絵・富永商太

浅井・朝倉家 信長公記

越前の朝倉侵攻 浅井に裏切られて絶体絶命|信長公記第68話

2019/08/20

織田信長を代表する合戦は何ですか?

そう問われたら、おそらく多くの方が【桶狭間‌の戦い】や【長篠‌の戦い】、あるいは【本能寺‌の変】と答えるでしょう。

確かにこうした戦いはドラマのように劇的で、信長を代表する戦いに間違いありません。

しかし。

「今度こそ負けてしまうんじゃなかろうか?」

「四方八方が敵で、さすがにヤバイだろ」

そんな状況で、織田家や信長の命が本気で危なかった、ハラハラ・ドキドキ時代の戦いではありません。

味方に裏切られ、敵に囲まれ、ときに朝廷を巻き込んだ和睦も駆使しながら、ピンチの毎日を首の皮一枚でくぐり抜けていく――『信長公記』最大の見どころへ。

その火種は永禄十一年(1568年)頃から蒔かれておりました。

📚 『信長公記』連載まとめ

 


信長と義昭 仲違いの原因は何ぞや

永禄十一年(1568年)の夏から秋にかけて。

織田信長は足利義昭の上洛を成功させ、将軍就任にこぎつけました。

そのときは信長を「御父」とまで呼ぶほど感動していた義昭でしたが、次第に二人の関係は悪化し始めます。

『信長公記』では触れられておらず、興福寺の僧侶・多聞院英俊などが「信長公と将軍様が仲違いをしたらしい」と書き残しているため、当時は有名な噂になっていたようです。

仲違いした具体的な理由については、現代でも意見の分かれるところでして。

【信長と義昭 仲違いの原因は?】

・信長が伊勢の北畠氏と和平した条件(次男・織田信雄の養子入りなど)

・信長が永禄十二年(1569年)1月に義昭に承認させた十六ヶ条の「殿中御掟でんちゅうおんおきて

このあたりが、義昭の不満になっていたのではないか、と考えられています。

足利義昭/wikipediaより引用

特に殿中御掟については、永禄十三年(1570年)1月に五ヶ条が追加され、義昭から見て「信長は自分の権力を弱めるために、真綿で首を締めるようなやり方をしてきている」と不快に思っても、不思議ではありません。

しかし、殿中御掟の中身は、まだ政治に慣れていない義昭をサポートするような点も多々見られるのです。

 


政治に不慣れな義昭を助けるためだった?

義昭をサポートしていたとはどういうことか?

例えば「僧侶や医師、陰陽師などとはみだりに会わないこと」という一文があります。

当時、これらの職業には、仕事を隠れ蓑にしてスパイなどが紛れこむことも珍しくありませんでした。

このころ新たに将軍御所や武家屋敷を造って防御機能を高めたとはいえ、将軍に直接危害が及ぶようなことがあれば、幕府の権威や朝廷からの信頼はまた失墜してしまうでしょう。

殿中御掟の中で、将軍への直訴が禁じられているのも、似たような理由だと思われます。

他にも、長く京都を離れていて政治に不慣れな義昭に代わり、「将軍から誰かに褒美を与えたいときは、信長が領地などを都合する」といった、将軍の不足を補おうとする条文もあります。

さらには「天下(この場合は京都周辺)で戦がなくなったのだから、朝廷の儀式は将軍様が行うべきなので、そうしていただきたい」という文も含まれていました。

 

日本各地の大名へ書状を送ったところ

朝廷と直接相対してもいい――ということなのですから、信長としてはこんな考えだったのではないでしょうか。

「あくまで立場は私(信長)より義昭様のほうが上ですし、重んじるつもりです。だから慣れない武家相手の実務はこちらに任せ、血筋や大義が大切な朝廷との仕事に集中してください」

信長が本当に義昭を傀儡にしたいのならば、朝廷との接触も禁じたはずです。

日本で一番の権威と信用を持つのは、朝廷を構成している皇室と公家たちですから。

残念ながら、義昭にも側近にも、これは伝わりませんでした……。

十七箇条意見書と殿中御掟
信長が義昭に本気でダメ出し「殿中御掟」「十七箇条意見書」には何が書かれている?

続きを見る

また、殿中御掟の追加五ヶ条と同時(永禄十三年・1570年1月)に、信長は以下のような書状を日本各地の大名へ送っています。

「皇居修繕などのため、信長は2月に上洛する。皆も上洛し、皇室と将軍に尽くすように」

これに対して、大名たちが取った対応は、大きく3つのパターンに分かれています。

近畿周辺の者は、実際に上洛して信長の意図通りに動きました。

九州など、遠国の大名は上洛こそしなかったものの、使者を派遣して逆らう意思がないことを明らかにしています。

残る一つは、全くの無反応でした。

そのうち「すぐに上洛できる距離なのに、反応さえもしなかった」という最悪の対応をしたのが、越前の朝倉義景でした。

朝倉義景/wikipediaより引用

 


朝倉氏の対応を許すワケにはいかない事情

朝倉氏の対応については「信長が戦を仕掛けて従わせようとした」と、いかにも信長が暴力的に仕掛けたかのような説明も多いです。

が、それは少々悪意の強い見方かと。

当時の信長は、将軍に代わって武家を取り締まるような立場でした。

ここで朝倉氏が「自分たちは名門なので、どこの馬の骨とも知れない信長になんて従いません!」なんて言い訳をして、信長がそれを受け入れてしまったら、どうなるか?

朝倉氏は満足するだけでは済まされず、他の大名もこう思ったに違いありません。

「なんだ、信長は血筋に気圧されるような人間なのか。それならウチのほうが織田家より由緒正しい家なんだから、アイツの言う事聞かなくていいじゃん」

そうなれば、また京都周辺の治安は乱れていきますし、最悪の場合は【応仁の乱】のようなカオスに逆戻りです。

信長としては、朝倉氏の反応を許すわけにはいきません。

少々長くなりましたが、こういった理由で、信長は朝倉氏攻めを決めたのです。

 

朝倉と敵対していた若狭武田氏

信長は如何にして朝倉家へ攻め込んだか。

日を追いながら見て参りましょう。

◆元亀元年(1570年)4月20日 信長が京都から直接越前へ出陣。

この日は坂本を通って和邇わにへ到着しました。どちらも現在の滋賀県大津市です。

◆21日 田中(高島市)の城に宿泊。

◆22日熊河(福井県三方上中郡)の松宮清長の城に宿泊。

松宮清長は、若狭の守護・若狭武田氏の家臣で、朝倉氏と対立していた人です。

当時、若狭武田氏の当主・武田元明は、お家騒動の余波で朝倉の本拠・一乗谷城に住まわされていました。

元明はまだ8~18歳程度。

年齢に開きがあるのは、元明の生年が不確定だからで、天文二十一年(1552年)説と永禄五年(1562年)説があります。

若狭武田氏からすれば、幼い当主を人質に取られ、朝倉氏に従属を強いられている状態です。

ちょうど、幼い頃の徳川家康と今川義元のような関係でした。

つまり清長たちからすれば、なんとかして朝倉氏に対抗し、当主を取り戻したいわけで……そこに信長が台頭してきたのですから、手を貸さないという選択肢はなかったと思われます。

 

天筒山城の戦いで敵方の首を1370も討ち取った

◆23日 佐柿(三方郡)の粟屋勝久の城へ着陣。

粟屋勝久も清長とほぼ同じ立場の人で、後の越前攻めでも信長に協力しています。

◆24日 佐柿に駐留。

◆25日 敦賀方面へ進み、信長は駆け回って状況を確認。

天筒山城てづつやまじょう(敦賀市)を攻撃することにしたのです。

天筒山城を落とすため、まずは東南側を攻め口と決めました。

が、山が険しく、織田軍は手こずります。

それでも信長がここから攻めるよう厳命したので、将兵は命がけで攻め込みました。

結果、なんとか城内への突入に成功。敵方の首を1370も討ち取ったとか。

信長公記には書かれていませんが、織田軍の犠牲も相当なものだったようです。

そしてそのまま天筒山城の本城にあたる金ヶ崎城(敦賀市)を攻める予定でしたが、城将だった朝倉景恒があっさり降参&退去。

天筒山城の南にあった引壇城ひきだじょう(敦賀市)も降伏したため、信長は滝川彦衛門と山田左衛門尉を派遣し、塀や櫓を破壊させています。

 

浅井の裏切り ショックのあまり事態を呑み込めず

朝倉の城を次々に落とし、勢いに乗る織田軍。

そのまま木ノ芽峠を越え、越前中部へ進む予定でした。

しかし、このタイミングで信じられない事態が信長に襲いかかります。

浅井長政が裏切った」

そんな知らせが届いたのです。

浅井長政の肖像画

浅井長政/wikipediaより引用

自身の本拠地・美濃と隣接し、妹のお市を嫁がせ、強固な同盟を結んだ浅井家。

あまりのことに信長は当初、事態を信じられなかったようですが、複数の筋から同じ情報が届いたため、やむを得ず撤退することにしました。

信長の生涯でも最大級の危機である撤退戦「金ヶ崎の戦い」がここで起きたのです。

ただし信長公記では「金ヶ崎城には木下藤吉郎が残った」ことしか書かれていません。

他にも殿しんがりとして残った武将は多々いたのですけれども……気になる方は、以下の詳細記事を併せてご覧ください。

金ヶ崎の退き口アイキャッチ
金ヶ崎の退き口|浅井長政に裏切られ絶体絶命の窮地に陥った信長や秀吉の撤退戦

続きを見る

 

戦国三大梟雄の一人・松永が信長を助けた

◆4月30日 朽木元綱くつきもとつなの奔走により、朽木越えで信長一行は京都への撤退に成功した、とあります。

現在の地名でいえば滋賀県高島市あたりで、撤退ルートのほぼ中間地点です。

ここを通れたのは、松永久秀の説得によるものでした。

元綱はこの頃、浅井氏と多少の繋がりがあったため、織田方につくかどうかはわからない状況。

どっちに転んでもおかしくない中、松永久秀はたった一人で説き伏せて無事に信長を通したのですから、割と大事な功績なんですが……。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)
松永久秀の生涯|三好や信長の下で出世を果たした智将は梟雄にあらず

続きを見る

久秀の、この後の行い(謀反)を差し引かれたのか、信長公記にはそのあたりが全く書かれていません。

ちょっと久秀がかわいそうですね。

窮地を脱した信長は休むことなく、武藤友益から人質を取ってくるよう明智 光秀と丹羽 長秀に命じています。

武藤友益は、松宮清長や粟屋勝久と同様、若狭武田氏の重臣でした。

しかし二人と違って信長に反抗的な動きをしていたため、このような対応をしたと思われます。

実は、今回の出兵も、当初は武藤征伐が目的でした。

こちらは朝廷の意向でもあったようで、山科言継なども書き残しています。

友益は命令に応じて自分の母親を差し出し、彼の城は破却することにして、このときは丸く収めました。

 

人質を義昭に預けて岐阜へ帰還

◆5月6日 光秀と長秀が帰京し、友益の反応を報告。

この間と思われる時期に、近江の街道筋で織田家に対する一揆が起きていました。

おそらくは、浅井氏の影響でしょう。

こちらは、守山(滋賀県守山市)に配置されていた稲葉一鉄親子と斎藤利三が対応し、長引くことはありませんでした。

もしも一帯を塞がれてしまうと、信長は地元・岐阜へ帰ることができなくなりますから、大手柄ですね。

帰国ルートが確保できたため、信長は一度岐阜へ戻ることにしました。

そして大名・武将から取っていた人質をまとめて、将軍・足利義昭に預け、「京都で何かあれば、直ちに上洛いたします」と言い置いています。

これらの言動を素直に受け取るとすれば、この時点での信長は、義昭と完全に敵対するつもりはなかったのでしょうね。

でなければ、人質たちも一緒に岐阜へ連れて行くか、京都に置いている奉行たちに任せるか、そのどちらかにしたでしょうから。

 

浅井朝倉との敵対から泥沼の戦いへ

◆5月9日 信長、京都から岐阜へ出発。

途中の宇佐山(大津市)に森可成(よしなり)を残しました。森蘭丸や森長可の父親として知られる、織田家の重臣です。

◆5月12日 永原(野州市)に佐久間信盛、長光寺(近江八幡市)に柴田 勝家、安土(近江八幡市)に中川重政を配置し、南近江の備えとしました。

ちょうど琵琶湖の南岸に沿うような形で、信頼できる武将を配置したことになります。

こうして、何とか窮地を脱した信長。

尾張→美濃へと侵攻した後は、足利義昭を奉じて上洛や将軍就任など、トントン拍子でコトが進みましたが、隣接する浅井長政・朝倉義景を敵に回したことで、一気に戦線が泥沼化して参ります。

今日は勝てても一寸先は闇――。

尽きることのない戦闘の日々が始まったのです。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

金ヶ崎の退き口アイキャッチ
金ヶ崎の退き口|浅井長政に裏切られ絶体絶命の窮地に陥った信長や秀吉の撤退戦

続きを見る

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-浅井・朝倉家, 信長公記

右クリックのご使用はできません
目次