絵・富永商太

信長公記 浅井・朝倉家

将軍と仲違いしながら朝倉攻めで大ピンチ!超わかる信長公記68話

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織田信長を代表する合戦は何ですか?

そう問われたら、おそらく多くの方が【桶狭間の戦い】や【長篠の戦い】、あるいは【本能寺の変】と答えるでしょう。

確かにこうした戦いはドラマのように劇的で、信長を代表する戦いに間違いありません。

しかし。

「今度こそ負けてしまうんじゃなかろうか?」
「四方八方が敵で、さすがにヤバイだろ」

そんな状況で、織田家や信長の命が本気で危なかった、ハラハラ・ドキドキ時代の戦いではありません。

味方に裏切られ、敵に囲まれ、ときに朝廷を巻き込んだ和睦も駆使しながら、ピンチの毎日を首の皮一枚でくぐり抜けていく――『信長公記』最大の見どころへ。
キッカケは1568年頃から始まりました。

 

信長と義昭 仲違いの原因は何ぞや

永禄十一年(1568年)の夏から秋にかけて。
織田信長は足利義昭の上洛を成功させ、将軍就任にこぎつけました。

そのときは信長を「御父」とまで呼ぶほど感動していた義昭でしたが、次第に二人の関係は悪化し始めます。

『信長公記』では触れられておらず、興福寺の僧侶・多聞院英俊などが
「信長公と将軍様が仲違いをしたらしい」
と書き残しているため、当時は有名な噂になっていたようです。

仲違いした具体的な理由については、現代でも意見の分かれるところでして。

【信長と義昭 仲違いの原因は?】

・信長が伊勢の北畠氏と和平した条件(次男・織田信雄の養子入りなど)

・信長が永禄十二年(1569年)1月に義昭に承認させた十六ヶ条の「殿中御掟でんちゅうおんおきて

このあたりが、義昭の不満になっていたのではないか、と考えられています。

足利義昭/wikipediaより引用

特に殿中御掟については、永禄十三年(1570年)1月に五ヶ条が追加され、義昭から見て
「信長は自分の権力を弱めるために、真綿で首を締めるようなやり方をしてきている」
と不快に思っても、不思議ではありません。

しかし、殿中御掟の中身は、まだ政治に慣れていない義昭をサポートするような点も多々見られるのです。

 

政治に不慣れな義昭を助けるためだった?

義昭をサポートしていたとはどういうことか?

例えば「僧侶や医師、陰陽師などとはみだりに会わないこと」という一文があります。
当時、これらの職業には、仕事を隠れ蓑にしてスパイなどが紛れこむことも珍しくありませんでした。

このころ新たに将軍御所や武家屋敷を造って防御機能を高めたとはいえ、将軍に直接危害が及ぶようなことがあれば、幕府の権威や朝廷からの信頼はまた失墜してしまうでしょう。

殿中御掟の中で、将軍への直訴が禁じられているのも、似たような理由だと思われます。

他にも、長く京都を離れていて政治に不慣れな義昭に代わり、
「将軍から誰かに褒美を与えたいときは、信長が領地などを都合する」
といった、将軍の不足を補おうとする条文もあります。

さらには
「天下(この場合は京都周辺)で戦がなくなったのだから、朝廷の儀式は将軍様が行うべきなので、そうしていただきたい」
という文も含まれていました。

 

日本各地の大名へ書状を送ったところ

朝廷と直接相対してもいい――ということなのですから、信長としてはこんな考えだったのではないでしょうか。

「あくまで立場は私(信長)より義昭様のほうが上ですし、重んじるつもりです。だから慣れない武家相手の実務はこちらに任せ、血筋や大義が大切な朝廷との仕事に集中してください」

信長が本当に義昭を傀儡にしたいのならば、朝廷との接触も禁じたはずです。
日本で一番の権威と信用を持つのは、朝廷を構成している皇室と公家たちですから。

残念ながら、義昭にも側近にも、これは伝わりませんでした……。

信長から義昭へ「十七箇条意見書」や「殿中御掟」には何が書かれていた?

元 ...

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また、殿中御掟の追加五ヶ条と同時(永禄十三年・1570年1月)に、信長は以下のような書状を日本各地の大名へ送っています。

「皇居修繕などのため、信長は2月に上洛する。皆も上洛し、皇室と将軍に尽くすように」

これに対して、大名たちが取った対応は、大きく3つのパターンに分かれています。

近畿周辺の者は、実際に上洛して信長の意図通りに動きました。
九州など、遠国の大名は上洛こそしなかったものの、使者を派遣して逆らう意思がないことを明らかにしています。

残る一つは、全くの無反応でした。
そのうち「すぐに上洛できる距離なのに、反応さえもしなかった」という最悪の対応をしたのが、越前の朝倉義景でした。

朝倉義景/wikipediaより引用

 

朝倉氏の対応を許すワケにはいかない事情

朝倉氏の対応については
「信長が戦を仕掛けて従わせようとした」
と、いかにも信長が暴力的に仕掛けたかのような説明も多いです。

が、それは少々悪意の強い見方かと。
当時の信長は、将軍に代わって武家を取り締まるような立場でした。

ここで朝倉氏が
「自分たちは名門なので、どこの馬の骨とも知れない信長になんて従いません!」
なんて言い訳をして、信長がそれを受け入れてしまったら、どうなるか?

朝倉氏は満足するだけでは済まされず、他の大名もこう思ったに違いありません。

「なんだ、信長は血筋に気圧されるような人間なのか。それならウチのほうが織田家より由緒正しい家なんだから、アイツの言う事聞かなくていいじゃん」

そうなれば、また京都周辺の治安は乱れていきますし、最悪の場合は【応仁の乱】のようなカオスに逆戻りです。
信長としては、朝倉氏の反応を許すわけにはいきません。

少々長くなりましたが、こういった理由で、信長は朝倉氏攻めを決めたのです。

 

朝倉と敵対していた若狭武田氏

信長は如何にして朝倉家へ攻め込んだか。
日を追いながら見て参りましょう。

◆元亀元年(1570年)4月20日

信長が京都から直接越前へ出陣。
この日は坂本を通って和邇わにへ到着しました。どちらも現在の滋賀県大津市です。

◆21日
田中(高島市)の城に宿泊。

◆22日
熊河(福井県三方上中郡)の松宮清長の城に宿泊。

松宮清長は、若狭の守護若狭武田氏の家臣で、朝倉氏と対立していた人です。

当時、若狭武田氏の当主・武田元明は、お家騒動の余波で朝倉の本拠・一乗谷城に住まわされていました。

元明はまだ8~18歳程度。
年齢に開きがあるのは、元明の生年が不確定だからで、天文二十一年(1552年)説と永禄五年(1562年)説があります。

若狭武田氏からすれば、幼い当主を人質に取られ、朝倉氏に従属を強いられている状態です。
ちょうど、幼い頃の徳川家康今川義元のような関係でした。

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つまり清長たちからすれば、なんとかして朝倉氏に対抗し、当主を取り戻したいわけで……そこに信長が台頭してきたのですから、手を貸さないという選択肢はなかったと思われます。

 

天筒山城の戦いで敵方の首を1370も討ち取った

◆23日
佐柿(三方郡)の粟屋勝久の城へ着陣。
粟屋勝久も清長とほぼ同じ立場の人で、後の越前攻めでも信長に協力しています。

◆24日
佐柿に駐留。

◆25日
敦賀方面へ進み、信長は駆け回って状況を確認。
天筒山城てづつやまじょう(敦賀市)を攻撃することにしたのですが……。
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