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ヴィクトリア女王/Wikipediaより引用

イギリス

ヴィクトリア女王の「子・孫・ひ孫」が奔放過ぎて英国王室ガッタガタ!?

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1837年、若干18才のヴィクトリア女王が即位したとき、国民は可憐な女王の姿に魅了されました。

なんせ彼女の前に王座についたハノーヴァー朝の国王たちは、国民の手本となる人物とは言いがたい君主ばかり。ジョージ三世をのぞく王たちは全員好色で粗暴、素行に問題がありました。
唯一の例外であるジョージ三世は、我が子の乱行と自らの発狂に苦しめられました。

今度の若き女王こそ、人々の模範となる人物であって欲しい!
多くの国民がそう願っていたことでしょうし、実際、その願いは叶えられます。

ヴィクトリアは堅物でした。
生真面目で、頑固。そんな彼女が選んだ結婚相手はザクセン=コーブルク=ゴータ公子のアルバートです。

ヴィクトリアにとって従兄にあたる彼は、さらに輪を掛けて真面目でした。
「愛人を持つなんて、そんなことを考えただけで気分が悪くなる!」
ヴィクトリア朝の英国紳士とは、本来のイギリス人の気質と言うよりも、この堅物のドイツ人であるアルバートがお手本となった理想像でしょう。

ハンサムで生真面目なアルバートは、ヴィトリアにとって理想の相手でした。
9人の子に恵まれた国王の家族は、あたたかみがあり清らかな、厳格なプロテスタント的理想にかなうものでした。

仲睦まじきかな、ヴィクトリア女王とアルバート一家/wikipediaより引用

国民にとって理想的な、あたたかい家族像。それがヴィクトリア女王の一家……のはずでした。

 

やんちゃなバーティ 父祖の血に覚醒する

しかし、国王夫妻に誤算が生じます。
成長するにつれ、長男の王太子アルバート(エドワード7世)、愛称バーティの素行に不穏な兆しが見えてきたのです。

各国との友好に努めた英国王エドワード7世 母ヴィクトリア女王に振り回され続けた生涯

国王夫妻の子供たちは、王宮で家庭教師をつけられ、厳しくしつけられていました。
バーティは賢い少年でしたが、学問に興味はありません。
厳しい学習としつけに反発し、家庭教師に当たり散らすようになります。

そんなバーティは1859年、やっと外の空気を吸う機会に恵まれました。名門オクスフォード大学に入学させられたのです。
この二年後には、ケンブリッジ大学へ。しかしバーティは学問よりも芸術や文学、そしてそれ以上に酒、煙草、賭博、美しい女性が好きなのでした。

1861年、バーティはアイルランドで陸軍の訓練を受けました。
そこで同年代の若者たちは、バーティに「みんながやっている気持ちいいこと」を勧めてきます。それは女優兼娼婦のネリー・クリフデン相手に童貞を捨てることでした。
ベッドにすべりこんできたネリー相手に、バーティは「堕落」したのでした。

「バーティが娼婦相手に童貞を捨てた、ですって!?」
両親は我が子の堕落を歎き悲しみ、息子の素行に頭を痛めるのでした。

さらにケンブリッジ大学学寮長からは「皇太子を何とかしてください」と苦情が寄せられる始末。
ヴィクトリアは激怒し、ケンブリッジ大学総長をつとめるアルバートは胃痛に苦しめられました。

アルバートは体調不良をおしてまで、ケンブリッジへバーティをしかり飛ばすために向かうのでした。

 

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欧州一の美女を妻にすれば少しは落ち着くか?

その直後、アルバートは僅か42才で薨去しました。
死因は腸チフスでしたが、ヴィクトリアは「馬鹿息子のせいで心労がたたって、寿命が縮んだ!」と信じ込み、バーティを憎むようになります。

「バーティの素行を落ち着けるためには、美女の妃がいればよいのでは?」
ヴィクトリアはそう考えました。

そこで彼女が選んだのはデンマーク王女のアレグザンドラ、愛称アリックス。
ヨーロッパ一の美女の座を、あの伝説的なシシーことエリザベートと競っていた王女でした。

しかし、どんな美女を妻に持とうと、バーティの遊び好きはまったく収まる気配がありません。
博奕、飲酒、喫煙、そして美女との逢瀬が何より好き。
社交界の美女と浮き名を流すバーティの姿は王室の恥部そのものでした。

「さあ、賭けた賭けた! 王太子殿下は今度の愛人とどれだけ持つか賭けてみようぜ!」

国民たちの中には、そんな賭けごとをする者まで出る始末。
ヴィクトリアとアリックスは、バーティのそんな放蕩三昧を苦い思いで見守り続けることになるのでした。

そして、さらに大きな問題が出てきます。

 

女王の孫であるエドワード王子は別の意味で……

度重なるスキャンダルにまみれたバーティのことを、フランスのある新聞は意地悪くこう書きました。
「こんなことが続くのならば、女王の孫であるエドワード王子が即位するのではないだろうか」

この頃、外国のメディアはまだとある秘密をつかんでいなかったようです。
その秘密とはエドワード、愛称エディ王子のことでした。

このバーティの長男は、父親以上に問題のある王子だったのです。

1864年生まれのエディは内気な性格でした。
それだけならばまだしも、集中力が続かず、まったく勉強に身が入りません。父のバーティは、勉強嫌いでしたが聡明でした。
しかしエディの場合は、全く理解できていないようなのです。

周囲の者は気を揉み、本人はさして気にも留めない様子。
両親はエディをケンブリッジ大学に入れました。しかし、それでも全く能力は改善しません。

「読むという言葉の概念すらご存じないようですね……」
ある講師はそう言い、エディを教育することは絶望的だとみなしました。

次にエディが入れられたのは海軍です。
しかしここでも訓練についていけませんでした。

 

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男娼館に出入りする姿を目撃されてしまう!?

エディは20代になると梅毒の罹患が判明。さらに「クリーヴランド・ストリート・スキャンダル」という事件にも巻き込まれます。

当時、同性愛は禁止されていたものの、男娼館は多く存在していました。
そこに出入りする貴族がいるということで、調査が行われます。
当初は別の貴族を狙ったものでしたが、なんとそこでエディ王子が目撃されたのです。

この爆弾級のスキャンダルをイギリスは国をあげて隠蔽しようとしましたが、外国の新聞はこぞって書き立てます。
絶望したヴィクトリア女王はこう漏らしました。

「エディが国王になったら、王室は滅びるかもしれない……」

この懸念は、1892年、エディが僅か28才で世を去ったことによって払拭されました。
ヴィクトリアにとっては孫、バーティにとっては我が子の死ではありましたが、二人に安堵する気持ちがなかったのか?と言えばそうとも思えません。

代わって王位継承者となったのは、弟のジョージ王子でした。
エディの元婚約者であるメアリー・オブ・テックと結婚したジョージは、妻を深く愛し、愛人を作ることは決してありませんでした。
ジョージは父を深く敬愛してはいたものの、父のように奔放な生活をして新聞のゴシップ欄をにぎわすような君主にはなるまいと、固く誓っていたのです。

「愛する妻のもと、国民の模範たる理想的な家庭を築き上げるのだ」

ジョージ五世として即位した彼はそう誓っていました。
しかし、ジョージ五世国王夫妻もまた、祖母ヴィクトリア、父エドワード七世と同じく、奔放な王太子の素行に頭を痛め、英国王室を危機に陥れることになるのでした。

エドワード8世。彼に関しては以下の記事をご参照ください。

「王冠をかけた恋」を選びイギリス王を退位したエドワード8世

文:小檜山青




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【参考文献】

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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