840kmほど西にある武昌(現・湖北省武漢市)という町を落とし、ここにあった金銀財宝を得たことで、いよいよ勢力を強めていきます。結局、いつの時代もお金次第なんですよね。

ここから太平天国は南京へ進路を変え、見事陥落させて天京と改名し、太平天国の首都としました。
この動きに「あいつらイケるかも?」(※イメージです)と感じたイギリスから、太平天国のお偉いさんに使者が来たこともありました。

この時点で「イギリスは太平天国にも清にも味方しない」と言っていたようですが、たぶん「場合によっては味方してやってもいいから、精々頑張れよw」くらいの空気は出していたでしょうね。
さすが三枚舌外交。

こうした動きに対し、またしても清の迷走ぶりが光ります。
なんと大幅な増税をやってしまうのです。さらに、今でいう為替相場がいきなり二倍以上に跳ね上がってしまいました。この記事を書いている時点で1ドル117円くらいなんですが、これがもし明日234円になったとしたら……考えたくもないですね。

こうしてますます清王朝への反感を強めた民衆は、「やられる前にやってやる!!」と、太平天国側に参加、一般人や失業者なども加わり、どんどん組織が大きくなっていきます。

むろん、人が増えればモラルを保ちにくくなるのもまた自然の摂理です。そこをなんとかするために、太平天国軍では徹底した軍規を行使していきます。

例えば、「民家に右足を侵入させたら右足を切り落とす」というほどでした。ハンムラビ王もビックリの厳しさですね。女性に対しても同様で、纏足(足に布を巻き付けて成長を阻害し、自由に出歩けなくする刑罰のような習慣)の禁止や女性向け科挙なども行っていますが、これは「女性も戦力になってもらう」ために行われたもので、決して大切にしていたわけではありません。女性向け科挙に受かっても、お偉いさんになれたわけでもないですし。

天王府のミニチュア/Wikipediaより引用

 

重臣・楊秀清やその一族&一派の4万人をブッコロシ!

清にもまだ有能な人材がほんの少しだけ残っていました。
モンゴル人の将軍センゲリンチンによって北京を攻めようとする太平天国軍が全滅(!)させられたことで、少しずつ陰りが見え始めます。

太平天国軍は元々南方出身者が多く、北部の寒さや主食の違いなどによって士気が下がりがちだったことも原因だったようです。今でも、中国北部は小麦、南部は米が主食といわれていますものね。
現代ほど物流が発達していなかった当時は、同じ国内であっても異国に攻め込むのと変わらない状況だったことでしょう。

しかし一方で、太平天国軍にも有能な将軍が出てきたため、まだまだ持ちこたえます。
持ちこたえてしまったからこそ、数千万ともいわれる犠牲者が出てしまったわけですが……中国史で何回目でしょうねぇ、こういうの。

そして、これまたおなじみの内部抗争も起きます。
当初、太平天国は宗教的リーダーの洪秀全、実務的リーダーの楊秀清という二人のトップがいました。形式的には洪秀全が上でしたが、徐々にこの力関係が崩れ始めます。
楊秀清が図に乗って、「俺のほうがエライ!」的な態度を取り始めたのです。
当初は「アイツ仕事できるし」ということで目くじらを立てなかった洪秀全でしたが、エスカレートぶりを見ているうちにプッツンし、楊秀清だけでなく一族&楊秀清一派の4万人(!)をブッコロさせてしまいました。

しかも、直接手を下したのが洪秀全ではなく、上記の五人のお偉いさんのうちの一人だったことで、今度はお偉いさん同士でのゴタゴタが起きます。
なぜ清朝を倒してもいないのに内部分裂できるのでしょうか。まあ、日本もよそのことは言えませんが……。

 

インテリ過ぎて部下たちがついていけない新リーダー

中国の場合、それでもまた有能な人材が出てくるのがスゴイっちゃスゴイですけども、かえって長引いているような気も。
そして太平天国の中で幹部が入れ替わり、もう一度力を合わせて清朝を倒そう! という空気になったところで、とある人物がやってきました。
日本語だと「こう じんかん」と読むのですが、例によって文字コードの制約上、最後の一文字が表記できません(´・ω・`) ですので、とりあえずこの人のことは「仁」とだけ書かせていただきます。

彼は、太平天国がまだ「拝上帝会」だったころのメンバーです。武装蜂起した頃に主要グループと離れ離れになってしまって、しばらく行方知れずになっていました。洪秀全からすれば、懐かしい同志といったところでしょうか。
仁はその間、香港の宣教師から洗礼を受けて正式なクリスチャンになり、その他、医学や文学など、ヨーロッパの様々な学問を身に着けています。

組織の再編に苦労していた洪秀全は、喜んで仁を迎えました。実際、太平天国を国らしくするための制度を作るのに、仁の知識は遺憾なく発揮されます。
しかし、洪秀全以外のお偉いさんたちにとっては「アイツが言ってることちんぷんかんぷんなんだけど」(※イメージです)といった感じで、反発だけが強まっていきまし。
そりゃぁ、ある日突然「お前らが知らない国の制度に合わせるから!」なんて言われても、「えー……」としか言えませんものね。

 

陥落時に一般人含めて20万人が虐殺されたとか

洪秀全は仁の力を評価していましたが、他の幹部との仲を取り持ってやることができず、結果として太平天国そのものが弱体化していきます。
人数急増で軍規も乱れきっており、それと入れ替わりに清軍は組織の立て直しに成功しました。

さらに、上海の商人たちが西洋の武器と傭兵を手に入れ、初の西洋風中国人部隊を組織することに成功します。
上海の様子を見た清朝首脳も「武器があれば、中国人でもまだまだイケるんじゃね?」と考え、洋務運動が活発化。この流れを受けて、イギリスやフランスを始めとした欧米諸国が清朝に肩入れしていくのです。

こうなるともう、太平天国が復活する望みはありませんでした。

アッチコッチの拠点を失い、孤立化した首都・天京で踏ん張りはしたものの、食糧不足で街は荒れに荒れます。雑草を食べなければならないほどの状況で兵が暴徒化し、もはや敵と戦うどころではありませんでした。
なにせ、リーダーである洪秀全自身が、1864年に餓死同然の病死をしているくらいです。いわんや兵卒をや。

そして洪秀全の死からおおよそ50日後、天京陥落により太平天国の乱は終わりました。このときだけで、天京にいた一般人を含めた20万人が虐殺されたといわれています。
残党狩りも容赦なく行われ、洪秀全の息子や幹部については凌遅刑(※1)が科されました。

こうして太平天国には勝ったものの、もはや清の衰退は全世界に明らかになってしまいました。
その後欧米列強にむしり取られた中国がどうなるのかは……また別のお話。

長月 七紀・記

※1 生きたまま肉を少しずつ削ぎ落とされる処刑法。反乱の首謀者などに行われる、王朝時代の中国で一番重い刑罰。画像検索ダメゼッタイ。

参考:太平天国の乱/Wikipedia

 



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