中国暦咸豊九年(1859年=日本の安政五年)8月20日、袁世凱が生まれました。
日清戦争のとき中国側のお偉いさんで、歴史の授業で見覚えのある方も多いでしょう。
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日清戦争の原因と結果! 舞台となる朝鮮半島がカオスとなり戦闘勃発!
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彼が実験を握っていたのは日本の幕末~明治時代のこと。
この頃の中国は実に舵取りの難しい時期でした。
二千年来の中華思想その他諸々によって他国をナメきっていたところ、アヘン戦争・アロー戦争で威厳も何もかもぶっ飛ばされてしまい、欧米諸国からは「眠れる獅子」扱い。
しかも国土をあっちこっち割譲させられるという罰ゲームつきでした。
ついでにずっと支配下に置いていた朝鮮では民衆が「俺らもうビンボーに耐え切れません」と反乱を起こし、北からは「不凍港が欲しいから朝鮮くれ^^」とロシア帝国が迫ってくるという状況。
遣唐使の時代には渡り難かった日本海もずっとカンタンに通れるようになって、日本も諸々の動きを見せていたころです。
おそらくどんな人物がこの時期の中国を担ったとしても、全方向をうまく収拾することはできなかったでしょう。
科挙試験に二回も落第……
そんな時代に生まれた袁世凱は、地元ではちょっとした名家のお坊ちゃんとして知られていました。
本人も野望のためか周囲の期待ゆえか、立身出世の望みが強かったようです。
が、中国のエリートが必ず通らなければいけない科挙試験に二回も落第……。
「三度目の正直」には賭けず、彼は路線を180度変えて軍人の道を志します。
そして朝鮮のドンパチを収め、朝鮮の責任者だった李鴻章の副官的な位置で権力を手に入れました。
その勢いで朝鮮併合を狙う日本ともアレコレ駆け引きをしていますが、結局、日清戦争に負け「ウチの軍隊も西洋化させないとヤバくね?」と考えを少し変えました。
そこに気づくのが遅いような……。
カネを借りまくった挙句に国内設備へ投資
袁世凱が西洋式の装備と訓練を取り入れたことで、清の軍隊は飛躍的に質を上げます。
視察に来た欧米各国や日本の高官にもそれなりに評価されていたそう「ストロング・マン」というよくわからないあだ名もつけられています。
どうでもいいですが、袁世凱は妻妾10人、子供31人がおり、夜のほうも達者だったようなので、そこが「ストロング」だったとか?って、ゲスの勘ぐりでスミマセン。
彼には、このころ信頼できる部下ができており、いよいよ袁世凱の本番!といったところなので、メンタル面での力強さが際立ったのかもしれませんね。
いずれにせよ、軍事力を背景に、彼は政治の世界にも影響を及ぼしていきました。
しかし、袁世凱には理屈が先立って現実が見えなくなるような癖があったらしく、( ゚д゚)ポカーンものの事態を招いてしまいます。
なんと、あっちこっちの列強から金を借りまくって国内の整備を始めたのです。
少々乱暴ですが、これは現代の株式会社でいえば”複数のデカイ会社に株を発行しまくるかわりに社内設備や福利厚生を充実させた”ようなもの。
そんなことをすれば、当然株主の意向をより尊重せざるをえませんよね。
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お決まりの独裁者ルートへ……
しかし、なぜか袁世凱は「いろんなとこから借りれば、お互い牽制しあうだろうからウチは安全」と信じ込んでいました。
アヘン戦争以降あっちこっちを切り取られている状態だというのに、なぜそんなことを信じ込めたのか理解に苦しみます。
だんだんキナ臭くなってきましたが、おそらく大多数の方が予測されている通り、この後、袁世凱は独裁者への道を歩み始めます。
清王朝が宣統四年(1912年)に最後の皇帝が退位して滅亡すると、彼は待ってましたとばかりに新しい国号「中華民国」を打ち立てて、そのトップになろうとしたのです。
世襲ではなくなったというだけで、「一人の絶対的な権力者による政治」という点では帝政と何も変わりません。
そしてついに最終ウェポン 皇帝宣言!
そうした中で第一次世界大戦が勃発。
中華民国は中立を宣言しましたが、日英同盟の「どっちかが複数の国と戦争になったら助太刀すること」(超訳)という取り決めにより、日本が中国大陸のドイツ領を攻撃してきたのでそうも言ってられなくなりました。
日本は日本で、欧米に対抗するために大陸へのとっかかりが欲しかったので、袁世凱に抗議されてもタダではどきません。
むしろ21カ条の要求を突きつけて「もっとオマケくれますよね?さもないと……」という態度を示しました。
この間、袁世凱は色々と情報戦を試みていますが、どれも失敗した上に、国内外から「何だよあいつ口先ばっかかよw」という目で見られるようになります。
にっちもさっちもいかなくなった袁世凱。
ついに奥の手に出ます。
なんと権力の集中を狙って「皇帝」の復活と自ら帝位につくことを宣言したのです。
数年前に清を滅ぼしたという状況なのに……。
当然のように国内外からさらなる反発を招き、たった数ヶ月で退位。
本人としてはよほどの自信策だったようで。
落胆からなのか。
退位三ヵ月後の1916年6月6日、尿毒症を悪化させ、58才で亡くなりました。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
袁世凱/wikipedia