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【キュリー夫人】
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濃縮させた放射性元素の器から、淡い光が
その後二人がノーベル賞を受けることができたのは、同じ放射能関連ではありましたが、別の物質を発見したことがきっかけです。
1898年(明治三十一年)の7月にポロニウム、同年12月にはラジウムという新しい元素の存在を発表したのでした。
しかし、新しいものにはいつでも鼻笑いがまとわりつきます。
このときも例外ではなく、他の科学者たちが「本当にその元素が新しいものだというなら、原子量その他諸々がはっきりしないといけないんじゃないの^^」(※イメージです)という態度を取ったのです。
もちろん、そんなくだらない嫌がらせで引っ込む夫妻ではありません。
直ちにイチャモンをはねつけるため、更なる研究の準備を始めました。
一時は家計の危機にも陥るほどだったようですが、後々娘たちが立派に育っていることを考えると、家族間の衝突は少なかったのでしょうね。
夫妻の肉親が亡くなったり、資金調達のため仕事を増やさなければならず、思い通りに実験が進まなかったりと紆余曲折はありましたが、ある日ついにその努力が実ります。
濃縮させた放射性元素の器から、淡い光が生まれたのです。
マリいわく「妖精のような光」だったそうですから、ただ美しいばかりではない妖しさもあったのでしょうね。
放射線の功罪を考えれば、彼女の表現は実に的確といえます。
「ピエールと同じように轢かれて死んでしまいたい」
キュリー夫妻は放射性物質の精製法を独占せず公開したため、少しずつ多方面で応用されるようになります。
代表的なものは、皮膚疾患や悪性腫瘍(がん)になってしまった細胞を破壊し、正常な細胞の再生を促すという”キュリー療法”です。
こうして学界だけでなく世間に広く注目されるようになりましたが、それは夫妻にとっては不本意極まりないものでした。
学者さんの本分は学問と実験ですから、そりゃそうですよね。
過熱したマスコミが自宅や研究所にところ構わず押し寄せるようになり、辟易した一家は少しずつ身を隠すような暮らしを選んでいきました。
マスコミって100年前から変わってないですね……。
そうしてやっと落ち着いた頃、一家は悲劇に襲われます。
ピエールが馬車に轢かれて突然亡くなってしまったのです。
ようやく貧困からも喧騒からも脱し、長女も次女も健やかに育っていたところへのこの悲報は、マリを大いに沈めました。
この頃の日記には、「ピエールと同じように轢かれて死んでしまいたい」といったようなことが書かれていたそうです。
二人が天才同士としてお互いに認め合い、男女としても理解しあえた類稀な存在だったことが痛いほど伝わってきます。
女性初のノーベル賞受賞者であり大学教授でもあった
それはピエールが教職を務めていたソルボンヌ大学でも同じでした。
彼女を励ますためか、それとも大学や学界の利益のためかは定かではありませんが、ピエールの仕事や学内の実験室を使う許可など、夫の持っていた権利を全てマリが引き継がないか?という連絡をしたのです。
ともすれば「身代わりに働け」とも受け取れるこの待遇を、マリは一度保留しました。
しかし、最終的に彼女はこれを受け入れます。
自分の研究を続けることと、夫の遺志を継ぐことは同じように重大な価値があると考えたのでしょう。
こうして、ソルボンヌ大学、そしてパリで初めての女性教授が教壇に立つことになりました。
そう、マリは初の女性ノーベル賞受賞者であると同時に、初の女性教授でもあったのです。
時期的に夏休みの直前だったため、マリはすぐさま講義を始めるのではなく、夏いっぱい時間を使って準備を整えます。
そして休み明けの11月、好奇や期待の視線を浴びながら彼女が最初に言ったのは、亡き夫が生徒に対し最後に言った言葉でした。
まどろっこしい御託を並べず、行動で夫の後継であるということを示したのです。
「沈黙は金、雄弁は銀」と言いますからね。喋ってるけど。
その後彼女はさまざまな困難と闘いながら二度目のノーベル賞を受賞します。
長月 七紀・記
【参考】
マリー・キュリー/wikipedia