欧米に「追いつき追い越せ!」で邁進した維新後の明治新政府とニッポン。
それが一つのカタチとして結実したのが日露戦争であり、同戦争において最も知られた戦闘が日本海海戦でしょう。
バルチック艦隊を相手に、東郷平八郎の戦術がキラリと光って快勝!となったワケですが、勝者いれば敗者アリというのが兵家の常であり、負けたロシアの司令官ってどんな人だったのか――というのも気になったりしません?
1848年(嘉永元年)10月30日は、日露戦争のバルチック艦隊司令官となるジノヴィー・ロジェストヴェンスキーが誕生した日です。
日本では「日露戦争は日本海海戦の東郷ターンにより快勝しました」と習いますが、それだけに真逆の立場から見るとどうなるのか、気になるところですね。
実はある意味、意外な結末が待っています。
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実力でのし上がり、ぶつかった「ガラスの天井」
ロジェストヴェンスキーは、当時の軍では珍しく、貴族の出身ではありませんでした。
父親はサンクトペテルブルクの医師だったといわれています。
若いうちに英語とフランス語を身につけ、16歳のとき海軍幼年学校に入り、ペテルブルクのミハイロフ砲術アカデミーを優秀な成績で卒業しました。
そして1877年に露土戦争(ロシアとトルコとの戦争)に参加して以降、海軍の中で少しずつ出世していきます。
「家系や元の身分は高くないが、実力で成り上がっていった」という感じの人なんですね。
1898年には、バルチック艦隊の教育砲術支隊司令官となっています。
ちなみに「バルチック艦隊」とは、「バルト海を拠点とするロシア(ソ連)の艦隊」を指す俗称です。日本だと司令官の名前などを取って「○○艦隊」「□□部隊」と呼ぶことがほとんどのような気がしますが、欧米圏だと愛称や俗称もよく知られていますよね。
グリーンベレー(正式名称:アメリカ陸軍特殊部隊群)とか。
徐々に出世していったロジェストヴェンスキーですが、それだけに壁も感じ始めていました。
もうちょっと流行っぽい言い回しにするとすれば「ガラスの天井」でしょうか。
この頃「貴族ばかり採用されている現状では、本当に優秀な人物を登用できない」と言っていたらしいのです。
詳細がよくわからないのですが、おそらくは指導した兵や部下の中に、身分が低いながらにもっと引き立てたい人がいた……とかそんな感じだったのでしょう。
ドッガーバンク事件で本番前に大打撃
本人は1903年には皇帝ニコライ二世の侍従武官を務めて、信頼を得たくらいですから、本当に優秀な人です。
デキる人には「こいつ、もっと重い仕事を任せたら上に行けるぞ」ってわかるもんですよね。
しかし、この信頼がある意味、彼の悪評を作ることになります。
1904年に始まった日露戦争において、かのバルチック艦隊の指揮官を任されたです。
また、喜望峰経由で極東へ向かう超長距離ルートを提案したのもロジェストヴェンスキーでした。
日露戦争のここまでの戦闘で、ロシアが日本海方面に持っていた軍艦はかなり減ってしまっています。
「わざわざ遠いところの艦隊を使った」というよりも、「本来はヨーロッパ方面の戦力だった艦隊を送らねばならないほど、ロシアは追い詰められていた」わけです。
しかし、この航海には全方向からケチがつきまくります。
当時、無煙炭(煙を出しにくい良質な石炭)の産出ルートを握っていたのはイギリスでした。
が、バルチック艦隊は出港早々にイギリスの漁船を誤射・沈没させるという「ドッガーバンク事件」を起こしてしまっていたために、イギリスをブチ切れさせてしまいます。
この事件により、バルチック艦隊は「海上の兵糧攻め」といった状況に陥りました。
南の海をナメていた? 暑さ、湿気、病気でボロボロに
当然、ロジェストヴェンスキーはロシア本国へ「なんとかしてください(´;ω;`)ブワッ」と泣きつきます。
しかし、そもそもドッガーバンク事件でのロシアの対応が悪く、国際社会からも白眼視されていたため、政府も軍も具体的な解決ができずに終了。
補給が満足にできなければ、海軍の半分はやられたも同然です。
最初は「南の海ってどんなだろうな~、あったかくて気持ちいいんだろうな~♪(アジアのちっぽけな国相手に負けるわけないし、半分バカンスみたいなもんだよね^^)」とウキウキしていたロシア兵の士気は、思わぬ締め上げで急転直下してしまいます。
さらには、南洋の暑さ・湿気・病気なども大いにロシア兵を苦しめました。
たまに寄港できたときには、逃亡する兵も相次いだといいます。
上司も部下もこんなんで、頼れる人がほぼ皆無だったロジェストヴェンスキーの心中と胃痛は「お察し」ですね。
一応、ロシア本国でも「このままじゃヤバイ」ということはわかっており、バルト海に残っていた船をスエズ運河経由で極東へ向かわせてはいます。
当のロジェストヴェンスキーには「あんな寄せ集め、お荷物にしかならない」と酷評されていました。これ、完全にブチ切れてますな。
ベトナムあたりで合流していますけれども。
そんなこんなで、嫌な予感しかしないまま日本海海戦に突入することに……。
敵ながら悪すぎる運 捕虜になって佐世保の海軍病院へ
いざ海戦の開戦!
日本軍の斬新過ぎるターン(東郷ターン)でロジェストヴェンスキーも重傷を負い、乗り換えた船は機関が故障したため、更にもう一度別の船に乗り換えようとしたところで、日本軍に見つかってしまいます。
このときロジェストヴェンスキーを見つけた船は漣(さざなみ)というのですが、この船の乗組員がたまたま私物の高倍率双眼鏡を持っていたため、ロジェストヴェンスキーを発見したのだとか。
この頃はまだ日本国内で双眼鏡は作られていなかったようなので、輸入品をかなりの金額で購入したと思われます。
つまり全くの偶然なわけです。
ここまで来ると運が悪すぎて、敵ながらロジェストヴェンスキーが気の毒になってきますね……。
捕虜になった後、しばらく彼は佐世保の海軍病院に入院していました。
入院中には、東郷平八郎がお見舞いに来たことがあるそうです。
このとき丁重に扱ってくれた東郷を、ロジェストヴェンスキーは生涯尊敬していたとか。
後年の板東俘虜収容所の話などもそうですが、「敗軍の将」に礼を尽くせるかどうかで軍人の器がわかるもんですよね。
軍法会議にかけられるものの降格処分だけで済む
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約締結後、ロジェストヴェンスキーはシベリア鉄道を使って帰国しました。
やはり敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられましたが、降格以外の処分は受けていません。自ら「敗戦の責任は自分にある」と発言したのが良かったのでしょうか。
ロジェストヴェンスキーについては、従来「無能な司令官だった」と酷評されていたのですけれども、2007年に見つかった家族への手紙(※31通)から、「この戦いに勝ち目はないだろう」と考えていたことがわかりました。
現状を認識できていて、それでも引き返せず、多くの将兵を死なせることがわかっており、さらに事が終わって生き残っていたら、自分が責任を取らねばならない……。
軍のお偉いさんや君主にはままあることですが、想像するだけで切なく重苦しい気分になりますね。
ロジェストヴェンスキーは軍法会議の後に退役し、1909年に亡くなりました。
せめてそれまでの数年だけでも、穏やかに過ごせていればいいのですが。
長月 七紀・記
【参考】
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー/wikipedia
日露戦争/wikipedia