鎌倉時代の始まりは、武家政権の始まり。
平安時代までとは異なる、新しい役職や単語が出てきます。
最初は、文治元年(1185年)11月29日に勅許が下されることによりスタート(文治の勅許とも)。
ご存知、源頼朝の要請で設置されたものですが、守護と地頭が平行して語られるため「ドッチがどんな仕事をしているの?」なんて混乱したりしてません?
そこで本稿では、
『そもそも守護・地頭とはどんな役職なの?』
という点と併せて、設置までの経緯等も見てみたいと思います。
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守護=各都道府県に置かれた【警察の本部長】
まずは守護から。
現代に置き換えるとすれば、各都道府県に置かれた【警察の本部長】みたいな感じです。
国ごとに一人ずつ任命され、
・大番催促
・謀反人の逮捕
・殺人犯の逮捕
などを主な職務としていました。
「大番」とは、京や鎌倉の警備のことです。これを各地の御家人に任命して、現地へ行かせる役割ですね。
特に鎌倉の警備は御家人にとって当たり前のことですが、わざわざ守護の職務で「催促」とついているからには、行きたがらない者も少なくなかった。
領地が遠い場所にある者や、懐事情が厳しい者ならなおさらです。
「来月からオマエさん、鎌倉行きだけどダイジョブ?」
みたいな感じでは終わらなかったでしょう。
謀反人と殺人犯の逮捕は、言葉のまんまで、犯罪者の取締ですね。
この三つのオシゴトをまとめて
【大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)】
とも呼んでいました。
ただし、この用語自体は室町時代にできたものだという説が有力。
大番催促を外して傷害事件の犯人・夜討・強盗の逮捕を加えた「重犯五箇条」とするべきだという意見もあるとか。ややこしい(´・ω・`)
まあ、どっちにしろ「守護は各国に一人ずついて、警察の仕事をしていた」点は変わりません。
地頭=年貢の徴収と治安維持
次は地頭について。
荘園や公領など、国よりも小さい範囲ごとに一人ずつ設置されました。
職務は年貢の徴収と治安維持です。
実は、平家も似たような役職を作っていたようです。頼朝がそれを意識したかどうかは分かりませんが、効率的なシステムだったのでしょう。
各国に何人かいる地頭の中から守護が選ばれましたが、守護と地頭に直接の上下関係はなく、それぞれの任命権は幕府が持っておりました。
そのためトラブルもよく起きていたようです。
特に地頭のほうは直接年貢の徴収を行う者も多かったせいか「泣く子と地頭には勝てぬ」なんて言葉ができたくらいですからね。
当時の武士は、荒っぽい人も多かったでしょう。というか当時の武士は今の倫理観から見ると危険な人ばかりです。
むろん、普通に仕事をしていた地頭もいたはずですが、悪いイメージのほうが数倍・数十倍に感じたり、語られたりしますしね。
意外な決まり事としては【女性も地頭になれる】ことですかね。
この場合、徴収などに赴くわけではなく、責任者・権利者というところでしょうか。
ただし、女性が守護になることはできませんでした。
守護だと大番役の監督なども行うため、兵学の知識を得にくい女性では難しいと考えられたのかもしれません。
荘園領主たちとトラブルありがち
貴族の荘園などを直接管理する地頭には、自然と「土地」がらみのトラブルが増えていきました。
・地頭から守護に出されるはずの年貢が目減り
・権利を巡って荘園領主と衝突
特に後者はややこしい問題でした。
ヘタをすれば
武家(地頭)
vs
皇室・公家・寺社(荘園領主たち)
という紛争に発展しかねません。
そこで新しいシステムが考え出されます。
一つは【地頭請】です。
荘園領主が、年貢の回収と納入を地頭に任せるというものです。「請」の文字通り、実務を請け負うわけですね。
地頭は回収した年貢の中から、荘園領主の取り分を納入し、残った分から自分の分け前などを取りました。
地頭が誠実な人でないと成り立たないというデメリットもありますが、荘園領主とのパイプをきっかけに、何らかの便宜や見返りを受けた者もいたでしょう。
もう一つは【下地中分(したじちゅうぶん)】です。
権利だなんだと四の五の言わず、地頭と領主で荘園を半分ずつ分け、それぞれ自分で管理するというやり方です。こっちのほうがわかりやすいですね。
年貢=収入が半減することにもなりますが、回収は自分たちで行うため、一定の収入を確保できるのがメリット。より確実性を重視する人ならこっちを選ぶでしょう。
「和与中分」といって、荘園領主と地頭の話し合いで年貢や権利を平和的に分け合う方式もありましたが、マイナーだったようです。
まあ、直接収入に関係することですから、どっちもそう簡単には引き下がらないですよね。
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