1870年(明治三年)9月4日は、ナポレオン3世が廃位させられた日です。
「廃位」とは穏やかならぬ雰囲気ですが、いったいどのような経緯でそうなったのか。
まずは苦労して帝位に就くまでの話から見て参りましょう。
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ナポレオン3世が誕生したころの近代フランス史とは
ナポレオン1世があまりにも有名かつ「英雄」のイメージが強いせいか。その甥っ子である3世は「ナポレオンってwww」みたいな評価が多いものです。
これはおそらく武力行使よりも政治の駆け引きのほうが向いていたからでしょう。
戦場を駆け回る武官タイプの方が、そりゃ派手ですもんね。
では、ナポレオン3世とはどんなタイプだったか?
さっそく生涯を……と行きたいところですが、この辺のフランス史は実にややこしいので、この時代の前後に何がどんな順番で起きたのかを先にマトメておきます。
【8行でざっくりマトメた近代フランス史】
①1789年 フランス革命
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②1792~1804年 第一共和政 この間、ルイ16世やマリー・アントワネットら処刑
↓
③1804~1814年 第一帝政 ナポレオン1世の時代
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④1814~1830年 復古王政 ブルボン家が一時的に復活
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⑤1830~1848年 七月革命→七月王政 ブルボン家の支流・オルレアン家が王様に
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⑥1848~1852年 二月革命→第二共和政 王政に幻滅した民衆がオルレアン家を追い出して移行
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⑦1852~1870年 第二帝政 ナポレオン3世の時代
↓
⑧1870~1940年 第三共和政
端折っても充分ややこしいですよね(´・ω・`)
とりあえず
・王政と共和制と帝政を行ったり来たりしていた
・最後には共和制になった
ところがポイントかと。
前置きが長くなりました。
いよいよナポレオン3世の生涯へと参りましょう。
ボナパルト家がパリにいるのは危険とされ
彼が生まれたのは、上記の通り、伯父の絶頂期の頃でした。
ただし、父親がナポレオン1世の弟であり、母親はジョゼフィーヌの娘だったため、彼の家庭環境はなかなか複雑です。
ジョゼフィーヌとは? ナポレオンが惚れて愛して別れてやっぱり愛した女
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伯父のナポレオン1世にはまだ跡継ぎがいなかったため、後に3世となる彼も皇帝一家の一員としてだけではなく、ナポレオンの兄弟たちに継ぐ第四皇位継承者として、それなりに期待されておりました。
しかし、伯父が失脚すると肩身の狭い生活を送ることになります。
このとき、ルイ18世(ルイ16世の弟)は一度はナポレオン3世たちを許しています。
それでもナポレオン1世の百日天下が終わると、
「ボナパルト家をパリにいさせるのは危険だ……」
と判断してか、亡命生活に追いやりました。
そんな中、母親の兄(3世からすれば母方の伯父)がバイエルン王女と結婚していたため、援助を受けることができたのが不幸中の幸い。
ナポレオン3世は、スイスやバイエルンを行ったり来たりする生活を送り、バイエルン王国の街・アウクスブルクに定住することになります。
このころは厳しい家庭教師がつき、朝6時~夜9時までという超スパルタ授業を受けていました。
こうした教育期間を過ごしてからは、ギムナジウム(ドイツの中高一貫校・大学進学を目指すための学校)へ通っていたと言います。
思春期のほとんどをドイツ語圏で過ごしたためか。
ナポレオン3世はフランス語をしゃべるときも、ドイツ語なまりになってしまっていたとか。
それを理由にナメられることもあったそうなので、家庭教師や境遇を恨んだこともあったでしょうね。
後継者の2世は結核を患わせてお亡くなり
こうした状況にもめげずに勉強に励み、心身ともに成長したナポレオン3世。
22歳のときスイス軍に入ります。
ときは七月革命の頃です。
王政が再び倒れたため、ボナパルティスト(ナポレオン1世をはじめとしたボナパルト家の信奉者)は「またボナパルト家に帝位についてもらおう!」と考え、その準備を始めます。
しかし、正当なナポレオン1世の後継者である息子(2世)はこの頃、既に結核にかかっていた上、ウィーンから出られない状態だったので、フランスに来ること自体がほぼ不可能でした。
息子と甥っ子が同時にいるのなら、息子が先に後継者を名乗るのが道理です。
そのため、ナポレオン3世はこの時点で、無理に「ナポレオンの後継」を名乗ることはせずにいます。
そのうちに世間では「次はオルレアン家の人に王様をやってもらおう」という流れになりました。
フランス王になったルイ・フィリップはボナパルティストの動きを察知していたらしく、王位につくやいなや「今後ボナパルト家のヤツはフランスに来ないように^^」(超訳)という法律を作ったのです。
帝政復活どころかフランスに入ることすらできなくなったナポレオン3世は、退かざるを得ませんでした。
その後はイタリアへ。
兄と共にイタリア統一運動に参加しています。
しかし、イタリアの一部を領していたオーストリア側に見つかって追われる身となり、兄はその途中で麻疹にかかって客死。
まさに「何をやってもダメ」な状態で、当人もさぞ気落ちしたことでしょう。
そこからしばらくの間、ナポレオン3世は文筆活動をしていました。
その中で「ナポレオン2世こそ、フランス皇帝になるべき」というようなことを書いていたのですが、当の本人は結核が治らずこの世を去ってしまいます。
2世の死でナポレオン3世が即座に後継者になるわけではありませんでしたが、なぜかナポレオン1世の兄・ジョゼフに皇位継承権を剥奪されています。
もともと継承順でいえばジョゼフのほうが上のはずなんですが、何がどうしてそうなった。
この親族会議がイギリスで行われたということもあり、ナポレオン3世は産業革命期に起きていた諸々の社会問題に関心を持ったようです。
支持者と共に反乱するも2時間で鎮圧される
それからしばらくして26歳のとき。
ナポレオン3世はヴィクトール・ド・ペルシニーという熱心なボナパルティストに出会いました。
ウマが合ったのか。
ナポレオン3世は彼とともに「ルイ・フィリップ王に対してクーデターを起こそう!」と考えます。
しかし、かなりの間フランスを離れていたナポレオン3世に、盲目的に従う人はほとんどおりません。
反乱は二時間程度で鎮圧され、ナポレオン3世自身も捕まって裁判にかけられます。
当初は「軍事政権を築こうとしたのではないか?」と思っていたルイ・フィリップも「なんだただのアホか(´・ω・`)」(※イメージです)と安堵し、ナポレオン3世をアメリカへの追放だけで済ませました。
ナポレオン3世には、以前から婚約していた女性がいたのですが、この一件によって破棄されています。
プライベート的には大打撃だったかもしれません。
海を隔てた遠国に追いやられて、開放感を満喫したせいか。
以降、ナポレオン3世は相当な浪費と放蕩をするようになります。
母の死に際してはスイスまで行き、看病するなどの優しい面もありましたが、それでいて母の遺産をロンドンで(しかもたった3年で)使い果たすという贅沢ぶりです。
一方、フランスではナポレオン1世に対するイメージがだいぶ変わり、再び人気が出てくるのでわからないものですね。政府もナポレオンの人気を利用して市民からの指示を取り付けようとし、イギリスと交渉してナポレオンの棺をフランスへ引き取っています。
結果、「ナポレオン1世は正当な君主である」と公式に認められ、ボナパルト家の人々への態度も軟化しました。
演説を誰も話を聞いてくれない→自殺騒ぎでタイーホ
これを好機と見たナポレオン3世一派は、再び蜂起を計画します。
場所はドーバー海峡に面したブローニュ=シュル=メールという町。
ここで大演説をして民衆の圧倒的支持を取り付け、政界に乗り出そうとしたのですが……世間の人が支持しているのは、あくまでナポレオン1世なのです。
「3世? 誰それ??」状態で、彼の話に耳を傾けてくれる人はほとんどいなかったようです。
ナポレオン3世は狼狽し、ここで自決すると言い張って一時大騒ぎになり、また捕まってしまいました。
何やってんのよ(´・ω・`)
各国の新聞でもこの珍事は酷評され、しかもルイ・フィリップ王から厳罰に処されてしまいます。
裁判では
「私は自分のためにフランス皇帝になろうとしているわけではないのです。みなさんもワーテルローでの敗北は覚えているでしょう。私はこの雪辱を果たすために来たのです」(意訳)
そんなナポレオン3世の主張に耳を傾ける者も多く、死刑は免れて終身刑となりました。
それから5年半ほど。
ナポレオン3世はアム要塞という場所で服役することになります。
手紙を出すことは許可されていますし、使用人の同行も許可。
他に世話役(意味深)の少女までいたといいますから、服役というより軟禁に近い状態だったようです。
本を取り寄せることも、文筆活動も認められていました。
著書の中で彼は、労働者の保護や政治のあり方などについて、自分の考えを述べています。
この本は数度増刷され、今までナポレオン3世の話に耳を傾けなかった人々に、「なんだいい奴じゃん」(超訳)というイメージを植え付けました。
ほんと世の中って何がどう転ぶかわかりませんね。
共和制政府に取り入ろうとするも帰国を許されず
手紙のやり取りができたおかげで、ナポレオン3世は
「チチキトク スグカエレ」(※イメージです)
の報を受け取ることもできました。
これを理由に仮出獄を申請するのですが、警戒したルイ・フィリップ王は認めません。
しかしこうした対応は、ルイ・フィリップ王が自らを【非常な王】とレッテル貼ってしまうようなものです。
「今際の際の父に会うために仮出獄を願い出たのに、許さなかった非情なやつだ」
というワケですね。
仮に、ナポレオン3世が父会いたさに脱獄したとしても、世間はそちらに味方するということにもなり……。
ナポレオン3世は「自分のお金で部屋を直したいのですが」と申請、部下に職人の服を用意させました。
部屋に出入りする職人に変装して、堂々と脱走しようというわけです。
ちょっとしたミスはありながら、彼は無事に要塞から脱出することに成功しました。
このことはやはり新聞に取り上げられ、同時にルイ・フィリップ王の非道を批判する声も高まりました。
もしかしたら、全てナポレオン3世の思うツボだったかもしれません。
結局、父の死に目には会えなかったのですが、ナポレオン3世は莫大な遺産を相続することに成功。
そして、またまたそれを使い果たしてしまいました。
その後は、愛人にお金を出してもらっています。
なぜ遺産を元手に仲間を集めようとか、軍を組織しようとか思わないのかが不思議でなりません。
彼は暴力的な手段をあまり好まなかったようなので、兵を集めないのはまあいいのですが……それにしても、ねえ。
そうこうしているうちに1848年。
ナポレオン3世がちょうど40歳になった年です。
フランスでは二月革命によってルイ・フィリップ王が追い出され、共和主義者によってより近代的な政府が作られました。
『自分の考えに合致する政府ができた!』と見たナポレオン3世は、共和制政府に「私も仲間に入れてくださいよ!」(超訳)とアピールします。
しかし「コイツは、また蜂起でもする気じゃないか?」と疑われて、すぐには帰国を許されません。
業を煮やしたペルシニーなどは武装蜂起を勧めますが、ナポレオン3世は首を横に振ります。
そりゃあ、二回も失敗していますからね。
「もし一時的にパリを占拠できても、一週間ももたないだろう」と言って、逸る人々を抑えておりました。
また、しばらくして選挙に出て当選した時も、周囲の動揺を悟って自ら辞職しました。
この辺の身の処し方からすると、政治感覚はそこそこあったと見ていいのではないでしょうか。
ようやく政権を握るもいきなり数百人の血が流れる
さて、この頃の共和制政府は主にブルジョワで構成されておりました。
それだけに一般民衆との軋轢が生まれていきます。
平たくいえば【政府vs一般人】という、またしてもフランス革命時のような構図が出来てしまったのです。
一時期は軍事独裁政権化するなど、時代が逆行したかのような状態にまで陥りました。
この混乱を好機と見たナポレオン3世は動き出します。
再び選挙に出馬&当選し、大手を振ってフランスへ帰国。
しかし、演説が下手な上にドイツ語なまりのフランス語でもあり、容姿や体格が優れているとも言いがたかったために方々からバカにされます。
ただ、そのおかげで、ナポレオン3世の追放を定めた法律が撤回されています。
これを計算してやってのけていたら、相当な演技派というかキレ者ですよね。
かくして第二共和政の一員となったナポレオン3世は、次は政府の代表になろうと考え、選挙の結果、74%という得票率で圧勝!
やはり「ナポレオン」の名は大きなものでした。
大統領当選後は「皇帝万歳」と言われることもあったそうですから、熱狂的な雰囲気だったのでしょう。
表向きは共和制支持を保ちながら、ナポレオン3世は今度も辛抱強く機を待ちました。
大統領の任期は四年で、連続再選はできません。
つまり、四年の間に自分の権力を絶対的なものにしなければなりません。
ジリジリと迫る時間と、議員たちとの闘いを続けていたナポレオン3世。
そんな彼らの元に
「ルイ・フィリップ王の孫をパリに迎え、今度こそ安定した王になってもらおう!と企んでいる輩がいる」
という噂が聞こえてきます。
もはや、これ以上は引き伸ばせない――そう悟ったナポレオン3世はついに動き出しました。
国内各地を巡って民衆の人気を取り付け、軍人を接待して取り込み、少しずつ帝政誕生の下地を作っていったのです。そして見事、自分の政敵を逮捕して、議会を意のままに動かせるようになりました。
ナポレオン3世はできるだけ死傷者を出さないようにするつもりでしたが、武器を持った人間が興奮すると、ほとんどの場合は血が流れるもの。
やはり数百人の死者が出てしまいました。
苦節44年 ようやく伯父と同じ場所に立てました。しかし……
ナポレオン3世は急いで武力行使をやめさせようとしました。
外から見れば「大勢の人を殺して政治の中枢に座った」と思われても仕方のないことです。
かくして絶対君主といっても過言ではないような立場になったナポレオン3世は、当初、皇帝になるつもりはありませんでした。
しかし、ペルシニーの工作によって、訪問先でたびたび「皇帝万歳」と呼ばれるようになった彼。
次第に「帝位につくのもいいかも」と思うようになります。
そして1852年11月、帝政の是非を問う国民投票で承認を受け、堂々と二人目にして最後のフランス皇帝となりました。
苦節44年。
やっと伯父と同じ場所に立ったナポレオン3世。
しかし、彼の苦難はこんなところでは終わりませんでした。
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