イタリア

ルネサンスは強烈キャラの争いから始まった! ギベルティとブルネレスキ

どこまでも果てしなく広がる空に、どっしりと力強い大聖堂のクーポラ(ドーム屋根)。

青と煉瓦の鮮やかなコントラストこそ、まさに「イタリア」と呼びたくなる――。

【サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂】は、フィレンツェのど真ん中に位置し、都市を代表する聖堂として、今なお観光スポットとしても名高い場所です。

世界に知られる「ルネサンス」も、まさにこの聖堂から始まりました。

1401年、聖堂に付属する洗礼堂の扉の受注を巡り、二人の天才(ギベルティとブルネレスキ)がぶつかり合い、さらにその十数年後、二人は再び聖堂の巨大クーポラ建造を巡ってあいまみえます。

フィオーレ大聖堂が見つめた、男の戦いとルネサンス始まりの物語――それは如何なるものだったのでしょうか。

 

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

「トスカーナ一に美麗で大規模な聖堂を!」

1296年、そんな思いのもと、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の建造が始まりました。

市民の誇りをかけた大事業。

その意思は百年以上に渡って受け継がれ、ペストの流行や政治情勢などによる中断を挟みつつ、少しずつ建造は進められていきます。

1359年。
まず聖堂に付随する鐘楼が完成しました。

設計者の名を取って「ジョットの鐘楼」と呼ばれている建造物です。

ジョットの鐘楼(14世紀)/wikipediaより引用

次に目を向けられたのは、聖堂の正面に立つ八角形の建物、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(写真手前)です。

サン・ジョヴァンニ・バッティスタ洗礼堂(手前)/wikipediaより引用

建物自体は12~13世紀に建てられ、礼拝堂として使われていた時期もあります。

14世紀には大聖堂建立に伴う改修も行われ、キリスト教徒にとって最初の重要な儀式である「洗礼」のための場所(洗礼堂)として使われることになったのです。

同洗礼堂が捧げられている相手は洗礼者聖ヨハネイタリア名ジョヴァンニで、フィレンツェの守護聖人でもある。

イタリア文学に欠かせない詩人・ダンテもフィレンツェ生まれであり、洗礼をここで受けました。

フィレンツェ市民にとっては、自らの原点にも近い、特別な場所となっているのです。

となれば

「この建物のために最高の扉を用意しよう」

と考えるのも自然な流れであり、誰に作らせるか?ということで話題になりました。

こんなとき手っ取り早いのがコンペ。

我こそは腕に自信あり――という職人・技師を募り、アイデアを競い合わせることにました。

1401年、扉の受注を決めるためのコンクールが開催されたのです。

 

そうだ、コンクールを開催しよう

フィレンツェのド真ん中に位置する洗礼堂――。

その仕事を成し遂げたとなれば、多大な名声を得られ、同時に富も流れ込んできます。

何としてもモノにしたい絶好の機会!

そんな熱い思いを胸に「我こそは」とエントリーしたのは7名おりました。いずれもトスカーナ地方で活動する金細工師や技師たちです。

彼らには、同量のブロンズがそれぞれ支給されました。

指定されたサイズの画面の中で、同じお題を表現し、出来上がった作品をもとに評価が決まります。

お題は『イサクの犠牲』です。

日本人にはあまりピンと来ないタイトルに思えますが、旧約聖書のエピソードの一つで、主人公アブラハムが、神の命令によって愛息イサクを生贄として捧げようとしたところ、寸でのところで天使が止めに入り、イサクは助かる、というお話です。

神様としては、アブラハムの信仰を試すためだったようですが(子供がPTSDを引き起こしそうなテスト内容が心配になったり……)。

このスリリングなシーンをどう表現するか。

人物や自然など、個々のモチーフをどのように如何に設定するか。

制作に与えられた期間はわずか一年でした。

その間、彼らは、時に試作し、時に他の人に意見を求めながら、1402年、ついに審査の時を迎えます。

 

激突!ギベルティ vs ブルネレスキ!

フィレンツェの威信をかけた大事業。

その一画に参加できるのは、コンペを勝ち抜いたわずか一人の選ばれし者です。

皆が勝負の行く末を見守る中、集まった三十数人の審査員たちによって、候補者は、二人にまで絞り込まれていきました。

決戦に残った二人とは以下の通りです。

◆ロレンツォ・ギベルティ

◆フィリッポ・ブルネレスキ

それぞれちょっと詳しく見ておきましょう。

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