日本人からすると、ヨーロッパの歴史は中々不思議なものであります。
主な理由をピックアップしてみますと……。
◆地続きである
→お互い影響されやすい、というかそもそも同じ国が分かれたりすることが珍しくない
◆相続問題や戦争が起きやすい
→王様同士が血縁関係なので、相続問題や戦争の原因になりやすい上に、宗教的・文化的イザコザも後を絶たない
◆エリアによっては言語も人名も類似
→誰が誰だか区別がつかなくなる
要は色々とスッキリしないんですね(´・ω・`)
742年(日本では奈良時代・天平十四年)4月2日に誕生したカール大帝もその一人かもしれません。
なんせフランス語読みでは「シャルルマーニュ」になりますからね。
だったら放置しときゃエエやん……ってワケにもいかないところが辛いところです。
このカール大帝さん、ヨーロッパの中心を作った方とも言えるのです。
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出生地とフランク王国
なぜ全く違う二つの名前があるのか?
それは彼の出生地に関係しています。
現在でもドイツ・フランス国境の町アーヘンであること。
両国の元になったフランク王国の王であったこと。
「たしかに、それだったら仕方ないよね」という理由から二つの呼び名が定着しているんですね。
私では原典を確認できませんが、ドイツの史料ではカール大帝、フランスではシャルルマーニュになっているのでしょう。
ちなみに英語だと「チャールズ・ザ・グレート」になるそうで、もはやリングネームですやん。
実際、ヨーロッパって大陸でバトルロイヤルしてるみたいなもんですけどね。
ともかく日本ではカール大帝表記のほうがメジャーなようですので、以下こちらで統一させていただきます。
ドイツとフランスにとって欠かせない人
そんなカール大帝はどんな人だったのか、何をやったのか?
一言で表現するなら「ドイツとフランスの下地=フランク王国を作った人」でいいと思います。
両国にとって偉人ですから、
「カール大帝はウチに決まってんだろ!ドイツの技術は世界一イィイィ!!」
「シャルルマーニュだって言ってんだろ! 料理も芸術も世界一イィイィ!!」
といった取り合いみたいなことになっているわけです。流石にここまで子供染みた言い争いはしてないと思いますがイメージということで。
ではフランク王国とは何ぞや?
といいますと、ローマ帝国と微妙につながりがある国です。
時系列順でいうとこんな感じになります。
ローマ帝国ができる
↓
ローマ帝国が東西に分裂
↓
西ローマ帝国が滅亡
↓
空いた土地にフランク王国ができる
46年間、実に50回以上もの戦争で……
彼は主に戦争でフランク王国の領土を広げていきました。
国を樹立したのが768年で、その後亡くなるまでの46年間、実に50回以上もの戦争をしています。
よく国のお財布がもったものですね。
今ほど兵器が発達してませんから死傷者も少なく、かえって出費は少なかったんでしょうけども。
戦争を行ったのは、エリアで言えば現在のイタリア・ドイツ・スペイン・オーストリアなどなど、まさに四方八方。
しかもその全ての方面で勝利を収め、一回りも二回りも領土を広げました。
凄まじいの一言に尽きる。だからこそ戦争を繰り返せたのかもしれません。
なんせ彼の時代、フランク王国の面積は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と同等になっていたそうですから、ここだけでも充分パネェ人であることがわかります。
しかもカール大帝は王宮にふんぞり返って部下を戦場に送るだけの王ではなく、自らあっちこっちへ移動していました。
日本で言えば織田信長を彷彿とさせますね。
結果、道路整備や交易保護、通貨の規定など経済の概念ができてきます。
その辺の感覚もまんま信長です。
読み書きできなかったのに転戦しながら教養人に
また内政面では、後に【カロリング・ルネサンス】とも呼ばれる文化活動を奨励しました。
この時代のことですから、教育や芸術の概念がある人はほんの一握り。
話によれば、カール大帝自身も文字の読み書きはできなかったそうです。
それでも毎晩勉強を続けていたおかげで、ラテン語やギリシア語を理解できるようになり、歴史書を読み聞かせてもらったり、決して武力オンリーの脳筋タイプではありません。
むしろ頭脳明晰だからこそ各地で連勝を収められたのでしょう。
一方で、苦労しただけに学問の難しさもわかっていたのか。
庶民に広めようとはしなかったので「ルネサンスは言いすぎじゃない?w」と言われることもあるとか。
まぁ、それまでの学問や芸術を後世に伝えようとしたことは評価されるべき事績として、この呼び方は今も存在しています。
東ローマ帝国から認められなかったが
800年にはヴァチカンにも認められ「西ローマ帝国の後継者」として皇帝になりました。
もっとも、このときまで教皇が皇帝を任命するという概念がなかったので
「あのー、東ローマの皇帝さんに認めてもらわないと(西ローマの皇帝を勝手に名乗ったことになっちゃうから)ダメなんじゃないんですか?」
という気分だったようです。
これは東西のローマ皇帝がお互いを認め合うことにより、両方とも帝位につくことは正当なものであるという習慣があったためでした。
ややこしいですが「オレは東、お前は西で一番エライから同じ皇帝な!」というところでしょうか。
しかし、これがうまくいきません。
要するに当時の教皇・レオ3世の一人相撲だったのですね。
東ローマ側では「皇帝(自称)www」と見る人も多くいて、カール大帝にとっては不名誉なだけ。
そこで彼は「だったら、東ローマの女帝さんと結婚して認めてもらうもんね!」と考えましたが、これは失敗に終わります。
女帝とはエイレーネーという人だったのですが、帝位につくまでの経緯がいろいろとアレな上、政治も軍事もヘッタクソだったので、レオ3世に「あのアマ皇帝でもなんでもないから」と言われておりました。
もしこのときエイレーネーと結婚してたら、フランク王国もめっちゃくちゃになってたかもしれませんねぇ。
そしたらフランス・ドイツどころか、ヨーロッパ全体が全く違う歴史になったでしょう。
息子と孫の代で再び分裂へ……
皇帝についた時点で、カール大帝は既に56歳。
そろそろお迎えの気配を感じ取ったのか、806年には相続の準備を始めます。
フランク王国の大部分を占めていたフランク人(民族)には、
「兄弟で親の遺産を公平に分割して、仲良く守って行こうね!」
という習慣がありました。
それを法律でしっかり定めます。
残念なことに、大帝よりも先にルートヴィヒという息子以外が亡くなってしまったため、あまり意味がなくなってしまったのですが。
しかも相続人が1人になって万々歳というわけでもなく、カール大帝の死後、このルートヴィヒ1世が末の息子を溺愛したがためにフランク王国は分裂してしまいます。
末っ子をえこひいきするとロクな結果にならないというのは、古今東西のテンプレかもしれませんね。
長月 七紀・記
【参考】
カール大帝/wikipedia