歴史の中には「淫乱」と呼ばれる女性が登場します。
もちろんそのほとんどが誹謗中傷めいた噂の類で、中には、政略結婚のため泣く泣く再婚した女性が「二夫にまみえた」ということで、そんな呼び方をされてしまうこともあるわけで。
大半はゴシップ的に取り扱われた結果なんですね。
しかし!
中には本当におります。
「この女性、エロすぎないか?」という人物が。
しかもそれが、あのナポレオンの妹というのですから日本人にとっては目が点なお話(*_*)
本日は、ヨーロッパ中を震撼させた美貌とエロスの持ち主ポーリーヌの歴史を振り返ってみましょう。
もくじ
もくじ
皇帝陛下の11才下 絶世の美女・ポーリーヌ
今さら説明するまでもないほど偉大なナポレオン。
彼には三人の妹がいました。
その個性的なキャラクターをかいつまんで紹介しますと、以下の通り。
長女エリザ:勉強が好きで生真面目。フィクションでは大抵出てこない
二女ポーリーヌ:本稿主役。美人でエロくてスタイル抜群でお兄ちゃん大好き
三女カロリーヌ:女の体にマキャベリの頭脳を載せた、と評価されるほどの策謀家
……なんなんでしょうね、これ。
フィクションでこんな設定を出して来たら「ベタか!」とやり直しになるようなラインナップ。
しかし史実なんだからしゃあない。
ポーリーヌは兄ナポレオンより11才下の妹として誕生しました。
ボナパルト一家は政治闘争のあおりを受け、故郷コルシカ島からマルセイユに引っ越します。
二兄のナポレオンが軍人としてのキャリアをスタートし、革命後混迷を極めるパリに赴任していた1796年。
僅か15才のポーリーヌは、男たちの心を引きつける早熟な美少女でした。
彼女は兄ナポレオンの部下・ジュノーと交際していたものの、
「あんな貧乏な男は駄目だ」
ということで、あえなくダメ出しされてしまいます。

ナポレオン/wikipediaより引用
次に彼女と熱烈な恋に落ちたのは41才の政治家・フレロンでした。
ナポレオンはこの結婚に当初は乗り気だったものの、母のレティツィアは断固反対します。いくら有力政治家とはいえ、15才と41才ではねえ……。ナポレオンもイタリア遠征に忙しく、妹の結婚どころではなくなったようです。
ポーリーヌはフレロンに永遠の愛を誓いながらも、母には逆らえず、泣く泣く別れを告げます。
「永遠にあなたを愛し続けるから!」
しかし、その別れから一年も経たないうちに、ナポレオンの部下で金髪のイケメン・ルクレール将軍と結婚するのでした。
24才の花婿と、16才の花嫁、美男美女のカップルです。
2人はナポレオンの遠征先であるイタリアで結婚式をあげました。
上り調子の上官の妹、しかも美人で評判の女性と結婚するなんて、とルクレールは大喜び。ポーリーヌもイケメンの夫にうっとりとこれまた大喜び。
フレロンのことはまあ、忘れたんでしょうね。
革命後の激動の時代、野心を燃やし、才知を発揮したいと願う女性もいた中で、16才のポーリーヌは美しい見た目はともかく、中身は割と普通の女の子でした。
「えー、やだー、マジー!?」
こんな調子で、しょ~もない話題で笑い転げるポーリーヌ。この夫妻は1798年には男児デルミィドを授かります。
順風満帆に見える若い夫婦。しかしポーリーヌを生涯悩ませた病もこの頃から発症しています。
出産時に生殖器が感染症を起こしてしまい、後々までこの病に悩まされることになるのです。
第一執政の妹としてパリ社交界でもノリノリ
兄ナポレオンはこのあとエジプト遠征に向かい、夫ルクレールは病気のためパリに残ります。
今やルクレール夫人となったポーリーヌはパリ社交界でデビューを飾りました。
美人だとちやほやされてきたコルシカ出身の彼女にとって、そこはなかなか厳しい場所でした。
パリ社交界は魅惑的ではあるけれども、美貌だけではなくファッションセンスやエスプリも要求されるのです。
これをポーリーヌは美貌と持ち前の気の強さで乗り切り、社交界屈指の美女として名声を得ます。
この社交界で同じく名花と讃えられていたのが、ナポレオンの妻でポーリーヌの義姉にあたるジョゼフィーヌでした。
しかし彼女はボナパルト家の面々からは嫌われていました。
お兄ちゃん大好きのポーリーヌは露骨に彼女を嫌い、ねちねちと悪口を言います。
正面切ってファッションに駄目出しもしました。
「ちょっとぉ~~。義姉様ったらぁ~~。いい歳こいたババアのくせに、ドレスに花をつけるとかマジありえないんですけどぉ~~」
こんな調子で、ジョゼフィーヌ以外にも、敵対関係のあるライバルに容赦なく喧嘩を売るポーリーヌ。誰も正面切って文句は言えません。
なんせナポレオン様の妹君なのであります。
1799年、エジプト遠征から電撃帰国したナポレオンはクーデターを敢行し、第一執政としてフランスのトップに立っておりました。
しかし2年後の1801年、ルクレール夫妻に転機が訪れます。
夫は、サン=ドマング(現在のハイチ)遠征軍に任命されたのです。革命後高まった自由の機運はフランスの植民地にまで及び、のちにハイチ建国の父と称されるトゥーサン・ルーヴェルチュールが独立を求め反乱を起こしていました。反乱軍の鎮圧がルクレールに課せられた使命です。
夫の栄転にうかれたポーリーヌですが、出発前にだんだんと不安をつのらせ、親友に愚痴をこぼします。
「三歳児連れて地球の裏側に行くなんてありえないし。兄さまの意地悪」
「そう? でも、クレオール風(植民地)のドレスを着たあなたって、絶対イケてると思うけどな」
「やっぱりそうよね、私もそう思う! 南の島でパーティしまくろうっと!」
おだてられたポーリーヌは、南国行きを楽しみにするようになったのでした。
その先で起こることを知っていたら、そんな気持ちには決してならなかったのでしょうが。
「悪疫の地」サン=ドマングで夫を失う
熱帯の地に着いたルクレールは、厳しい態度で反乱軍に挑みます。
一方でルスを守るポーリーヌは、淫らな行為にふけっていたという噂が流れます。
同性愛、夫の部下との情事、比べるために白人と黒人の愛人両方を試す、乱交パーティ等など。
ナポレオンも心配して「夫にやきもちを焼かせるようなことをしてはいけないよ」と手紙で諫めています。
ただしこうした噂は誇張されていると思われます。
イギリスの反フランス・ナポレオン一族キャンペーンの一環とも考えられるからです。
当時、熱帯の気候は人を淫らにするとも考えられていましたので、それもあるでしょう。
ただしポーリーヌが熱帯での暮らしを楽しんでいたのは確かなようです。
現地住民と開いたダンスパーティは大好評でした。
程なくして、ルクレールは反乱軍を鎮圧します。しかし、待っていたのは反乱軍の将・トゥーサンよりも恐ろしい脅威でした。
黄熱病です。
日本人にとっては野口英世の命を奪ったものとして知られる、この恐ろしい病が、フランス軍とその家族を襲撃。ポーリーヌとディミルドまでも一時罹患するも、無事回復しました。
しかし大半の人々は病に倒れると命まで奪われてしまうのです。
結果、この疫病の大流行でフランス軍は壊滅的な打撃を受けました。
そして最愛の夫ルクレールもこの病に斃れ、僅か30という若さで帰らぬ人となったのです。
ポーリーヌは栗色の豊かな髪を切り、黒い喪服に身を包みました。
「永遠にあなたを愛し続けます……」
彼女はそう亡き夫に誓いました。そして残された我が子と防腐処理を施された夫の遺体とともに、母国仏フランスに戻ることになるのでした。
黒いヴェールに包まれたフランス一の美女
黒いヴェールに包まれたフランス一の美女――。
まだ22才にして未亡人となったポーリーヌを人々はそう噂しました。
そんなポーリーヌの周囲には、夫を支えた勇敢な女性という声もあれば、南の国で乱交に耽った淫らな美女という声も。ナポレオンはそんな妹を、ゴシップと誘惑から守らねばならない、と考えます。
が、まだ22才で、しかも遊び好き。
美貌を賞賛されていなければ気が済まない、そんな彼女がいつまでも喪に服しているわけもありません。
ルクレールへの永遠の愛とは何だったのか……。まぁ、仕方のないことでしょう。
ナポレオンはイタリア貴族からポーリーヌの再婚相手を物色しました。
とりあえず問題がなさそうだと白羽の矢が立ったのが、28才のカミッロ・ボルゲーゼ大公でした。
地中海風の美貌を誇り、壮麗な馬車を駆るカミッロは女性にとって憧れの的でした。
当時の馬車は維持費が高く、金持ちのステータスシンボルです。
現在で言うところのフェラーリやランボルギーニのような、いやそれ以上の価値がありました。フェラーリに乗るイケメンセレブですね。
ボナパルト家の面々が見守る中、ポーリーヌとカミッロの出会いは演出されました。
しかしナポレオンはカミッロの欠点に気づいていました。
彼の父は教養ある人物であり、弟も賢かったのですが、彼本人は頭の出来がよろしくない、と言われていたのです。
「ボルゲーゼ公はイケメンだけど、操れるのは馬車くらいだろ。まともな会話すら操れないさ」
そう噂される残念なイケメンだったのです。
しかしポーリーヌは、ナポレオンが「もうちょっとちゃんと服喪しろよ」と苦い顔をするほど前向きに再婚へ向けて突っ走ります。
「あんなアホが相手じゃあ、お前すぐに飽きるんじゃないか」
ナポレオンはそうあきれながらも、再婚を認めざるを得ない……。
ナポレオンの予感はこのあと、的中することになります。
美しさを永遠に残したい! まるで裸のヴィーナス
1804年、ナポレオンはフランス皇帝となります。
あわせてポーリーヌも皇帝の妹という称号を得るのでした。
「皇帝即位を祝うために、何か記念品を作りましょ!」
ポーリーヌは名高い彫刻家カノーヴァに依頼し、勝利のヴィーナス像を造らせることにしました。
モデルはポーリーヌ自身です。
依頼を受けたカノーヴァははじめ断ろうとしています。イタリア遠征の際、ナポレオン率いるフランス軍はイタリア各地から美術品を強奪したことを彼は不快に思っていたのです。
しかし、しぶしぶポーリーヌに出会ったカノーヴァは、その美しさにすっかり魅了されてしまいます。
ミルクのように白い肌、均整の取れたプロポーション、形のよいバストにヒップ。
「この美貌を前にして、モデルにしたがらない芸術家はいるだろうか!」
大興奮です。
しかしカノーヴァは、異議を唱えます。
ヴィーナスはいかがなものか?
純潔の女神ディアナの方がよろしいのでは?
「私が純潔の女神って、説得力なさすぎるしぃ!」
ポーリーヌは即断で拒否。確かに美と愛欲の女神の方が彼女にはふさわしいでしょう。
こうしてできあがったヴィーナス像を見て人々は仰天しました。
誘うような表情、腰まではだけた服……ほとんどヌードですよね、これ。
「フランス皇帝の妹ってこんなにエロいのか!?」
周囲の人々は彼女にこんな格好でモデルをしたのかと尋ねます。
「立派な暖炉があるから寒くないし、カノーヴァなんて本物の男じゃないし平気」
そんな人をくったような答えをして楽しむポーリーヌでした。
彼女の抜群のプロポーションですが、ポーリーヌ自身は「私は運がいいだけ」と冷静にとらえていました。
ほっそりとした美貌で有名なオーストリア皇后エリーザベトのような、血のにじむような過激な美容法やダイエットはしておりません。
ポーリーヌの生きた頃は、コルセットに支配されたヨーロッパの服飾史においてもぽっかり空いた穴のような時代です。
彼女は腰をぎゅうぎゅうと締め付けず、ゆるやかなシルエットの薄いドレスを身にまとっていたのです。
兄の皇帝戴冠式を前にしてまさに得意の絶頂にあったポーリーヌ。
しかしそんな彼女をまたもや不幸が襲います。
もうすぐ6才になる息子デルミィドが急病死したのです。
愛する夫ルクレールに続けて息子を失い、彼女は絶望のどん底に突き落とされました。
ポーリーヌにとって夫カミッロは救いになるどころか、その馬鹿さ加減がストレスの源。そもそも兄がサン=ドマングに私たちを派遣しなければ……。
そう不満を抱えつつも、彼女は兄の戴冠式に出席するため、パリへと向かうのでした。
「あんなに美人でエロい妹なら、兄だって、ねぇ……」
晴れの舞台の戴冠式もポーリーヌにとっては不満の種でした。
兄の跡継ぎすら産んでいない、大嫌いな義姉ジョゼフィーヌが着ているドレスの裾を、三姉妹で捧げ持たねばならなかったからです。

ナポレオン戴冠式/wikipediaより引用
やってらんないし! とでも思っていたのでしょうか。
23メートルもある裾を持つ三姉妹は、進行方向とは逆に引っ張るのです。
進むこともできず焦るジョゼフィーヌ。ナポレオンがギロリと妹たちを睨み付けたため、やっとジョゼフィーヌは進むことができました。
この戴冠式の頃から、何もかも吹っ切れたポーリーヌの「ご乱行」が激しくなります。
妹カロリーヌの夫ミュラは軍人として成功をおさめ、夫妻は出世していきます。
ポーリーヌは妹に嫉妬しましたが、ナポレオンはこう言います。
「ミュラは使える男だけども、お前の夫のカミッロは馬鹿で使い物にならんからな。地位を高くするわけにはいかん」
軍人として勇猛果敢だった元夫ルクレール。
猪突猛進型の軍人である義弟のミュラ。
それに比べて夫は馬鹿で役立たず……。ポーリーヌの後悔と怒りと不満が噴き出します。美貌を賞賛されるだけでは、贅沢三昧では、心の隙間は埋まらないのです。
「私は、兄やルクレールのような男に抱かれないとダメな女なの……」
かくしてポーリーヌは、ナポレオンの部下だろうと、政敵だろうと、構わず誘惑することになります。
その中にはナポレオンに嫌われたアレクサンドル・デュマ将軍もいました。
のちに作家となった将軍と同名の息子アレクサンドル・デュマは、女神のような女性が突然家に現れた記憶を書き残しています。
デュマとの関係はどこまで深入りしたかはわかりませんし、息子デュマの記述も曖昧にぼかされています。
しかしポーリーヌが愛人をたくさん作り、ゴシップ好きの社交界に切れ目なく噂の種を供給し続けていたのは事実です。
夫に隠すことなく、むしろ堂々と、
「アンタみたいな役立たずじゃ、私、満足できないの!」
と示すように、多くの愛人たちと情事を重ねるのです。
ポーリーヌは出産時に感染した婦人科系の病を治療すると称して各地の温泉を旅します。
温泉だけではなく、ミルクのような美肌を保つためと称して、牛乳風呂とシャワーを欠かさず行うのでした。
そうした温泉リゾート先で、デートを重ねるわけです。
しまいには主治医から「あまりにも激しい生活(下半身的な意味で)はおやめください」と言われるほどでした。
情事を重ねたのは「兄の部下」だけだったのか?
そんな噂は、当時でも恰好の話題となりました。
「あんなに美人でエロい妹なら兄だって、ねえ」
ナポレオンの妻ジョゼフィーヌまでもが、ナポレオンとポーリーヌの仲を訝しむ有様です。
ジョゼフィーヌはナポレオンが妹と「親密に抱き合う」場面を見て泣き崩れてしまったとかなんとか。
ポーリーヌはジョゼフィーヌが大嫌いで、ことあるごとに嫌がらせをしました。
そんな嫌がらせには、美女を愛人としてみつくろって兄に紹介することまで入っていました。そうした行動が周囲を誤解させたとしてもおかしくはありません。
1810年、ジョゼフィーヌが離婚された際には、ポーリーヌは大喜び。その一方で、兄が再婚すると再婚相手に夢中にならないかとやきもきしています。
この兄の結婚相手を異常なまでに気にして憎む性格も、「あの兄妹はあやしい」という噂の一因なんでしょうね。
また、ポーリーヌとナポレオンは、マウストゥーマウスのキスをすることもありました。
ナポレオンは「これはコルシカの習慣だ」と弁明しましたが、周囲からは
「そりゃないでしょ!」
と思われてしまいます。そりゃそうっすな。
悪意を持つ人々はこっそりと、彼女を「メッサリナ(娼館に入り浸ったとまで言われたローマ帝国クラディウス帝妃)」と呼んだほどでした。
※続きは次ページへ