いきなり質問です。
織田信長の“城”といえば?
やはり多くの方が「安土城」とお答えになるでしょう。
琵琶湖を望む安土山に築かれた、地下1階・地上6階ともされる天主は、まさに天下人に相応しい荘厳な佇まい。
金色に輝く最上階、八角形の階層、狩野永徳らによる障壁画――その豪華さは信長の権力そのもののような建物です。
しかし、信長はなぜそこまで派手な城を造ったのでしょうか。

安土城/wikipediaより引用
見栄?
単なる趣味?
あるいは、天下人としての自己演出?
実は安土城は、ただ敵を防ぐための軍事施設ではなく、人を集め・見せ・驚かせ・従わせるための「巨大な舞台」だったと言えそうです。
安土城は「見せる城」だった
敵が攻めてきたら籠もる。
堀や土塁で守る。
山道を複雑にして、簡単には攻め込ませない。
戦国期バリバリの城というと、美濃の岐阜城や越後の春日山城、あるいは近江の小谷城など、比較的、山中にある山城をイメージされるかもしれません。

上杉謙信の居城として知られる春日山城
確かに城の防御力は、軍事拠点として最も重要な役割です。
しかし安土城はそれが一番ではない。
琵琶湖東岸に建てられたのは、東海道・中山道・北陸道のいずれからも近く、湖の水運も積極的に利用ができ、京都からも遠すぎず近すぎず――要は“政治的拠点”として非常に都合のよい要衝だったのです。
ゆえに、敵を防ぐ目的とは別に大事な役割がありました。
家臣などの武士だけでなく、京都の公家、あるいは諸外国からやってくる宣教師、全国の商人、そして近隣の庶民にまで、「信長の力」をその目で見せつけるための城でした。
権力を「見える化」させたんですね。
その目線から改めて安土城を見ていくと、派手さは単なる成金趣味ではなく、きちんとした意味が浮かんできます。
では、それは何だったのか?
金色の天主
安土城の象徴といえば、やはり天主でしょう。
前述のとおり、地下1階・地上6階ともされる五層七階の高層建築で、当時としては破格の規模。
最上階は金色に彩られ、内部には三皇五帝や孔子十哲など、中国古典に由来する画題が描かれていたとされます。

伊勢安土桃山文化村にある安土城のレプリカ
下の階は八角形で、朱塗りの柱や金箔の装飾があり、釈迦の説法図なども飾られていたとか。
仏教、儒教、道教、花鳥風月――安土城の内部はただ豪華なだけでなく、さまざまな思想や権威を思わせる意匠が詰め込まれていました。
むろん、今では当時の安土城を見ることはできません。
外観や内部構造についても、すべてが明かされているわけでもない。
それでも信長が、この天主を単なる住まいとして造ったとは考えにくいものがあります。
「これが織田信長だ!」
そんな風に権力を可視化したものであり、訪れた人々を驚かせる「天下人のショールーム」だったのではないでしょうか。
具体的な事例を見ていきましょう。
天皇を迎える空間も意識されていた?
安土城には、天皇の行幸を意識したと見られる空間がありました。
代表的なのが「御幸の間」です。
伝本丸の西側、天主台の南側にあったとされ、四方は金張付で飾り、格天井や格式ある畳を備えた豪華な部屋だったと考えられています。
その中には一段高い「皇居の間」もあり、京都御所の清涼殿を思わせる構造だったとか。
ただし、注意が必要です。
信長が本当に天皇の安土行幸を考えていたのか、「御幸の間」は実際の行幸に応じられる備えだったのか、研究者の間でも見方が分かれています。

正親町天皇/wikimedia commons
少なくとも信長が天皇や公家らを意識していたということでしょう。
自分の城に迎えることが実現すれば、安土城は朝廷を取り込む政治空間ということにもなり、城として凄まじい権威を有することになる。
金色の派手な城はただの飾りではなく、自身を「天下人」としてアピールするための舞台装置だったとも言えます。
左義長は京都御馬揃えの前座となる
安土城が「見せる城」だったことは、そこで行われたイベントからも見えてきます。
天正九年(1581年)正月十五日、織田信長は安土城下の馬場で、左義長にちなんだ派手な催しを行いました。
左義長とは、小正月に行われる火祭りのような行事です。

左義長(どんど焼き・鬼火焚き)
しかし信長の手掛けるものですから、普通の年中行事で終わるはずがありません。
御馬廻衆や近江衆などに派手な衣装や爆竹の準備を命じ、当日は付近一帯に爆音が鳴り響き、織田一族や家臣たちは着飾って馬場を駆け回りました。
信長自身も、黒い南蛮笠、赤色の頬当て、唐錦の羽織、虎皮の行縢という、かなり異風の姿で参加したとされます。
参列者たちは、さぞかし驚いたことでしょう。
この安土での催しが評判となり、正親町天皇や朝廷側から京都での馬揃え開催を求められたともされ、その結果、同年二月二十八日に行われたのが「京都御馬揃え」です。
京都御馬揃えとは、織田家臣団を勢揃いさせた軍事パレードです。
ただの行軍ではなく、京都の公家や朝廷に、織田政権の軍事力、財力、家臣団の厚みを見せつける場でした。
そう考えると、安土の左義長は、京都御馬揃えの前座、あるいは予行演習のような役割を持っていたともいえます。
安土城下で人々を驚かせ、京都でさらに朝廷を驚かせる。
信長は、催しそのものを政治的に用いていたとも言えるでしょう。
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京都御馬揃え|信長の家臣たちが勢揃いした軍事パレードは衣装もド派手だった
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宣教師を驚かせた安土城のライトアップ
織田信長は、日本人だけでなく、外国人にも「安土城」をアピールしました。
天正九年(1581年)七月、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが安土を離れる際、信長は彼らを数日間引き留めたとされます。
そして七月十五日の夜、大がかりな夜間演出を行いました。
現代風に言えば、ライトアップです。

もちろん電気などありません。
使われたのは、提灯や松明。
信長は家臣たちに、門前で迎え火や送り火を焚くことを禁じたともされます。
その代わりに安土城の天主や総見寺に無数の提灯を吊るさせ、城全体を浮かび上がらせたのです。
さらに家臣たちは松明を持って舟で琵琶湖へ漕ぎ出し、その明かりが湖面に映える演出まで行われました。
宣教師たちが驚いたのも無理はありません。
夜の闇に浮かぶ安土城。
湖面に揺れる松明。
天主や寺院を照らす無数の灯。
――見る者に強烈な印象を与えたはずです。
大事なのは、信長が宣教師たちを単なる客人としてもてなしただけではない点でしょう。
彼らはヨーロッパへ情報を伝える存在でもありました。信長がそこまで意識していたかは断定できませんが、安土城の威容が宣教師たちに強い印象を残したことは間違いないでしょう。
安土城は、国内向けの舞台であると同時に、海外へ向けた信長の権威の発信装置にもなり得ました。
正月の安土城見物と百文徴収
安土城の「見せる城」としての性格が最もよく表れているのが、天正十年(1582年)正月の出来事かもしれません。
正月一日、安土城には近隣の大名・小名や織田一族の者たちが年賀のために登城しました。
年始の挨拶自体は珍しいことではありません。
しかしこのとき信長は、来訪者に一人百文を持参するよう命じ、城内を見学させたと言います。
現代風に言えば、入場料付きの城内公開のようにも見えますが、実際は、年賀の礼銭と城内拝見を一体化させたイベントだったのでしょう。
面白いのは、その百文を信長自身が受け取ったとされることです。

織田信長/wikimedia commons
信長は御厩の入口に立ち、受け取った百文を後ろへ投げ入れながら、人々に御幸の間などを見せたといいます。
これはかなり象徴的な場面ではないでしょうか。
普段なら遠くから仰ぎ見るしかない信長が、自ら立って金を受け取り、そのうえで、豪華な天主や御殿、御幸の間を見せてくれる。
訪問者たちにとっては、確実に百文以上の価値があったはずです。
しかし人が集まりすぎたため、事故も起きました。
百々橋から総見寺へ向かう道で築垣が崩れ、死傷者が出てしまったのです。
それほど多くの人々が、安土城を見たがった。
そして信長もまた、見せようとした。
この一件は、安土城が単なる居城ではなく、人を集める政治的な劇場だったことをよく示しています。
相撲・接待・馬揃え――安土城は巨大イベント会場だった
安土城では、馬揃えや夜間演出だけでなく、相撲もたびたび行われました。
天正六年や天正八年などには、近江や京都から多数の相撲取りを呼び集め、時にそのイベント規模は千人超え。
勝者には知行や刀を与え、家臣として召し抱えることもありました。
これが単なる娯楽でないことは、もう説明せずともご理解いただけるでしょう。
人を集め、見物させ、優れた者を取り立てる――そこには信長の力と裁量を見せる意味がありました。
安土城には、津田宗及のような商人、ヴァリニャーノのような宣教師、徳川家康のような数多の有力者たちが訪れ、そのたびに天主や御殿、狩野永徳らの障壁画、黄金の装飾、名物茶器などが披露されたと考えられます。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ/wikimedia commons
「見せる」ことは、信長にとって重要な政治手段でした。
言葉で従わせるだけではない。
書状で命じるだけでもない。
圧倒的な建築、華やかな催し、豪華な接待を通じて、相手の心を取り込んでいく……安土城は最高の舞台だったのです。
★
本能寺の変後、ほどなくして安土城は焼失しました。
しかし今なお信長の狙いは生きていると思われませんか?
ほんのわずかな期間しか存在しなかったにもかかわらず、今なお日本史上最も有名な城の一つとして語られ、実際の天主はどんな状況だったのか?と我々の興味を刺激し続けています。
見ていない者にまで語らせる圧倒的な存在感。
やはり安土城は、信長が築いた戦国最大級のショーケースだったと言えるのではないでしょうか。
※大河ドラマ『豊臣兄弟』の最新関連記事については、こちらの「手取川の戦いで織田軍は本当に惨敗したのか?」をご覧ください
参考文献
- 新人物往来社編『特集 信長・秀吉・家康の城』(2012年6月 新人物往来社)
- 太田牛一・著/中川太古・訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 藤井讓治『天皇と天下人』(2011年5月 講談社)

