ペルーの歴史

中南米

ペルーの歴史が5段階で超わかる ナスカ→マチュピチュ→そして独立へ

「先進国」というと、現在は欧米諸国を主体とした北半球の国を指すことが多いですよね。

しかしそれは近年の話であって、南半球に文化文明が存在しなかったわけではありません。

1899年(明治三十二年)4月3日は、ペルーに日本人移民が初めて到着した日です。

これだけだと「( ´_ゝ`)フーン」の一言で終わってしまいそうなので、ペルーの歴史も一緒に見ていきましょう。

 

紀元前200年頃すでに標高3200mの高さに都市!?

ペルーの歴史は、概ね5段階に分けることができます。

1つめが、この地域に文化と呼べるものが生まれた時代。

だいたい紀元前200年頃までで、既に標高3200mの場所にチャビン・デ・ワンタルという都市が築かれていました。

縦横に地下通路がめぐらされていて、ダンジョンや迷宮を彷彿とさせ、曲がり角の奥からミノタウロスでも出てきそうです。

チャビン・デ・ワンタル/photo by Dtarazona wikipediaより引用

チャビン・デ・ワンタルの外側は薄い石を綿密に積み重ねて作られており、この地域にかなり早い時期から高度な石造建築の技術があったことがうかがえます。

2つめは、「プレ・インカ」と呼ばれる数々の文化が生まれた時代です。

西暦三ケタのころ。現在のペルー領には、あちこちで小さな文化圏が複数生まれていました。

「ナスカの地上絵」で有名なナスカ文化。

灌漑農業や日干し煉瓦の都市を生み出していたモチェ文化。

二重の壁で都市を囲んだ遺跡が見つかっているワリ文化などがあります。

ナスカの地上絵/wikipediaより引用

ナスカの地上絵については2004年から山形大学が力を入れて研究していて、2012年にはナスカ市に研究所を作っているほど。

この十年ほどで40点以上新しい地上絵を見つけた上、ペルー政府にも歓迎され、現在唯一立ち入り調査ができる団体になっているとのことです。

山形大学、すごいっすね。

 

アンデス一帯での国→マチュピチュが!

そして3つめが、皆さんご存知、インカ帝国の時代です。

おおよそ15~16世紀前半に存在していた国で、ここで初めてペルーを中心としたアンデス一帯が一つの国になりました。

「天空の都市」マチュ・ピチュなど、文化レベルの高さは言うまでもありません。

4つめは、繁栄を築いたインカ帝国が滅ぼされ、スペインの植民地になっていた時代です。

実は、ヨーロッパ人がやってきた頃、インカ帝国は帝位継承をめぐって内戦の真っ最中でした。

ギリギリのところで内戦は終わったのですが、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病でインカの人々は弱ってしまい、そこをぶん殴られて滅ぼされてしまったのです。

少しでも順番が違えば、もうしばらくインカ帝国の時代が続いていたかもしれません。

スペインからやってきた代官(コレヒドール)はペルーの人々をこき使う上に、私腹を肥やすためにぼったくり商売をしていたので、当然のことながら恨みを買いまくりました。

時代劇のペルー版みたいな感じでしょうか。

コレヒドールの給料が少なかったせいでもあるそうですが、「お上からもらえないなら、下からぶんどればいいじゃない」という考え方が実にゲスいです。

ポトシ銀山での奴隷労働などが有名ですね。

そういった過酷な労働のせいで、インカ帝国時代に1,000万人いた人口が、約1/10にまで減ったといわれています。ヒドすぎる……。

とはいえペルーの人々もただやられっぱなしではなく、インカの誇りを忘れずに反乱を起こしたこともありました。

その中には、ペルーで生まれた白人(クリオーリョ)や、ペルー人と白人の混血者(メスティーソ)などもいたといいますから、インカに魅せられた人も多かったのでしょう。

また、この時代にカトリックの修道会がペルーの人々にキリスト教を伝えました。

 

1826年、スペインからの独立を果たす

最後の5つめが、スペインからの独立~現代に至るまでの時代です。

ヨーロッパでナポレオンが台頭し、ナポレオンの兄が強引にスペイン国王に即位。

スペイン本国ですら反発が大きかったのですから、植民地は言わずもがなの反応となりました。

スペインのお偉いさんは押さえつけようとしたものの、ホセ・デ・サン・マルティンというアルゼンチン出身のスペイン軍人によって、ペルー独立の足がかりがつけられます。

ホセは「アルゼンチンを独立させるためには、周辺の国も独立させたほうがより確実」と考えていたのです。

悪い言い方をすればおまけというか、「ウチが安全になるためにやってるんだから! アンタたちのためじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!」(※超訳です)という感じですかね。

また、ベネズエラで生まれたクリオーリョのシモン・ボリバルも、同じく南アメリカの解放に尽力しました。

前半戦はホセ、後半戦はシモンが独立を先導したような形です。

そして1826年にとうとう最後のスペイン軍残党を降伏させ、ペルーは独立を果たしたのでした。

とはいえ、独立したからといって全てがうまくいくわけではありません。

周辺国家との戦争がたびたび起こったり、黒人奴隷を開放したかわりに各国の移民を奴隷同然に働かせたりと、問題もたびたび起こりました。

1879年には「太平洋戦争」が起きています。

もちろん日本やアメリカ合衆国は関係ありません。この戦争については以下の記事をご参照ください。

 

日系移民は全部で数十万人規模に

そして、この戦争が終わった頃に日本人が移民を始めます。

それ以前にもたまたま漂着した日本人が数人いたようですが、それはさておき。

初期の移民でペルーへ辿り着いたのは790人ほど。

ブラジルへの移民同様、当初は劣悪な労働環境や風土病などのため、2年もしないうちに120人以上が亡くなったといわれています。

異国の地で相手と直接話し合うこともできず、移民たちは困り果てました。

そこで、移民たちは日本の外務省に宛てて「話が違うんですけど!!」と手紙を送ることにします。

この頃の外務省は仕事が早かったようで、さっそく現地での調査が行われています。

結果、想像以上にひどかったことが明らかとなり「移民全員の帰国がベスト」と考えられました。

ただ、あくまで理想論でした。

船の用意ができず、困り果てた担当者はペルー人の雇用者に

「言葉も通じなくて大変だろうけど、もうちょっと良くしてもらえませんか」

と交渉、移民たちにも「皆の話はきちんと伝えたから、もう少しだけ我慢してね」と伝えました。

こういうのってだいたい元の木阿弥になったり、さらに悪化するのがテンプレです。

しかし、ペルー人と日本人の間ではうまく行ったようです。

1907年(明治四十年)には曹洞宗のお寺・慈恩寺も作られているので、移民たちの心の拠り所にもなったでしょう。

その後も国同士の移民契約が廃止されるまで、日本人移民が数多くペルーに渡りました。

だいたい18,000人くらいだといわれています。

第二次世界大戦中は敵国だったということもあって日系人の調査が途絶え、現在の数は不明です。だいたい数十万人規模ともいわれていますね。

観光資源は豊富ですし、かつては日系人が大統領も務めた国です。

日本から見て、ほぼ地球の裏側ですが、機会があればぜひとも一度は訪れたい国の一つでありましょう。

長月 七紀・記

【参考】
ペルー/Wikipedia
ペルー日本友好の日/在日ペルー大使館(→link
ペルー観光情報サイト(→link

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