アメリカ国立公文書館HPより引用

ケネディ大統領暗殺事件

JFK解禁文書を翻訳「CIAの活動とウォーレン委員会調査①」

投稿日:

アメリカ国立公文書館により公開が始まったケネディ大統領暗殺事件の機密文書。
新聞記者だった著者により翻訳を始めることとしました。

今回は【CIAの活動とウォーレン委員会調査①】となります。

アメリカ国立公文書館HPより引用

■PDFファイルのURL
■記録番号 104-10196-10027
■公開日 2018年5月4日
■公開範囲 全面公開
■記録作成部署 CIA
■記録作成日 1975年3月24日
■記録の種類 文書
■部局ファイルナンバー 80T01357A
■作成責任者 HOCH, PAUL L. (注1)
■文書の表題 文書:CIAの活動とウォーレン委員会調査(PAPER:CIA ACTIVITIES AND THE WARREN COMMISSION INVESTIGATION)
■ページ数 30ページ
■元の所蔵先 CIA
■記録シリーズ JFK
■記録レビュー日付け 2018年3月12日
■コメント JFK64-31 : F16 : 1998.05.11.18:27:57:106115 : 30

 

CIAの活動とウォーレン委員会調査【要約】

ケネディ大統領暗殺調査に於けるCIAとFBIの役割や、両局のリー・ハーベイ・オズワルドとの繋がりについて調べる必要がある。

複数の部局がオズワルドの記録を保有し、相互チェックが出来る為、CIAの行動について実りあるケース・スタディが可能だろう。
これらの記録は、ロシアへの郵便物の検閲などのCIAの国内の政治活動(もしくはファイル管理)その他の疑わしい活動に光を当てるだろう。

CIAと大統領暗殺に関しては、未だに解決されていない疑問がある。
その中には、CIAはオズワルドがメキシコシティで詐欺師として活動していた可能性があると考えて調べていたり、情報提供者としてモスクワでアメリカの諜報工作員と接触していたなどとする報告も。
このメモは、参照可能な記録の要約であり、特別な調査があった事を示唆している。

CIAは、所蔵するオズワルドの資料に関して、FBIをミスリードしてしまった。
そして(FBIと国防総省がそうしなかったように)ウォーレン委員会(注2)と全面協力していなかった可能性がある。

例えば、CIAはウォーレン委員会に対し、オズワルドの妻の全ての記録や、オズワルドのメキシコに於ける全ての活動について語っていなかった節がある。
このメモは、こうした問題についての委員会の調査や、CIAと委員会の協働作業について明らかに出来るかも知れない人物や書類について、明確に述べている。

CIAは、より徹底的に、そしてウォーレン委員会より長期に渡って調べていた可能性がある。CIAの調査の結果や、ウォーレン委員会に批判的な人達に起きそうな対応については、隠す事無く公けにするべきである。

これまで報告されていなかった証拠が、ここでは説明されている。また、複数の報告と関連している。

CIAによるフィデル・カストロ暗殺計画が、ケネディに跳ね返っていた可能性や、オズワルドおよび何者かが、カストロに反対するキューバ人と同行し、ダラスに住むキューバからの亡命者であるシルビア・オディオ(注3)と会い、ケネディを撃つべきだと感じるようになったと言われている。

こうした男達が、オディオの父親の友人だったのは明らかだ。
父親は、キューバでカストロの暗殺を計画したとして収監されていた。この事実が知られていなくとも、ウォーレン委員会のスタッフは、オディオの件は大変重要であり、陰謀に影響を与えたに違い無いと考えた。
とは言え、委員会の調査は、かなり不十分だった。

例えば、オディオの父親がカストロに対して共同で陰謀を企む中、オズワルドに似た要望の人物がダラスの反カストロ・グループの二次団体にいたと指摘する複数の報告のチェックをしていない。
カストロに対するこの特別な計画と、自ら許可したカストロに対する試みが裏目に出てしまったと、ロバート・ケネディ(注4)が恐れていたという明らかな嘘が広まってしまったが、この広まりに於けるCIAの役割については、徹底的に調べられねばならない。

Paul Li Hoch
1735 Highland Pl.,#25 Berkeley,CA 94709(注5)
1975年3月25日

 

CIAの活動とウォーレン委員会調査(目次)

I.はじめに

A.連邦政府情報機関とケネディ暗殺

B.複数の記録の研究の有効性

II.CIAと、リー・ハーベイ・オズワルド

A.国内でのCIAの情報収集に関する疑問

1.ロシアに送付したオズワルドの手紙を政府が関知
2.オズワルドの政治活動にCIAが注目
3.オズワルドその他の人物にコンピュータ化したファイルがエントリーされていた
4.キャンプ通り544(注6)の繋がり

B.CIAと暗殺に関する答えの出ていない疑問

1.メキシコ・シティでのオズワルドを装った人物の写真
2.メキシコに於けるオズワルド及び周辺との会話の盗聴
3.E.ハワード・ハントは、暗殺前にオズワルドの行動を知っていたのか?
4.「D」報告の扱い
5.オズワルドに関するCIAのファイルや活動の相関
6.複数の亡命者にCIAが尋常でないほどの興味を示していた
7.アレクシス・ディビソン(注7)を通じてオズワルドとCIAが接触していた可能性が
8.オズワルドと親しかったダラスの局員の報告
9.パークランド病院(注8)にCIA関係者がいたとの主張
10.オズワルドの身元調査に関する疑わしい記録
11.ダラスにハントとスタージス(注9)がいたとされる写真について
C.ジェームス・アングルトン(注10)の声明

D.利用可能なドキュメンタリー素材

III.CIAと暗殺調査

A.委員会で退けられた情報がある可能性

1.1963年11月22日付けのFBIに対するCIAの虚偽の声明
2.限定的な開示の可能性があるトピックス
(a)マリーナ・オズワルド(注11)
(b)オズワルドとアルバートシュバイツァー・カレッジとの接触
(c)メキシコ・シティで映り込んでいた正体不明の男
3.完全な開示に関するCIAの主張

B.CIAによる暗殺に関する独自調査

1.独立調査を行うCIAの能力
2.知られざるCIAの結論
3.ウォーレン報告に関する批判へのCIAの活動

IV.ケネディ暗殺とCIAによる反カストロ活動との繋がりの可能性

A.調査に関する事実の根拠の概要
B.「オズワルド」とカストロ暗殺計画との繋がり

1.シルビア・オディオの件の要約
2.オディオとカストロ暗殺計画との繋がり

C.カストロに対するCIAの諸活動を分析した新聞報道

D.CIA以外での関連情報
1.E.ハワード・ハントがニクソン大統領を脅迫したとする根拠
2.ハントとカストロへの複数の暗殺計画
3.ホワイトハウスの懸念
4.ウォーレン委員会

E.この分野に於ける答えの出てない疑問

追記:ウォーレン委員会のスタッフは、オディオの件について疑問を抱いていた。

Paul.l.Hoch
1975年3月24日

注1:HOCH, PAUL L.はポール.L.ホッホという方のようです。ケネディ暗殺に関する記念館(ダラスのThe Sixth Floor Museum。ケネディ大統領をオズワルドが狙撃したとされる教科書倉庫の6階を転用しています)のHPには、次のような記述があります。

 

ポール.L.ホッホ博士について

カリフォルニア大学バークリー校の元コンピュータ・プログラマーであるホッホ博士は、1964年に大統領暗殺事件の研究者となっていました。

過去数年に渡り、複数の作家のコンサルティングを務め、リサーチ・コミュニティに積極的に参加し、ニュース・レターを配信する一方、1976年には「暗殺:ダラスと、その先」(The Assassinations: Dallas and Beyond)という共著を出版しています。
本博物館のオーラル・ヒストリーの求めに応じて頂き、2016年5月3日と2017年2月27日に録音しております。

また、アマゾンで検索すると、このような結果が表示されます。

正しくは、The Assassinations: Dallas and Beyond : A Guide to Cover-Ups and Investigationsという題名です。
拙く訳すなら「暗殺:ダラスと、その先:捜査と隠蔽ガイド」となりましょうか。

版元はランダムはウスという大手で、552ページという分厚さですので、大著だったのでしょう。
JFKだけでなく、弟のロバート・ケネディや、マーティン・ルーサー・キングの暗殺やウォーターゲート事件などに関する記事の収集を行っていると、アマゾンでは紹介されています。
レビューの評価は高いようですが、再版はされていない模様です。

注2:ウォーレン委員会は、JFK暗殺を受けて1963年11月29日に発足した調査委員会です。オズワルドによる単独犯行だったと結論づける報告書を1964年9月24日にジョンソン大統領に提出していますが、この内容を巡っては今日なお様々な批判がよせられています。

注3:シルビア・オディオは英語での綴りがSylvia Odio。ウィキペディア英語版によると、1937年の生まれ。暗殺後、ウォーレン委員会の調査に対して、リー・ハーベイ・オズワルドとダラスで会った事があると証言しています。

1963年9月に、自宅のアパートを総勢3人で訪れ、反カストロ活動をするというのでお金を求めてきたそうです。
残る2人の内、1人はキューバ人で、「レオポルド」と名乗っていました。

オズワルドは、自らを「レオン・オズワルド」と自己紹介しました。「レオポルド」は、オズワルドが海兵隊に在籍した経験があり、射撃の腕前が卓越していると話していたそうです。

オズワルド自身は「キューバ人はガッツが足りない。ピッグス湾侵攻作戦(1961年に亡命キューバ人がCIAの支援を受けて行ったカストロ政権転覆工作。失敗に終わっています)の失敗後に、ケネディは撃たれて然るべきだったし、キューバ人の中から、そうすべき人物が出るべきだった」などと話していたと、オディオは証言しています。

これを受け、ウォーレン委員会では、「そちらでも独自調査を行って欲しい」とFBIに要請しています。委員会では、オズワルドが複数の男性とメキシコを訪れていた可能性があると考えていたそうです。

FBIでは、複数の反カストロ・グループの指導者を聴取しましたが、いずれもオディオの証言を否定しています。委員会でもオディオに追加聴取を行う一方、独自の調査を行いました。最終報告書では、「FBIの調査は完了していないものの、本委員会としては、ミセス・オディオが1963年9月に自宅アパートで会っていなかったと結論づけるものである」と記しています。

作家のジェラルド・ポスナーは、オディオが他人から注目してもらおうと、過剰なまでに芝居がかった言動をしてしまう「演技性パーソナリティ障害」の患者なので、証言は信用出来ないとしています。ポズナーはウォーレン委員会の最終報告を擁護する人物としても知られています。

これはポズナーだけの偏見ではなく、オディオのかかりつけの精神科医だったバートン・アインスループは「演技性パーソナリティ障害故に、嘘を付きたがっているとは思わないが、実際には起きなかった事を暗示にかかって信じてしまう節があるというのが、私の結論だ」と、アメリカ下院調査委員会で証言しています。

なお、ウィキペディア英語版を読む限りでは、オディオは存命しているようです。

注4:ロバート・ケネディはケネディ大統領の実弟で、ケネディ政権では司法長官を務めました。兄同様、悲劇的な死を遂げたのは皆様も知るとおりです。

注5:この住所をグーグルで検索したところ、ローレンス・バークレー国立研究所の住所である事が分かりました。恐らく、この調査報告を作成していたホッホの勤務先だと思われます。

注6:キャンプ通り544とは、オズワルドが1963年夏にニュー・オリンズで配布していた政治ビラに書かれた住所を指します。この配布活動も含めたオズワルドの行動が謎めいています。

まず、1963年8月5日に、オズワルドはキューバから亡命し、カストロに反対していたカルロス・ブリングイエという人物が経営する店やキューバ人学生連盟のニューオリンズ事務所などを訪れています。

ブリングイエに対しては、自分は元海兵隊員であり、反カストロ闘争に参加する事に興味があると告げていました。キューバ人を訓練するだけでなく、自らが戦いに参加したいとまで告げた上、翌日に「海兵隊員向けガイドブック」というリーフレットを置いて去っていきました。

なのに、その数日後、店からほど近いキャナル通りで、オズワルドがキューバ・フェアプレイ委員会というカストロの支持団体のリーフレットを配布しているのを目撃します。小さなデモンストレーションまで行っていたそうです。

全く矛盾するとしか言い様の無い行動に怒ったブリングイエは、オズワルドに近づきます。オズワルドは一瞬驚いた様子でしたが、微笑んでブリングイエと握手しようとしたそうです。それを退けたブリングイエはオズワルドと口論になります。白熱し、遂には野次馬が集まる騒ぎにまで発展していました。なお、オズワルドは3人のキューバ人ともども逮捕されています。

逮捕された際、ニューオリンズ署ではリーフレットを押収したのですが、そこにスタンプが押される形で記載されていたのが、この「544 CAMP ST」という住所だったのです。

FBIとウォーレン委員会では、オズワルドが当該の住所に事務所を借りていたのではないかと調査しました。その結果、キューバ・フェアプレイ委員会の本部が置かれているニューヨーク本部にいたビンセント.T.リーという人物に手紙を書いていた事を突き止めます(消印は1963年8月1日)。

手紙には「委員会の支部をニューオリンズに設置するという試みについてお知らせします・・・予定していた場所に借りたのですが、3日後に大家によって何らかの明らかにされていない理由によって、即座に閉鎖となりました。

部屋を改装したいとか、何とか言ってました。その後は郵便局の私書箱を頼りにしながら、大通りでデモを行って大勢の人に興味を持たせたのですが、新規のメンバー獲得までには至りませんでした。私の行ったデモに対して反カストロの亡命キューバ人(複数)が襲撃し、警察が公式に注目するところとなりました」などと書かれていました。なお、この手紙は誤字だらけです。

FBIは、捜査の末に、オズワルドがキャンプ通り544の物件を借りていないと結論づけ、そのままにしていましたが、1966年にニューオリンズの地方検事であるジム・ギャリソン(映画『JFK』で有名ですね)が再捜査したところ、近くのラファイエット通り531に、ウィリアム・ガイ・バニスターという人物が私立探偵事務所を構えていた事を突き止めます。

後にギャリソンは回想録を書き(日本では早川書房から『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』という邦題で出版)、その中でバニスターはFBIで20年間働き、そのキャリア中、16年間を特別捜査官として過ごしていた事や、退職後にニューオリンズに住み、探偵となっていた事、政治思想的には超保守派の反共産主義者であり、白人至上主義者でもあった事、評判が良くなかった事、そして探偵事務所の入り口がキャンプ通り544に面していた事などを指摘しています。

そして、ギャリソンは、オズワルドがバニスター(1964年に心臓発作で死去)と交友関係にあったとし、何かを共謀していたのではないかと推測しています。

しかし、バニスターの部下として働いていたジョー・ニューブローという人物の証言によると、オフィスに面してはいたものの、ドアなぞ無く、窓があるだけだったとしています。
つまり、無関係だった可能性があるのです。

ただし、キャンプ通り544には、もう1つ注目するべき事柄があります。
反カストロ・キューバ革命協議会という団体が、1961年から62年にかけての数ヶ月間、事務所を構えていたのです。

オズワルドがニューオリンズにやって来たのは1963年4月だったので、時期は重なりませんが、更に興味深い事柄もあります。ブリングイエが、反カストロ・キューバ革命協議会で働いていた事があるのです。

本人は、キューバ学生革命評議会(略称 DRE)に参加するため、協議会を去るのですが、オズワルドは何らかの理由でブリングイエに自分を印象づけようと、上記のような矛盾した行動を行った挙げ句に、そのような住所を記載したリーフレットを配布していた可能性があるとされています。

そもそも、オズワルドはアーネスト・ロドリゲスという地元在住の人物に、ブリングイエの存在を教えて貰っていました。ロドリゲスの証言では、1963年7月末頃にオズワルドと知りあい、本人が亡命者を訓練して戦いたいと考えていた事を知ります。その際、反カストロ・キューバ革命協議会は事務所を畳んだが、元メンバーのブリングイエという人物が近くにいるぞと答えていたのです。

こうした経緯にウォーレン委員会も注目し、ブリングイエを聴取しています。ブリングイエは、オズワルドが配っていたリーフレットには本人の名前が記載されていなかったと証言しています。その後、ブリングイエは8月16日にもオズワルドがリーフレットを配っているのを目撃しますが、その際の記載には、ニューオリンズの私書箱とL. H. Oswaldという名前、そしてマガジン通り4907という住所があったそうです。

(以上、アメリカ・ウィスコンシン州にあるマーケット大学のHP"Does a New Orleans address link Lee Harvey Oswald to a conspiracy?”から要約)。

映画『JFK』はアマゾンPRIMEビデオなら無料で視聴できます(→amazon

注7:原文の綴りはAlexis Davison。オズワルドのロシアでの足跡を追うLee Harvey Oswald in RussiaというHPによりますと、モスクワのアメリカ大使館付きの医師だったそうです。オズワルドは1962年にアメリカに戻るのですが、その際に妻のマリーナの健康診断を行ったのが、このディビソン。事件後、警察に押収されたオズワルドが作成した住所録に、ディビソンの母親(ナタリア・アレクシーエヴナ・ベリミシュエヴァ・ダビソン)の自宅が記載されていた事が分かっています。ナタリアはロシア生まれで、1924年にアメリカ赤十字で働くダビソンの父と出会い、結婚。アトランタに住みました。

後にアメリカ下院調査委員会に対し、オズワルドとマリーナに母親の住所を教えたかどうかまでは、はっきりと思い出せないとしながらも、「母はアトランタを訪れたロシア人に親切に振る舞っていたから、住所を教える事は珍しくなかった」と証言しています。

注8:パークランド病院は、ケネディ大統領が狙撃後に搬送された病院です。

注9:ハントの原文の綴りはHunt。E.Howard Huntというのが名前です。ウィキペディア日本語版によると、エヴェレット・ハワード・ハントという名前で、CIAの工作員をやっていました。ピッグス湾侵攻作戦や、カストロ暗殺計画などに関与していました。後にウォーターゲート事件を画策したものの、露見・逮捕された挙げ句に約3年間の刑務所暮らしを余儀無くされています。

もう1人のスタージスの原文の綴りはSturgis。ウィキペディア日本語版によると、Frank Anthony Sturgisという名前です。ウォーターゲート事件では、ビルに侵入した実行犯の1人でした。つまり2人はワルの仲間だったのです。

スタージスは、海兵隊や陸軍で勤務後、1958年にキューバ革命前のバティスタ政権で、キューバ軍の諜報部員となっています。ピッグス湾侵攻作戦ではCIA局員のサム・ジェニスという人物と接触しています。FBIは、1972年に「マイアミでオズワルドと殴り合った」という報告書をまとめています。

エヴェレット・ハワード・ハント/wikipediaより引用

一方、ウィキペディアの英語版によると、ケネディ大統領暗殺の直前に、CIAのマイアミ支局長だったデイビッド・モラレスと共に、ハントと会っていた事があったそうです。

スタージスを巡っては、テキサスのダラス・モーニング・ニュース(アメリカを代表する新聞の1つで、AP通信に役員を送り込んでいるほどです。なお、プロレスラーとして活躍したブルーザ・ブロディは、同紙の運動部記者でした)やダラス・タイムズ、フォートワース・テレグラムの3紙が、狙撃の現場となったテキサス教科書倉庫の近くに怪しい男3人がいた事を写真付きで相次いで報じています。

ジム・ギャリソンは1968年の大晦日に放映された「ザ・トゥナイト・ショー」というテレビ番組の中で、3人が暗殺に関与していると仄めかしていました。

ただ、上記の3紙やギャリソンらは、3人が誰だったかまでは分かっていませんでした。1974年に、事件を研究するアラン.J.ウェーバーという人が、ウォーターゲート事件で顔を知られるようになったハントとスタージスに似ていると指摘。この意見を当時の人気コメディアンで公民権活動にも熱心だったディック・グレゴリーが取りあげた事で全米に衆知され、ニューズウィークやローリング・ストーンなどの著名メディアが報じるまでに至りました。

もっとも、ウォーレン委員会のスタッフだったデビッド・ベリンが指揮するロックフェラー委員会が1975年に調査した限りでは、「ハントやスタージスに似ているとする複数の証言者の写真鑑定能力には疑問が持たれる」との結論。FBIで写真分析の専門家だったリンダル.L.シェネーフェルトも、映り込んでいるのはハントやスタージスではないと指摘しています。

その後、1992年にジャーナリストのメアリー・ラ・フォンテーヌが、1989年にダラス警察が公開した事件当日の逮捕記録から、映り込んだ3人はガス.W.エイブラムと、ハロルド・ドイル、ジョン.F.ゲドニーという人物だったと特定しました。

3人は暗殺直後に鉄道の貨車に乗っていたところを見つかり拘束されましたが、聴取したところ、失業中のホームレスで、たまたまダラスを通過中だった事が判明し、4日後に釈放されています。

つまり、この文書の公開された後に、どうやらハントとスタージスでは無いと、ほぼ結論づけられています。

フランクスタージス/wikipediaより引用

注10:ウィキペディア日本語版によると、ジェームス・アングルトンは1954年から75年までCIAの防諜部長を務めていました。辣腕家であり、フルシチョフのスターリン批判報告をイスラエルから提供されるなど、各国の諜報機関からも信頼されていましたが、一方で猜疑心の強かった人らしく、各国の様々な指導者がソ連の協力者であると主張していました。

中でも、KGBのエージェントだったアナトーリ・ゴリツィンという人物から、ケネディ大統領事件はソ連が関与しているとか、CIA内部にはソ連に内通している局員が多数いると言われて信じ込んでしまい、1973年にCIA長官となったウィリアム・コルビーから「行きすぎた妄想」と皮肉られていたほどです。

なお、ウィキペディアによると、余りに妄想が昂じてしまったので、「完全に正気を失った」という意味を持つAngletonianという造語まで出来てしまっているそうです。

ジェームズ・アングルトン/wikipediaより引用

注11:マリーナ・オズワルドは、オズワルドの妻。英語での綴りは、Marina Nikolayevna Oswald Porterとなるそうです(ウィキペディア英語版による)。まだ存命中のようですね。恐らく、事件の当事者として最後の人物でしょう。

ソ連に亡命したオズワルドとは1961年3月17日に開催されたミンスクでのダンス・パーティーで知りあい、6週間後に結婚しています。

娘を授かりますが、1962年6月に帰国を決意したオズワルドともどもアメリカに移住。ダラスに住みます。オズワルドは1963年1月にスミス&ウェッソン38口径のリボルバーを宅配注文し、更に3月には第二次世界大戦などでイタリア軍が使用したカルカノというライフル銃を購入しています。このカルカノが、ケネディ暗殺に使用されたとされています。

後にウォーレン委員会に対して、黒い服を着たオズワルドが、銃を持っているところを写真撮影したのは自分だと証言しています。今日なお、フェイク写真だと指摘される写真です。

マリーナの証言では、オズワルドは1963年の夏にニューオリンズに行き、戻って来たのは10月初頭。ダラス近郊のオーク・クリフという場所の一軒家に引っ越します。夫婦の知人であるルース・ペインというロシア語に堪能なクェーカー教徒の女性によると、この家のお隣さんが狙撃に使ったとされるテキサス教科書倉庫の従業員だったそうです。その縁からか、オズワルドも10月16日から倉庫で働くようになります。

なお、オズワルドは平日にオーク・クリフの家で過ごしたものの、週末はアービングという街のペイン家に滞在していました。それが暗殺の当日まで続いたそうです。

事件後にダラス警察が自宅を訪れたのは言うまでもありません。ウォーレン委員会に証言するまでは、シークレット・サービスが護衛していたそうです。22歳で未亡人となってしまうわ、そのような環境に置かれるわと、気の毒な限りですね。

マリーナ・オズワルド/wikipediaより引用

ウォーレン委員会の調査には4度応じています。その際、当時のアメリカ陸軍少将だったエドウィン・ウォーカー(反共産主義的な言動が過ぎて、ケネディ政権のロバート・マクナマラ国防長官にドイツ駐屯の第24歩兵師団長職を解任されています)や、リチャード・ニクソンの暗殺をオズワルドが企てていたと証言していますが、委員会側は疑問視していたそうです。また、アメリカ下院調査委員会でもオズワルドが犯人だったと繰り返し証言していたそうです。

なお、事件後に再婚し、テキサスのロックウォールという街に引っ越し、1989年になってアメリカに帰化します。ケネディ暗殺に関するドキュメンタリーにも多数出演していますが、心変わりしたのか、オズワルドは無実だと主張するようになっています。

文:南如水

【参考】
◆JFK Assassination Records

 



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