織田信長のイラスト。赤い背景を背に、鋭い眼差しで前を見据える戦国武将の姿を描いた作品で、『信長公記』の主題を象徴するビジュアル。

絵・富永商太

『信長公記』連載まとめ|太田牛一が著した織田信長の一代記

織田信長の生涯を描いた一代記『信長公記』には何が書かれているのか?

太田牛一が記した原文の現代語訳版をベースに、最新研究を考慮しながら、信長の実像に迫るシリーズ。

初めて『信長公記』に触れる方にもわかりやすく整理しました。

お好きな項目から読み進められる仕様になっておりますので、目次からクリックして、ご自由にご覧ください(ただいまへの天正六年までの掲載を進行中です)。

イラスト:富永商太

 

お好きな項目に飛べる目次

首巻 信長の生誕~美濃制圧

『信長公記』の首巻は織田信長の誕生時から美濃攻略までの期間が描かれています。

具体的に始まりの日は明記されていません。

ですので、仮に織田信長の生まれた天文三年(1534年)5月を起点としますと、美濃を制したのが永禄十年(1567年)8月ですから、

◆首巻

天文三年(1534年)5月 信長生誕

約33年間

永禄十年(1567年)8月 信長34才

首巻だけで、実に33年間にも及ぶ。

若き日の織田信長イラスト

若き日の織田信長イメージ/絵・富永商太

そこで本ページでの首巻は、便宜上、以下の三つの期間に区切って進行させていただきます。

・1542~1551年

→幼少期から父・信秀が亡くなるまで

・1552~1560年

→家督を継いでから桶狭間の戦いまで

・1561~1567年

→桶狭間後から美濃制覇まで

天文十一年(1542年)小豆坂の戦いに始まり、永禄十年(1567年)稲葉山城陥落による美濃制圧まで、どんな事績が記されているのか。

以下の記事リストよりご覧ください。

誕生から父が亡くなるまで(1542~1551年)

 

家督継承から桶狭間まで(1552~1560年)

斎藤道三の肖像画

斎藤道三/wikipediaより引用

桶狭間後から美濃制覇まで(1561~1567年)

丹羽長秀の肖像画

丹羽長秀/wikipediaより引用

 

巻一 永禄十一年(1568年)上洛

室町幕府の13代将軍・足利義輝が三好一族に攻められ自害。

足利義昭に請われて織田信長は、同年7月から上洛の準備を進めます。

春・永禄の変に散った足利義輝

夏・十四代足利義栄が倒れ将軍は不在のまま

永禄八年(1565年)に足利義輝は倒れ、翌年、足利義栄は摂津に入って将軍宣下を朝廷に働きかけます。それがようやく認められたのが永禄十一年(1568年)2月のこと。しかし京都入りすること叶わず病死してしまいました。

一方、足利義昭は永禄十一年(1568年)4月に元服。

美濃を平定し北伊勢も押さえた織田信長は、上洛までの重要な通り道となる近江ルートの掌握に乗り出します。

浅井長政に対しては妹のお市の方を嫁がせ、さらに京都へ近づくため諸勢力(永原重康や佐治美作守など)と連携しました。

そして準備を整えた上で越前朝倉のもとにいた足利義昭を美濃へ呼び寄せるのです。

秋・足利義昭と共に上洛

冬・義昭が信長を副将軍に推挙

 

足利義昭と織田信長の肖像画

足利義昭と織田信長/wikipediaより引用

 

巻二 永禄十二年(1569年)伊勢侵攻

前年に足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、岐阜へ帰国後、いきなりピンチに見舞われます。

京都にいた義昭が三好三人衆や斎藤龍興らに攻められたのです。

本圀寺の変(六条合戦)とも呼ばれるこの戦いは、細川藤孝や明智光秀らの働きにより勝利。

同年8月、信長は伊勢への侵攻に着手しました。

春・本圀寺の変で義昭が三好勢に襲撃され

夏・天下三茄子や天下三肩衝

秋・隣国伊勢の北畠へ侵攻

冬・北畠親子を追放

 

巻三 元亀元年(1570年)浅井と対立

越前の朝倉家へ攻め込んだ織田軍は首尾よく進軍。

ところが突如、背後の義弟・浅井長政に裏切られ、信長は這々の体で京都へ戻り、浅井朝倉との戦いの日々が始まりました。

春・近江で相撲大会

夏・青天の霹靂 浅井の裏切り

馬上で長い太刀を振り下ろそうとする真柄直隆(姉川合戦図屏風)/wikipediaより引用

秋・石山本願寺との激戦

冬・各地の敵が蜂起で身動きできない織田軍

 

巻四 元亀二年(1571年)比叡山焼き討ち

浅井朝倉との激戦が続く中、信長は敵の勇将・磯野員昌(いそのかずまさ)の調略に成功。

勢力を拡大していき、新たにその前に立ちはだかったのが比叡山延暦寺でした。

春・浅井の勇将 磯野員昌が織田軍に降る

元亀元年末に一時的な和睦で休戦に至った織田軍は、年が明けての元亀二年から再び活動。

浅井の勇将として知られていた佐和山城・磯野員昌の調略に成功すると高島郡へ移動させ、城には丹羽長秀を配置しました。

佐和山城は琵琶湖の東側にある上洛ルート要衝の一つです。

ここを奪われた浅井の衝撃は大きく、状況を打開するため長政は5月、軍を発し、秀吉と対峙することになりました。それが次項、箕輪の合戦となります。

夏・浅井を相手に秀吉が孤軍奮闘

秋・比叡山焼き討ち

冬・紫宸殿や清涼殿など内裏の修繕

 

巻五 元亀三年(1572年)三方ヶ原の戦い

浅井朝倉との戦いをジリジリと進める信長は、この年、かつての桶狭間以上の窮地に立たされます。

同盟相手の徳川が戦国期最強とも称される敵と衝突することになったのです。

相手は武田信玄――三方ヶ原の戦いとして知られ、織田徳川が大敗したこの合戦、『信長公記』ではどのように描かれているのか。

春・定宿は二城の妙覚寺だった

夏・三好と松永による謀反

秋・信長嫡男の織田信忠が初陣

冬・激戦!三方ヶ原の戦い

武田信玄のイメージイラスト

絵・富永商太

 

巻六 元亀四年(1573年)足利義昭を追放

信玄の進軍に呼応するように、京都では足利義昭が挙兵。

諸勢力に包囲され苦戦続きの織田軍ですが、懸念していた武田軍は突如帰国し、残された義昭は……。

春・足利義昭に対して十七ヶ条の意見書

夏・対立姿勢を深めていく義昭

秋・将軍を追放して浅井朝倉を滅ぼして

冬・義昭を匿っていた三好義継との決着を

 

巻七 天正二年(1574年)蘭奢待

前年に足利義昭を追放後、浅井朝倉も討ち取った織田信長。

正月から、彼らの首を肴に酒宴を開き、上機嫌になるという驚き一面を見せますが、さらに驚愕な事がこの年に起きます。

天下の香木として名高い正倉院の蘭奢待を切り取ることになったのです。

春・浅井と朝倉の首を肴に酒宴

蘭奢待

蘭奢待/wikipediaより引用

夏・高天神城が武田方に落とされた

秋・伊勢長島の願証寺攻略

冬・荒木村重が有岡城(伊丹城)を居城に

伊勢で織田信長が長島一向一揆と対峙しているとき、摂津や河内でも一向衆らと織田軍の戦いは行われていました。

このとき伊丹城の伊丹忠親が信長から離反。

織田軍は、これを制するべく荒木村重が向かい、11月15日、伊丹城を陥落させると、以降は有岡城と名を変え村重の居城となります。

絵・富永商太

 

巻八 天正三年(1575年)長篠の戦い

信玄が亡くなり、跡を継いだ武田勝頼。

ますます領土を拡大させていく武田家は長篠城を取り囲み、ついに対決を決意した織田信長は設楽ヶ原で待ち構えます。

そう、長篠の戦いです。

春・今川氏真が蹴鞠を披露

夏・長篠の戦い

長篠合戦図屏風

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用

秋・越前一向一揆の鎮圧へ

冬・岩村城の戦いで秋山虎繁とおつやを処刑

 

巻九 天正四年(1576年)安土城

長篠の戦いで武田軍に完勝し、嫡男の織田信忠に家督も譲った信長。

年が明けると丹羽長秀に安土城の築城を命じ、2月から早速移り住みます。

とはいえ以前から宿敵の石山本願寺は健在であり、毛利勢の水軍も加わり、織田軍と衝突することに。

春・安土城

夏・天王寺砦で信長撃たれる

『石山合戦図』

織田軍と石山本願寺が11年にわたって激突『石山合戦図』/wikipediaより引用

秋・第一次木津川口の戦い

冬・内大臣に就任

 

巻十 天正五年(1577年)松永久秀の謀反

柴田勝家に加賀への出陣を命じるなど。

配下の者たちに権限を与え、勢力拡大に注力する信長に対して、畿内で足元を脅かす事件が勃発します。

松永久秀が城にこもって反旗を翻したのです。

信長は「何が不満なのか。いま戻れば無かったことにする」とまで譲歩しますが……。

春・第一次紀州征伐

絵・小久ヒロ

夏・支配域を拡大しても不安定

第一次紀州征伐で雑賀衆を降伏させた織田信長。

しかし大軍を用いて攻め込んだ結果としては物足りなく、後に雑賀衆が織田軍と敵対したことから、第一次紀州征伐を事実上の敗戦と見る向きもあります。

支配域は拡大させても、なかなか安定させられない。

そんな状況の中で次に動いたのが松永久秀でした。

秋・伊達輝宗(政宗の父)からの手紙

冬・関白の息子が成人式

黒田官兵衛(左)と竹中半兵衛(右)の肖像画

黒田官兵衛(左)と竹中半兵衛(右)/wikipediaより引用

 

巻十一 天正六年(1578年)別所と荒木の謀反

松永久秀に続き、今度は播磨の別所長治が謀反。

さらにこの年は、摂津の荒木村重までが毛利方につき、羽柴秀吉(豊臣秀吉)による中国地方の攻略に待ったがかかります。

一方、明智光秀は丹波で八上城を囲んでいました。

春・三木城の別所長治が裏切った

夏・尼子の上月城は見捨てよ

秋・越中へ攻めこんだのは斎藤道三の末っ子だった

冬・村重突然の裏切り

 

巻十二 天正七年(1579年)第一次天正伊賀の乱

明智光秀が丹波八上城の攻略に成功。

荒木村重も有岡城から抜け出し、首尾よく進む中、織田信長の次男である織田信雄が勝手に伊賀へ攻め込み(第一次天正伊賀の乱)、そして大敗という失態を犯してしまいます。

激怒した信長は……。

春・始まりは平穏だった天正七年

  • 信長の休暇~平穏だった天正七年前半|信長公記第176話

夏・半兵衛の逝去

秋・村重が妻子家臣を見捨てて

冬・

 

巻十三 天正八年(1580年)石山本願寺を制圧

別所長治の籠る三木城を徹底した兵糧攻めで陥落させた秀吉。

織田軍は、10年以上にわたる宿敵だった石山本願寺にも事実上の勝利をおさめ、さらには勝家も加賀を平定。

同盟相手の徳川は武田方の高天神城を徹底して囲み、信長の勢いはいよいよ止まらなくなってきます。

春・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

夏・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

秋・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

冬・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

 

巻十四 天正九年(1581年)京都御馬揃え

軍事パレードといえる「京都御馬揃え」を2月に開催。

正親町天皇にもその姿を披露するなど、天下人としての威光を輝かせる信長の勢いはまだまだ止まらない。

家康が武田方の高天神城、秀吉は毛利方の鳥取城攻略、織田信雄も伊賀の平定に成功します。

春・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

夏・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

秋・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

冬・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

 

巻十五 天正十年(1582年)本能寺の変

織田信忠を総大将とした織田徳川連合軍が甲州征伐を敢行。

ついに最大の敵である武田勝頼を滅ぼした信長は、長年の協力と苦労をねぎらうため徳川家康を安土城に招待します。

人生の頂点まであと一歩。

しかし、その直後、人生最大の不覚に見舞われます。

明智光秀が裏切ったのです。

春・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

夏・

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

信長亡き後の織田家

  • 以降は大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

 

『信長公記』年表

  • 大河ドラマ『豊臣兄弟』に合わせて更新予定

 

戦国ページへ戻る

 


📚 過去の更新はこちら

直近の更新を見る
  • 2025/12/4「第189~193話」を追加
  • 2025/12/2「第185~188話」を追加
  • 2025/12/1「第182~184話」を追加
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

2025/11/10

お好きな項目に飛べる目次

目次