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「アラビアのロレンス」の死の真相
映画アラビアのロレンスの主役を演じた俳優のピーター・オトゥールさんが12月14日、病院で死去しました。81歳でした。
オトゥールさんは安らかな死を迎えたようですが、武将ジャパンでは、ロレンス本人の波乱万丈の死の真相についての記事を載せています。ぜひ読んでください
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先日のガガーリンの死の真相ネタは、結構読まれたようですね。近現代史の有名人とは言え、今の世代の人にしたらソ連という国や冷戦という概念が分かるのかなぁと危惧していましたので、意外と言えば意外でした。まぁ素直に喜ぶべきなのでしょう。てな訳で柳の下の泥鰌を狙う事にします。
先日、 ニュー・ジャーマン・シネマの巨匠、ヴェルナー・ヘルツォークがメガホンを取る「砂漠の女王」という映画の制作発表がありました。20世紀初頭に活躍したガートルード・ベルという女性(イラク建国の立役者的役割を果たし、「イラクの無冠女王」という異名で知られていたイギリスの女性情報員・考古学者・登山家※詳しくはウィキペディアでご覧下さい)の伝記映画になります。
で、20世紀初頭→第一次世界大戦→アラブと言う流れが紹介される関係もあって、劇中でトーマス・エドワード・ロレンスが登場する予定です。
そう、有名な「アラビアのロレンス」ですね。
映画史上に残る名作であり、ロレンスのイメージを決定づけもしました。ヘルツォークが描くロレンスがどんな風になるのか、楽しみではあります(なお、主役のベルにはニコール・キッドマンが扮するかもしれないのですって)。
そんな訳で、再び注目が集まりそうなロレンスですが、その死の原因について知っている人がどれだけいるのかなぁと改めて思うようになりました。
「はぁ? 映画の方でも有名やんけ。バイクでこけて死んでもうたんやろ」とお考えの方、いやまぁそうなんですけど。
「じゃあ、ロレンスは何でバイクに乗っていたんでしょう? どこに向かう途中の事故だったんでしょうか」という疑問が湧いて出ませんか?
意外な人物との会見を提案され
映画の方では、田舎の一本道を走っている最中に、自転車の子供などを避けようとしてハンドル操作を誤ってしまうシーンがありました。これは史実に忠実。事故現場となったのは英国南部のドーセット州のボービントンという田園地帯(軍事ネタが好きな人なら、「あぁ戦車博物館のある所ですね」と思い出されるでしょう)。お墓もドーセットにあるぐらい。
ちなみに、お墓参りに来るのは英国人よりも日本人観光客の方が多いらしく、地元の観光ガイドは「何で? 彼は日本とは縁もゆかりも無い人なのに」と不思議がっているそうです(ロレンスのファンで、実際に墓参りした妹の体験談。「日本人は悲劇的な生涯を送った人が好きなんです」と言うと「あぁ、神風の国だもんね」と答えたのだとか。う〜ん、国際理解って難しいなぁ)。
脱線が過ぎますな(汗笑)。さて、話を戻しますと、ロレンスが事故にあったのは1935年5月13日。友人で作家のヘンリー・ウィリアムソンからあった提案に返事の電報を打ち、その帰りしなの悲劇でした。なお、事故現場から、コッテージまでは200ヤードぐらいしか無かったそうです。
で、このウィリアムソンが寄越した電報の内容が、知る人ぞ知るという内容。
「ヒトラーと会ってみないかね?」
各界の有名人と交流があったアラビア後のロレンス
ここで、アラビアでの活躍後のロレンスについて少し触れておきましょう。映画の方では傷心のまま砂漠を去ってしまったので、以後の人生ではアラブ世界と縁を切り、上記の田舎町で隠遁生活を送っていたように思われる向きもありましょうが、実際には色んな活躍をしています。
例えば、あのベルサイユ講和会議にも出席していますし、1921年には英国植民地省でアラブ問題顧問として勤務もしています。ちなみに上司が、後の第二次世界大戦時に首相として辣腕を振るったウィンストン・チャーチルでした。
更に、22年には偽名で空軍に入隊しますがバレて除隊処分。にもかかわらず、懲りず再び偽名で陸軍の戦車部隊に入隊。その後も当時の植民地だったインドなどで勤務したりしています。で、ようやく軍籍を解いたのが、1935年。そして退役して2ヶ月後に、この世を去った訳です。
変わり者と言えば変わり者ですが、当時の著名人であった事は動かしがたい事実。オックスフォード大学を優秀な成績で卒業しただけあって、教養も豊かでしたので、各界の有名人と交流がありました。
代表的な人が、作家のジョージ・バーナード・ショーでしょうか。ロレンスが陸軍に入隊する際に使った偽名が「ウィリアム・ショー」ですが、これはバーナード・ショーを意識したのではないかという説があるぐらいです。また、先にも述べましたが、チャーチルとは知己でしたし、ロレンスの葬儀の際に弔辞も読んでいるぐらい。この他、トマス・ハーディー(映画「テス」の原作となった小説を書いた人です)は、ロレンスが代表作の「智恵の七つの柱」を書く際にアドバイスをしています。
そんな当時の著名人のサークルの中に鎮座していたのがウィリアムソンでした。日本では馴染みのない人物ですが、英国ではナチュラリスト兼作家として今でも有名な人です。
ウィリアムソンは1895年生まれ。1888年生まれのロレンスとは7歳下。この世代に生まれた英国男性がそうであったように、第一次世界大戦に出征。西部戦線を転戦する内に、戦争の悲惨さを身を以て知り「英国とドイツは二度と戦争してはならない」と決意しました。
戦後、自然や田園生活について書いた作家のリチャード・ジェフリーズの著書に触れて自分も作家になろうと決意。1927年には代表作の「Tarka the Otter」を世に出します。この作品は1978年に映画化され「かわうそタルカの大冒険」という邦題で日本でもDVD化されています。
最初は好意的に見られていたヒトラー
それにしても、何故ヒトラーだったのか? チャーチルの回想録「第二次世界大戦」などをお読みの方は「ヒトラーの登場で、欧州に徐々に緊張が走り、英国民は遂に正義のためにナチスと戦いを挑んだ」といった理解をなさっておられる方も多いがと愚考します。実際には違うのですね。
実際にはウィリアムソンのように「酷い目に遭ったし、もう戦争は懲り懲り」という人は、少なくありませんでした。同時に1929年の世界大恐慌以来、世界各地の資本主義国家の経済は迷走。「ソ連のような共産主義体制が良いのでは無いか」と論じる知識人が出たりする一方で注目を浴びたのがヒトラーでした。
何しろ、ヒトラーが登場するまでのドイツは、戦後のワイマール体制の中、今日で言う「決められない政治」が続いていました。1933年にヒトラーが政権を握った際も「どうせ短命に終わるだろう」と見る向きが多かった。
ところが、いざ蓋を開ければ、それまでのハイパーインフレなどドイツを困らせていた諸問題を見る間に解決。アウトバーン構想をぶちあげ公共工事とし、失業中の人達を大勢雇い、敢えて肉体労働させて経済の活性化を図ったりしました。絵描きを志した事もあるだけに、「どうしたら人の注目を浴びるか」を意識した人だったのでしょう。一方、英国はと言うと経済的には迷走を続けており、ソ連みたいな共産主義は嫌だと思う人の中でヒトラーは好意的に見られていたのです。
そんな1人がウィリアムソン。こう思っていたそうです。「新しい時代が来なければならない。ヒトラーと、ロレンスは会わねばなるまい」("The new age must begin ...Hitler and Lawrence must meet...")。
ウィリアムソンは上記の本を書いてからロレンスと親交を深めました。つまり、事故時点で8年の付き合い。そんな関係でしたから、強力にプッシュされると断りづらかったものがあった筈でしょう。しかも、他にもヒトラーとの会見を薦める知人らもいたとされています。
前向きだったロレンス 「英国のヒトラー」に?
本人自身も、退役したし、著書の印税も入って来るし、時間もある。そこにこの提案。周りも推奨し、俗に言う「外堀を埋められていってる」状態だったようです。自宅近くも当時の大有名人だけあって、新聞記者らが張り込む状態。しかも、このオファーは知られていたらしく、話題が集中します。
「何時ヒトラーと会うのですか?」と言う質問はまだ良い方で「英国の独裁者になる準備はなさっているのですか?」などという質問まで出る始末。
こうした質問攻めに嫌気がさしたロレンスは、ツーリングして記者を巻こうとするのですが、何時の世もマスコミは同じ(苦笑)。逃げた先のコッテージにも先回りされ「話を聴かせてくださいよ」と、屋根に石を投げる記者まで出たので、遂には腕力沙汰になり、警察が出動して警備に当たるようにまでなったそうです。
そして運命の日である5月13日を迎えます。乗っていたのはブラフ・シューペリア社の高級バイク。ノーヘルでした。ロレンスは、ウィリアムソンの申し出に対して、「wet or fine」(晴れ雨にかかわらず)との返事を出しました。つまり「雨天決行=会ってみましょう」と言う意味。事故は、その帰り道に起こってしまったのでした。
歴史上のイフを想像すると…
現場には4人の目撃者がいました。映画でも出てきますが、自転車に乗った少年2人と、歩いて通りかかった陸軍伍長。そして黒いバンに乗っていた運転手。
この内、バンは走り去りましたが、伍長が血まみれのロレンスに気づき、陸軍のトラックが駆けつけました。
陸軍のトラックによって救急搬送された病院にはセキュリティ・ガードが付く物々しさ。マスコミの取材の殺到を恐れたのでしょう(実際、そうなってしまいましたが)。
陸軍省が全ての取材を引き受け、病室にも警護が張り付きます。隠し撮りを防ごうとしたのでしょう。面会謝絶とされた一方、どさくさまぎれというか、コッテージの方は荒らされ、所蔵の書籍や手紙類が持ち去られてしまっていました。
この間、諜報機関員が2人の少年を数時間尋問し、伍長にはバンの存在を公にしないようにと釘を刺しました。また、事故現場の第一目撃者は自転車の少年なのに、捜査報告書では伍長となっているなど、何やら陰謀めいたエピソードが残っています
そうこうする内に6日後に、ロレンスはこの世を去ります。事故後、バイク運転でのヘルメットの重要性が叫ばれるようになったそうですが、時既に遅しと言うところでしょうか。
それにしても、歴史のイフという観点で考えると興味深いものがあります。ロレンスが何故ヒトラーと会おうと思ったのか、今となっては不明ですが、仮にこの2人が会見していたら? その名前は世界的に轟いていましたし、ウィリアムソンもナチスの幹部と知りあいが多かったので、ヒトラーも会見に前向きとなっていた可能性があります。
実際、ウィリアムソン自身、事故後の1935年9月に行われたナチスのニュールンベルグ党大会に出席し、感銘を受けたそうですから、仮にロレンスが生きていれば大会に同席し、或いはヒトラーの演出に圧倒されていたかもしれません。
ちなみに、ロレンスの身長は165センチ。一方のヒトラーは、175センチだったと言われています。おまけに、両方とも当時は独身(ロレンスは生涯誰とも結婚しませんでした)。アラブ世界の戦後処理を巡ってはフランスを快く思っていなかったそうですから、第一次世界大戦の西部戦線で辛酸を嘗め、同じくフランスが好きでなかったヒトラーとは馬が合っていた可能性すらあります。勿論、似たもの同士?故の近親憎悪みたいな展開になっていた可能性もありますが。
なお、葬儀に参列したチャーチルは、泣きながら「我々と同時代の最も偉大な人物の1人」だと故人を偲んだそうですが、後々のヒトラーとの対決を思うと…。仮にロレンスが英国のヒトラーを目指そうとしていたなら、チャーチルはどう反応したでしょうか? あれこれ考えると興味深いものがありますね。
takosaburou・記 (海外新聞情報サイト「DON」管理人)
参考資料:
T. E. Lawrence(ウィキペディア英語版)
Henry Williamson(ウィキペディア英語版)
Nuremberg Rally(ウィキペディア英語版)
The Enigma of Thomas Edward Lawrence(Institute for Historical Review)
T. E. Lawrence, Correspondence with Henry Williamson(Castle Hill Press)
Rejected Legend(T. E. Lawrence Studies)