1968年(昭和四十三年)4月4日、キング牧師ことマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺されました。
ごく最近だったような気もしながら、ちょうど半世紀を迎えるんですね。
もしかすると、当時をご記憶の方もいらっしゃるでしょうか。
この時代のアメリカでは政治家やミュージシャンなど、やたら暗殺される人が多いですが、キング牧師は一体どのような経緯でこんな目に遭ってしまったのでしょうか?
生涯をたどりながら考えてみましょう。
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「もう黒人となんて遊ばせません!」
キング牧師は、1929年(日本では昭和四年)にジョージア州アトランタで生まれました。
日本人にとっては「そういえばそんな名前のオリンピックがあったような……?」という印象が強いかもしれませんが、南北戦争では交通・補給の要衝だった町です。
そのためか、南北戦争後も白人・黒人を中心とした人種による対立が根強かったようです。
キング牧師が人種差別撤廃を夢見るようになったのも、自身の辛い経験がきっかけでした。
小さい頃、近所に住んでいた同年代の白人の子供と仲が良かったそうなのですが、ある日突然その子の親御さんが「もう黒人となんて遊ばせません!」と怒鳴ってきたのだとか。
異人種でなくてもささいなきっかけでよくあることですが、これは少年マーティンの心に深く傷を残します。
また、高校のころバスに乗っていたところ、黒人だというだけで「白人の俺たちに席を譲れ!」と言われて激怒したこともあったとか。
差別者たちは思考停止が常態化?
いつも人種差別の話になると不思議に思うことがあります。
なぜ話が通じる相手を差別しようと思うんでしょう?
おそらく、差別する人の半分は「周りにやれって言われたから」というような思考停止が常態化してしまっているのでしょう。
残りの半分は、何か不満が溜まっていてその発散先として差別をするのでしょうね。
まぁ私見はそこまでにしまして……。
父親が牧師さんだったこともあり、マーティンも同じ道を選び、ボストンの神学校に進みました。
そして在学中、思わぬ事態に遭遇します。
ボストンのとあるお店で食事をしようとしたところ、白人の店員が「黒人の注文なんて取らなくていいだろw」というふざけた理由で注文を取りに来なかったのです。
ボストンでは「人種差別ダメ絶対!」という法律が既にできていたので、この店員は見事お縄になりました。
これはアトランタをはじめとした南部ではありえないことだったのです。それもひどい話ですけども。
これを見たキング牧師は「もしかしたら、法律や制度で人種差別をなくせるかもしれない」と思い始めます。
しかし、第二次世界大戦が終わっても、法律上で「人種差別おk」としている州が多かったため、はじめの一歩が成るにも長い時間がかかりました。
モンゴメリー事件の裁判で人種差別の判決
具体的に状況が変わり始めたのは【モンゴメリー・バス・ボイコット事件】というトラブルが起きてからです。
とある黒人女性が白人優先席に座っていたところ、「白人のために席を譲れ」と言われても従わなかったため、逮捕されたことをきっかけとしたもの。
黒人の人権運動家・エドガー・ニクソンが、キング牧師に「バスへのボイコット運動をしないか」と持ちかけたところから始まりました。
二人は、「そんなことを言うなら、俺たちは二度とバスを利用しないぞ!」と宣言。
多くの人々の共感を呼び、モンゴメリーのバス会社は倒産スレスレに追い詰められます。
そして、この一件は州政府とアメリカ最高裁判所を動かし、「モンゴメリーの人種差別は違憲」という判決が下されました。
つまり、黒人たちの意見が合憲と認められたのです。
この成果はアメリカ中の話題となり、キング牧師はいよいよアメリカ全土で人種差別を撤廃させるべく、さまざまな活動を始めます。
大きな特徴は、武力ではなく話し合いで問題を解決しようと努めたことです。
「非暴力主義」ですね。
これはインド独立の父であるマハトマ・ガンディーの姿勢にキング牧師が共感したからでした。
ガンディーは当時既に暗殺されてしまっていましたが、「暴力では真の解決には至らない」という考えは、海を越えて受け継がれたんですね。
しかし、これを「弱腰wwww」とナメる連中がいたのもまた事実です。
事実、バーミングハムというちょっと美味しそうな名前の町では、警察官が黒人に向かって水をかけるわ、警棒で殴りつけるわ、警察犬をけしかけるわと散々なこともありました。
そもそも善良な黒人を追い回すより、町の治安を守るほうが優先だと思うんですけども。「警察が暴動を起こしてどうする?」とツッコんでくれる人はいなかったようです。
この町ではなかなか運動が実を結ばず、キング牧師自身も一度逮捕されてしまったことがありました。
「I Have a Dream」
そして、形成が劇的に変わったのが、1963年に行われた
「I Have a Dream」
の演説です。
日本でも「私には夢がある。黒人の子供と白人の子供が、同じ学校に通うという夢が」という部分が有名ですね。
この演説は、ワシントンにあるリンカーン記念館という場所で行われました。
平易な文体と、意識的に同じ単語を繰り返したことで多くの人々の記憶に残り、より人種差別撤廃への共感を得ていきます。
「I Have a Dream」は演説の後半で繰り返されていて、前半では「one hundred years later」という部分が多く出てきます。
個人的にはこの辺のほうが好きです。
内容を概略しますと、
「奴隷解放宣言から100年経った今でも、黒人は不自由であり、哀しい立場にある」
というような文章になっています。
ときの大統領であるリンドン・ジョンソンもこれに深く同意し、翌年(1964年)には法律で黒人の権利が正式に認められました。
しかし、賞賛される一方で、キング牧師の活動は反発を受けるようになっていきます。
それは白人達だけでなく、黒人たちからもでした。というのも、黒人の権利を求める運動が活発化するうちに、少しずつ運動家たちの内部で分裂が起きはじめたのです。
徐々に運動家たちの統制がとれなくなり……
組織が大きくなればなるほど、強いカリスマを持った人物がリーダーにならなければならないもの。
しかし、運動家たちはそもそも一つの組織ではありませんでしたから、一枚岩になれないのも仕方のない話でした。
そして徐々にキング牧師達の「非暴力派」より、過激な手段で権利を勝ち取ろうという人達のほうが多くなっていきます。
そうした人達は、政党を作ったり白人に対する暴動を起こしたりしました。これでは白人との対立を深めるだけで、どんどん真の自由からは遠のいていきます。
キング牧師はこの状況を憂いて、
「差別問題が根幹から解決されていないため、こういったことになっているのだと思う。だが、善良な黒人まで乱暴な黒人と同じように思わないでほしい」
という視点から、具体的にどこを解決すれば良いのかといったことをまとめて演説をしました。
それは雇用やベトナム戦争に際しての徴兵といった制度上の問題から、スラム街に黒人が追いやられていることなど、慣習的なことまで幅広く、全てを解決するには相当の時間がかかることばかりでした。
暗殺実行には協力者がいた? 消えぬ陰謀論
キング牧師は「暴力よりはマシ」と考えてお金を使った解決を試みるなど、根気強く対策をしていきます。
が、キング牧師に反対する黒人にとって、「一体いつになれば差別されなくて済むんだ?」という不安と不満は、「暴力を振るってでも解決するしかない」という考えに変化してしまっていました。
その中でなお非暴力を訴えるキング牧師達を、「黒人の敵」とまで見なす人々もいたといいます。
そうしたきな臭い雰囲気の中、1968年4月4日、キング牧師はメンフィス滞在中に白人の脱獄犯ジェームズ・アール・レイによって射殺されてしまったのです。
彼は直前まで隣の週の刑務所に入っていましたし、宿泊先を狙ったという時点で計画性や協力者の存在が疑われることから、未だに陰謀論も絶えません。
ジェームズも自供の三日後に発言をひっくり返していますが、1998年に獄死したため、真相は今も謎のままです。
また、キング牧師は暗殺前日の演説で自らの死を予見するような内容も話しており、何かしら前兆があったのでは? と考える人もいます。
ただ、キング牧師は「I Have a Dream」の演説で有名になって以降、聖職者らしからぬアバンチュール(死語)を楽しんでいたともいわれていますので、その辺りからも何か身の危険を感じるようなことがあったのかもしれません。
ジェームズは上記の通り暗殺の直前まで刑務所にいましたので、こちらの件とはおそらく関係ないでしょうけども……居場所を知るきっかけとして、キング牧師のお相手とどこかで知り合ったというのはありえない話でもないですね。
暗殺の直接の理由は何にしろ、現在も完全には差別がなくなっていないことを考えると、イヤな意味で歴史が動いてしまったことには変わりないのですが。
でも、オバマさんが大統領になれたということは、少しずつ少しずつ前進しているのでしょうね。
長月 七紀・記
【参考】
American Rhetoric(→link)
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア/Wikipedia