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【シューマン】
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裁判を経てクララと結婚 8人の子に恵まれる
もう一つは、シューベルトの次兄・フェルディナンドを尋ねたときのこと。
フェルディナンドがウィーンに住んでいると聞きつけ、ついでに訪ねてみたところ、シューベルトの遺稿をたくさん見せてもらうことができました。
その中から「交響曲第8番」を見つけ出し、親交のあったメンデルスゾーンに送ったのです。
これがきっかけでこの曲が演奏されるようになり、メンデルスゾーンもさらに名声を高めました。
既にシューベルトの死から10年以上が経過していましたので、シューマンがこのとき発見しなければ、全く演奏されなかったかもしれません。
こういうの胸アツですよね。
こうして小さくて大きな掘り出し物をしたシューマンでしたが、私生活は相変わらず曇り空のままでした。
クララとの仲はフリードリヒの妨害で絶縁寸前になっており、文通をするのも難しい状態だったのです。
しかし、シューマンはクララを表現した曲を書いたりして、愛を薄れさせることはありませんでした。お熱すぎて僻む気にもなりません。
最終的にフリードリヒが名誉毀損に当たるような悪口や行動を取り始めたため、シューマンは裁判に持ち込みます。
法廷でもそれ以外でも、フリードリヒの言い分や言動は裁判官も呆れるようなひどいものだったので、見事にシューマンが勝ち、クララと結婚することができました。
この夫婦はそれまでにも日記を書いていたのですが、結婚してからは二人で一冊の日記を書くようになり、お熱さがエスカレートしていく……かに見えました。
既にピアニストとして有名になっていたクララと違い、シューマンの知名度はまだまだだったので、そういったことをきっかけとしてケンカになることもあったようです。
8人も子供が生まれているため、総合すると仲が良かったことには間違いないですけどね。
もっとも、そのせいでクララは妊娠・出産の合間をぬって家計のために演奏旅行をせねばならず、大変な暮らしだったようですが。
ちなみに、シューマンは「子供は多ければ多いほどいいよね^^」という考えでした。
現代だったら女性から反感を買ってしまうかもしれませんね。
気難し屋で有名なワーグナーとは折り合い悪く
33歳のときには、メンデルスゾーンが設立したライプツィヒの音楽院で、作曲とピアノの授業を担当するようになり、公私ともに充実。
しかし、心身に負担がかかったのか。
たびたび病気に悩まされるようにもなりました。彼を生涯苦しめた、耳鳴りや幻聴も、この時期からだったとされています。
気分を変えるためにドレスデンへ移り住んだものの、ここは気難し屋で有名なワーグナーのシマ。
音楽家ワーグナーは意外と私生活が乱れてた? ワルキューレの騎行作曲家
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シューマンとは折り合いが悪く、また他にも有名な音楽家が多数いたため、収入等に嫉妬することもありました。
こういうのはよくある話ですが、当人にとってはやるせないですし、イライラもしたでしょうね。
ロシアへの演奏旅行で体調を崩したり、あまり良いことはなかった時期ですが、いいこともありました。
37歳のとき、故郷ツヴィッカウの人々がシューマンを称える記念祭を開いてくれたのです。
シューマン本人も久しぶりに里帰りし、幼なじみや恩師クンチュとも再会できて、気分も運も上向いた感があります。その年の秋には、ドレスデンの合唱団付き指揮者に指名されています。
現代にも通ずる?若き音楽家への助言69箇条
シューマンの業績で有名なものも、この前後に作られました。
「トロイメライ」を含む「子供のためのアルバム」や、後進たちへの教訓として書いた「若き音楽家への助言」という一連の文章などです。
後者は音楽家以外にも通じるものがあります。
概要だけ一部ご紹介しますね。
「演奏するときは、他人の目線を気にしすぎないこと。しかし、常に偉大な音楽家に聞かれているつもりで」
「技巧だけを追わず、印象深い表現ができるように心がけなさい」
「その日の練習が終わって、『疲れたな』と感じたときは無理せず休むこと」
「他の音楽家との共演のチャンスは逃してはいけない」
「より偉大な人と付き合いなさい」
「先達の偉業を敬いなさい」
「他の分野の芸術家とも積極的に付き合いなさい」
「勉強には終わりがない」
だいたいこんな感じのことが69点(!)も書かれています。
藤堂高虎の残した「家訓200箇条」ほどではありませんが、訓戒としてはなかなかの長さ・多さですよね。
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