ナポレオン2世

ナポレオン2世/wikipediaより引用

フランス

ナポレオン2世の帝位はわずか2週間|親族に振り回されたフランソワの不遇

2025/07/21

1832年7月22日は、ナポレオン2世ことナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトの命日です。

かのナポレオン1世の息子ですが、21歳の若さ亡くなっています。

いったい彼に何が起きていたのか?

どんな生涯を辿ったのか?

ナポレオンというとやはりお父さんのほうが有名ですので、本記事では”フランソワ”で統一して進めてまいりましょう。

ナポレオン2世/wikipediaより引用

 


2人目の妻との間に生まれた息子

父ナポレオンが一気に登りつめて捕まって脱獄。

再び負けてセントヘレナ島で亡くなった(超略)ため、フランソワの存在はほとんど知られていません。

一応、帝位を継いで”2世”になってはいますが、彼の人生は、ほとんど母の実家ハプスブルク家の中でのことでした。

フランソワは、ナポレオンの二人目の妻マリア・ルイーザとの子供だったのです。

マリア・ルイーザ/wikipediaより引用

生まれてすぐ、フランスの支配下になっていたローマの王様に任じられたフランソワ。

もちろん名目上のことですが、ナポレオンがどれだけ男児の誕生を期待していたか?がわりますね。

しかし、その誕生翌年にナポレオンはロシア遠征で大失敗し、他の国から「今までの分を返してやんよ!」とばかりに対フランス同盟が組まれ、包囲網を敷かれてしまいました。

そしてナポレオンが同盟軍側に敗れてフランス皇帝から退位すると、フランソワもそのままでは済まされません。

ナポレオン/wikipediaより引用

ナポレオンの兄弟たちはフランスから追放されていたため、父方の親戚を頼ることはできず。

マリア・ルイーザとしては、息子と一緒にナポレオンが流されたエルバ島に行きたかったようですが、そもそも彼女の父であるオーストリア皇帝フランツ1世としては、娘を嫁がせたのも一時的な政略に過ぎない。

もはや、罪人として軟禁されている成り上がり者のもとへ行かせるなど、言語道断でした。

そこでフランソワは母と共にオーストリアで落ち着くことになります。

ここからがあまり気分の良くない話で、フランツ1世がアダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵という貴族にマリーを口説かせ、エルバ島に行きたくなくなるよう仕向けたといいます。

そんな強引な手段が取られたのは、フランツ1世がパルマ公国をマリーに治めさせたいと考えていたことも理由でした。

パルマ公国とはイタリア北部にあった国で、ナポレオンがイタリアを攻略した際にフランスへ併合されていたところ。そのナポレオンが失脚したため、新たな統治者が必要になっていたのです。

イタリアへの影響力を保ちたいフランツ1世が、娘を送り込むには絶好の土地だったのでした。

そしてマリーはナイペルク伯爵にすっかり惚れ込んでしまい、エルバ島に行くことなくパルマへ向かいました。しかも息子のフランソワを置き去りにして……。

オーストリア側の言い分としては

「ナポレオンとマリア・ルイーザの結婚はローマ教皇の許可を得ていないから無効であり、フランソワは私生児である」

という点もありました。

これにショックを受けたマリーが、その後フランソワにあまり会いたがらなかった理由のひとつかと思われます。

いずれにせよ、当時4歳のフランソワには何の責任もありません。

不遇な有名人の子供というと、ルイ17世を思い起こさせますが、まだフランソワのほうがマシな境遇でしょうか。

ルイ17世/wikipediaより引用

 


たった2週間の帝位

「息子をドイツの王子として教育したい」

そう考えたマリーは父帝フランツ1世に訴えて、その結果、フランソワはオーストリア宮廷で十分な教育を受けられるようになりました。

フランツ1世としても憎い敵の息子、だけど可愛い娘の子供でもある……ということで、ドイツ式教育を徹底。

この場合の「ドイツ」は「ドイツ語圏」とほぼ同じ意味で、オーストリアも含まれます。ややこしいですね。

フランツ1世/wikipediaより引用

フランソワに関しては「父方のイタリア風でもなく、父が君臨していたフランス風でもない教育をして、父親の痕跡を消す」というのが主眼だったと思われます。

結果、フランスからついてきていた側付きの人々は解雇され、代わりにドイツ人のディートリヒシュタイン伯爵が教育係になりました。

1815年のことです。この年、父ナポレオンはエルバ島を脱出しながら【ワーテルローの戦い】で敗北し、改めて皇帝から退位させられています。

退位の条件として「息子への譲位」が含まれていたため、フランソワは全く知らないうちにフランス皇帝の座を譲られていたことになります。

これも、もちろん名目上のこと。

フランスではすぐに王政復古期に入り、フランソワの帝位が否定されたため、書類上で2週間だけ。

フランツ1世としては、フランソワを取り込むため、彼が幼いうちにボヘミアやプファルツなどの領地を与え、生活が成り立つようにはしていました。

しかし、ドイツ風の爵位「ライヒシュタット公」も与え、帝位などさらさら認めるつもりはありません。

フランソワにとってはもうひとつ不幸なことに、母マリア・ルイーザが彼にあまり関心を持ちませんでした。

ナイペルク伯爵にすっかり惚れ込んでしまい、彼との間に子供も産んでいたからでしょうか。

フランソワとの面会の約束を破るわ、急かされても2年も待たせるわ。

とても実の親子とは思えない冷遇振りでした。

 

父、ナポレオンの死

フランソワは成長につれて父のことを意識するようになりました。

身近な人々に父についての質問を浴びせるようになったのです。

その中には当のフランツ1世もいたそうですから、周囲の人々はさぞ肝が冷えたことでしょう。

こっそり真相を話した人もいたらしく、いつしかフランソワは自分の父がどういう人間だったのか、どんな功績があったのかを知ることになります。

母と一緒にいられなかったこともあって、謎に包まれた父のことがいっそう気にかかったのかもしれません。

1821年5月5日にナポレオンが二度目の流刑先であるセントヘレナ島で亡くなると、その知らせは2ヶ月後にフランソワの元へ届けられました。

ついに対面が叶わなかったフランソワは、大粒の涙をこぼして悲しんだといいます。

「お祖父様や先生の言う事をよく聞いて頑張っていれば、いつか父に会えるかもしれない。せめて手紙だけでも許してもらえれば……」なんて思っていたのかもしれません。

以降の彼は「ナポレオン2世としてどうあるべきか」ということを主軸として、心身を鍛えようと考えるようになります。

一方その頃、フランスでは前述の通り王政復古してブルボン家の王様を迎えていたものの、その王様達が時計の針を戻すかのような政策を取り続け、民衆の反感を買っていました。

そしてナポレオン時代のことが神格化され、「ナポレオン2世を迎えよう!」と言い出す人も現れていたといいます。

こうなると、オーストリアはフランソワの扱いをより厳重にせざるを得ません。

母マリーのいるパルマ公国では独立運動が起き、民衆によって彼女が幽閉されたという知らせが届くと、フランソワは「母を助けにパルマへ行きたいのです!」と訴えます。

しかし、許可は降りません。

マリーとしてはパルマ公の座をフランソワに譲ってもいいと考えていたようですが、ここで当時のイタリアの事情が絡んできます。

 


従兄弟にあたる後のナポレオン3世と……

ナポレオンの登場以前、パルマ公国を含めたイタリアの北部はオーストリアの支配下にありました。

しかし時代の趨勢によって、イタリアの人々が独立運動を開始。

その中核となっていたカルボナリ党の中に、フランソワにとってはいとこにあたるルイ=ナポレオン(のちのナポレオン3世)がいました。

ナポレオン3世/wikipediaより引用

顔を合わせたこともない。されど血族同士の結束は団体行動を起こすには格好の絆となる。

ナポレオン1世への憧憬でフランソワとルイ=ナポレオンが共通の目標を持ち、固く手を結び、その上でさらにイタリアの民衆に担ぎ上げられたら……オーストリアは自らの手で次の敵を育てていたことになってしまいます。

とはいえ、フランソワはまだルイ=ナポレオンのことを知らない状態です。

自分の立場も理解できていた彼は、しばらくの間は真面目に勉強し、ヨーロッパ宮廷の共通語だったフランス語を身に着けるに留めました。

それ自体はフランツ1世の意向でもあったため、周囲から怪しまれてはいません。

しかし1826年の末頃から肺を病み、徐々に体調が悪化していきます。

1831年には目に見えて衰弱していたそうですが、フランソワは祖父に頼み込んで軍に入隊し、軍務に励みました。

「体を鍛えれば、病気なんて治るはず」と思っていたのか、父に恥じない姿になりたかったのか……。

それでもしばらくは持ちこたえたフランソワでしたが、1832年1月には軍務に就けない状態にまで悪化し、同年6月には、ついに危篤状態になってしまいました。

知らせを受けた母マリーが駆けつけるも、既にどうにもならない状態。

そして1832年7月22日、フランソワは不帰の客となったのでした。

フランソワがまだ若かったことと、政治的な経緯から「メッテルニヒが暗殺したのでは?」という説もありますが、それなら最初から育てなければいい話ですよね。

メッテルニヒ/wikipediaより引用

乳幼児の生存率がまだまだ高かった時代ですから、自然死に見せかけて子供を殺すなんて朝飯前だったはずです。

ですので、フランソワの死はおそらく陰謀によるものではなく病死かと思われます。

 

父と同じフランス廃兵院に改葬

フランソワには妻子がいなかったため、”3世”はナポレオン→フランソワの血筋ではなく、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオンが名乗りました。

もしもフランソワが長生きしていたら”3世”はフランソワの息子になり、その後のフランスの歴史も大きく変わっていたのでしょう。

また、フランソワが亡くなる直前にルイ=ナポレオンが手紙を送ったことがわかっています。

死の床にあることを知らずに連絡しようとしたらしいのですが、メッテルニヒによって握りつぶされ、フランソワには届きませんでした。

ルイ=ナポレオンはフランソワと手を組んでフランスに戻りたいと考えていたらしく、そういった内容だったので検閲に引っかかったようです。

ほんの少し流れが違っていれば、フランソワがオーストリアを脱出して”ナポレオン2世”としてフランスへ帰還し、ルイ=ナポレオンはその側近になっていたのかもしれませんね。

フランソワの棺はハプスブルク家の一員として、代々のオーストリア皇族が眠るカプツィーナー納骨堂に埋葬されました。

後に父と同じフランス廃兵院(オテル・ザ・アンヴァリッド)に改葬してもらえたのですが、それをやったのが……何はともあれ、今では父子で仲良く眠っていると思われます。

廃兵院を訪れたときには、父親だけでなく”2世”のことも思い出してあげると良さそうです。

バスティーユの襲撃前に「廃兵院」から武器を奪い去る群衆/wikipediaより引用

不遇で短い一生であったことから、フランソワに関する文物などは少ないのですが……ブランデーの等級のひとつ「ナポレオン」は、彼の誕生した1811年にぶどうが豊作だったためにつけられた、という説があります。

フランソワがその逸話を聞いていたら、ブランデーを飲みながら父の人柄や功績に思いを馳せたかもしれませんね。

ほかにもエルバ島時代のナポレオンに届けられたブランデーを盗み飲みしたイギリス兵士が「さすがナポレオンのブランデーだ」と称賛したからだとか、いろいろ説があるのですけれども。

ネルソンのラムといい、イギリス兵は酒を盗み飲みしすぎじゃないでしょうか。


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【参考】
『ナポレオン四代 二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち (中公新書)』(→amazon
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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