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【ヨハン・シュトラウス2世】
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依頼主は金払いがよく「生きるならロシアに限る」
31歳になってからは、ロシアへも演奏旅行にいくようになります。
というのも、ウィーンでは音楽家への謝礼が控えめすぎ、楽団員への支払いが滞ることも珍しくなかったのです。
その点、ロシアの依頼主は金払いがよく、ヨハンは知り合いへの手紙に「生きるならロシアに限る」とまで書くほどでした。
ときの皇帝・アレクサンドル2世一家も演奏会にやって来たり、皇帝の弟・コンスタンチンがチェロを得意としていたため、ヨハンのオーケストラに加わったり、宮殿に招かれたりと、母国よりも良い扱いを受けていました。
旅行嫌いのヨハンが10年の間、半年はロシアに行っていたといいますから、その厚遇ぶりがうかがえます。
しかし、1870年に母・弟・叔母が相次いで亡くなると、元々「死」を病的に恐れていたヨハンはすっかり気落ちしてしまいます。
周囲の人間は心配し、「気晴らしにオペレッタを書いてみたらどう?」と勧めます。
オペレッタとは、元々オペラの幕間に演奏されていた喜劇のこと。
オペラが悲劇的なストーリーを主としているのに対し、オペレッタは明るい作品が多いため、この時期のヨハンが前向きになるのに適していると思われたのでしょう。
当時、オッフェンバックによる「地獄のオルフェ」というオペレッタが大ヒットしており、そういった意味でも適切と思われたようです。
ちなみに「地獄のオルフェ」は日本の学校の運動会でお馴染みの「天国と地獄」が含まれた作品でもあります。
ストーリーはギリシア神話のオルフェウスとエウリュディケの話まんまです。
日本神話のイザナギとイザナミの話にそっくりなアレです。
ご興味のある向きはググる先生にお尋ねくださいね。
アメリカ独立100周年記念の祝典で10万人の観客
オッフェンバック当人からも以前オペレッタ作曲を勧められたことがあったため、ヨハンは意を決してオペレッタを作り始めます。
幾つかの作品で成功を収め、以降ヨハンはほとんどオペレッタだけを書くようになりました。
その後、アメリカ独立100周年記念の祝典で10万人の観客を相手に演奏したことも。
しかし、ただでさえ旅行嫌いのヨハンに長い船旅は気が進まず、さらにアメリカの国民性も気に入らなかったようで、ロシアに行った時とは真逆の感想を漏らしました。
当時のアメリカは西部開拓時代でしたから、ヨハンが嫌うものの一つである「田舎」に見えたのかもしれません。
ヨーロッパと違って王族や宮廷もありませんしね。
デビューが18歳と若かったため、ヨハンは50年以上作曲家として活動しております。
デビュー50周年になった年にはオーストリア中でお祝い行事が開かれ、ときのオーストリア皇帝よりも人気があったほどです。
今で言えば国民的アイドルみたいな感じでしょうか。
しかし、その偶像に実態、特に外見を合わせるため、ヨハンはかなりの無理をしていました。
髪を染めたり軽く化粧をしたりして若く見せ、コルセットを締めて背筋を伸ばしていたといいます。
かなり見た目を気にしていたのでしょう。
「そうだね。どっちにしろそうなるだろう……」
若い頃から過労で倒れるような人ですから、年をとってからの激務は相当堪えていたようです。
劇場では元気にしていても、帰宅直後にソファーに倒れこむことも珍しくなかったとか。
そして74歳の春、肺炎で数日間闘病した後、静かに息を引き取ります。
当時グスタフ・マーラーからシンデレラをモチーフにした曲を依頼されていたため、死の間際までペンを取ろうとしていたとか。
見かねた妻・アデーレに「お疲れでしょう? 少しお休みになったら」と言われて「そうだね。どっちにしろそうなるだろう……」と答えたのが、最後の言葉だったといわれています(´;ω;`)ブワッ
幼い頃から決めた道を歩み、父を見返し、世界的に成功した人ではあります。
しかし、何かこう……もうちょっと、安らげる時間があってもよかったんじゃないですかね……。
なんだか現代の芸能界にもこんな感じの人がいそうです。
長月 七紀・記
【参考】
ヨハン・シュトラウス2世/wikipediaより引用