歴史ドラマ映画レビュー

『SHOGUN 将軍』の歴史描写が日本をリスペクトし緻密で正確というのは本当か

エミー賞を受賞し、一躍日本で話題になった『SHOGUN 将軍』。

その特徴の一つとして「日本人の俳優が起用され、歴史考証もしっかり行われた」というものがあります。

世界一になったのだから間違いないだろう!

ようやく日本の歴史がリスペクトされて世界に知らされた!

と、そんな記事も目につく一方、同作品を見た日本人視聴者からは「キャラの名前が全然戦国武将っぽくないし、五大老五奉行も揃ってなくて(視聴を)続けられなかった」なんて声も聞こえてきます。

一応のところ『SHOGUN 将軍』の登場人物にはそれぞれモデルがいます。

しかし、それを把握しておいた方がよいのか?

というと、日本史知識に疎い海外の視聴者ならばともかく、日本の場合はむしろ忘れた方がよいかもしれません。

戦国末期を舞台とした大河ドラマを数作視聴したことがある。

あるいはそういったフィクションを読んだことがある。

学生時代に習った日本史知識が薄れていない。

この程度の知識があれば、十分把握できるでしょう。

むしろ歴史好きの方からすると、いちいち引っ掛かり、どうにも入り込めないのが『SHOGUN 将軍』という作品。

そういった海外の日本史ベース作品によくある事情から見てまいりましょう。

 


登場人物が削除だらけである

日本史ではなく中国史の例から入って申し訳ありませんが、ハリウッドが制作に関わった映画『レッドクリフ』をご存知でしょうか?

レッドクリフ(→amazon

三国志』で最も盛り上がる【赤壁の戦い】を描いた作品であり、その制作時にこんな話があったというのです。

「劉備と一緒に行動している男二人なんだけど、キャラが被るから一人カットしてもいいんじゃない?」

「男二人」とは、関羽と張飛のことです。

『三国志』ファンからすれば、どちらか一人をカットするなんてありえない! 何を考えているんだ! と、のけぞってしまうことでしょう。

しかし、歴史に何の思い入れもない、数字だけと向き合う制作者は、往々にしてそういうことを考えてしまうという例です。

『SHOGUN 将軍』の場合も、こうした考えのもとカットされたと思しき人物は数多く存在します。

アメリカの観客ならば引っ掛からなくとも、日本の観客からしてれみば欠席者だらけの会合を見せられたような気持ちになってしまいます。

そもそも『SHOGUN 将軍』では五大老と五奉行が全員揃っていないのです。

日本のフィクションで絶対そういうことがないとも言い切れませんが、全部で10話あって、本筋には関係ないお色気シーンが豊富のドラマとなると、どうにもバランスがおかしいように思えてくる。

問題は登場人物ではない。大事なのは当時の日本にあった価値観だろう。

そんな風な考え方もあるかもしれませんが、それもうまくはいきません。

 


「ロスト・イン・トランスレーション」の弊害

「ロスト・イン・トランスレーション」という言葉があります。

翻訳する中で、原語にあったニュアンスが消えてしまう現象のことで、日本語の場合、同じ漢字を用いる中国よりも、そうでない文化圏の方がより深刻なものとなります。

英語圏をターゲットにしている『SHOGUN 将軍』は、まさにこの弊害が大きい作品。

なまじ歴史が好きな日本の視聴者にとっては、砂を噛むような気持ちにさせられかねない。

『SHOGUN 将軍』を紹介する際、よく「日本の歴史を調べた」という触れ込みがありますが、私はネーミングセンスの時点で引っ掛かります。

たとえば「豊臣秀吉」を「中村秀俊」という、現代にもいそうな平凡な名前にしてしまうあたり、いかがなものでしょう。

漢字から伝わってくる豪奢な感覚が消え失せ、凡庸な印象を受けませんか?

さらには「淀の方」を「落葉の方」にするセンスもそう。そんな不吉で没落を予期するような名前をわざわざつけるものでしょうか。

これは登場人物の台詞にしてもそうなります。

本作に出てくる日本人は重々しく「日本の諺にはこうある」という前置きで、何かよくわからないことを言います。

これが非常に厄介。何をもとにしているかわからないし、そもそもそんな言葉はあったのか?と不明なことが多いのです。

そして漢籍引用をまずしません。

一応、書状にはあるというアリバイじみたコメントは読みましたが、果たしてどうなのやら。

中国史のみならず、日本史でも欠かせない漢籍の引用。

大河ドラマ『風林火山』の冒頭で、

大河ドラマ『風林火山』(→amazon

内野聖陽さんがこう読み上げるだけで、胸が高鳴なったファンも多かったことでしょう。

疾きこと風の如く

静かなること林の如く

侵略すること火の如く

動かざること山の如し

孫子』の一節ですね。

『孫子』は英訳が数種類ありますが、どうしても原文にあるニュアンスは抜けます。

そういう何かが抜け落ちた英訳をさらに和訳するようなことを繰り返していくと、原型もわからないシロモノができあがってゆきます。

『SHOGUN 将軍』で重々しく語られる警句だのことわざだのは、たいていがそういうシロモノです。

寿司という触れ込みのカリフォルニアロールは食べられるからよろしい。

しかし、このドラマの気取ったセリフは聞いているだけで背筋が寒くなってきます。

なお、この手の「東洋の“ゼン”にありそうな、なんちゃって格言もどき」は本作特有のものではありません。

苦笑しつつ受け止めるのであれば、それはそれで結構なことかと思います。

ところが『SHOGUN 将軍』は、日本人まで真顔で受け止めてしまっているのがどうにも心苦しい。

本作の考証担当者が「掛け軸等に漢籍引用が入っていて本格的だ」と語ってはいました。

確かに欧米目線からすれば、ものすごく努力した範疇に入るのでしょう。

しかし、全くもってなっていません。そこを指摘せずに褒めちぎるのはどうしたものでしょうか。

 


「ハロー効果」の悪用でそれらしく偽装している

大手新聞紙上において、本作の歴史考証担当者が「珍しい連歌の場面も入れた」と語っていました。

事前にそれを読んでいた私は、本当なのだろうかと楽しみにしていました。

確かにそれらしき場面がありました。

メインヒロインである毬子が茶室で、相手と上の句と下の句を分けた和歌を詠み合う場面です。

読んだのは二句だけであり、そのあと毬子は茶でもてなされていました。

連歌「会」とは到底言えない……。せいぜい茶室で歌を詠みあった程度の場面です。

本作の触れ込みである「考証をきちんとした」とは、所詮この程度なのか……と肩を落としてしまいました。

江戸時代以降のものと混同しないようにしたとも語られていますが、それも極めてあやしく感じます。

しかし、肩書きのシッカリした人物が、それらしく本作のことを語っているとなると、信じたくはなりませんか?

このような小手先の技法は、おなじみの手段です。

「ハロー効果」という用語もあります。立派な肩書きの人間がそれらしく語ったことは、信じたくなってしまうという普遍的な心理です。

思えばこの『SHOGUN 将軍』というドラマは徹頭徹尾それに満ちている気がしてなりません。

『SHOGUN 将軍』とは欧米でもよく知られた日本語で、これがタイトルの時点でエキゾチックで本格的なイメージがつきまといます。

豊臣秀吉の「TAIKO」とはインパクトが段違いといえる。

欧米のフィクションで「SHOGUN」がついたものを数えていけば、理解できることでしょう。

さらにエミー賞での快挙です。

日本のメディアでも絶賛ムードとなれば、眩さに幻惑される人は増えてゆく。

成功とはかくして生み出されます。

しかし、だからこそ、このドラマから歴史は学べません。むしろ有害といえるのではないでしょうか。

 

『SHOGUN 将軍』世界のミッシングピース

本作の原作小説は1975年刊行で、およそ半世紀前のことでした。

それだけ年数が隔たっているのであれば、歴史認識や社会情勢も当然変化しています。

歴史は完結したもので不変かというと、そんなことはありません。

『SHOGUN 将軍』は東西冷戦下の価値観や願望が反映された作品です。

半世紀も後になって、それをたどることがどれだけしょうもないか。改めて考える必要があります。

『SHOGUN 将軍』の世界観には、巨大なミッシングピースがあります。

そのカケラとは、16世紀末の世界で欠けていたものではなく、20世紀後半、西側世界で欠けていたもの、つまりは中国です。

16世紀末は明でした。

この明の欠落が、実に有害で、日本史知識にむしろ悪影響を与えるのではないでしょうか。

家康がモチーフである虎永たちは、ブラックソーンがもたらした大筒をみて、文明の光を目にした野蛮人のように恐れおののいていました。

それを見て、私は往年のハリウッドSF映画で、猿が文明の証に触れた場面を思い出しました。

実際の徳川家康が大筒を見てそこまで驚いたかどうか。

三浦按針の船が流れ着いた際、積荷に大筒があることを喜んだことは確かです。戦場で猛威をふるったことも確かです。

しかし、家康が大筒を知らなかったことはまずないと思われます。

家康が従軍した【朝鮮出兵】では、明軍の“仏郎機砲”が脅威として認識されていました。

存在を認識しているからこそ「おお、あれが我が手に入るのか!」と喜ぶほうが自然です。

そう考えてくると、あの野蛮人が大筒に驚く場面は、極めて意図的なものだと見えてきます。

明のフランキ砲(北京 首都博物館蔵)/wikipediaより引用

火縄銃にせよ、ポルトガル人による伝来ではなく、倭寇による伝来という説も有力です。

日本では火縄銃に用いる火薬を生産に限界があります。

輸入が必須。

となると貿易を行う倭寇としてはうまい話となるのです。

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