縦2.2メートル、横4.5メートル。
画面中央に大きく描かれた二頭の獅子が、悠然と歩む姿は威厳に満ち、風に靡く鬣や尾は、まるで黒い炎や湧きたつ入道雲のよう。
ご存知『唐獅子図屏風』であり、作者は狩野永徳(現在は皇室の所有)。
彼は、織田信長・豊臣秀吉という天下人に仕えたことでも知られますが、一体こんな壮大な世界を描く彼は何者で、どんな人物だったのか?
天正18年(1590年)9月14日はその命日。
本記事では、戦乱の世を絵筆一本で生き抜き、ついには「天下一の絵師」へと登りつめた狩野永徳、47年の生涯を振り返ります。
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「狩野家のホープ」9歳で将軍に拝謁する
狩野永徳は1543年1月13日、京で生まれました。
名は源四郎、諱は州信(くにのぶ)。一般に知られている「永徳」という名前は法号にあたります。
永徳の名が偉大すぎるせいか。
狩野家も彼から始まったイメージがあるかもしれませんが、違います。
狩野家は15世紀、8代将軍足利義政(銀閣を建てた人)に御用絵師として仕えた狩野正信にはじまる絵師の家系です。
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この血族を主軸とする絵師の専門家集団が「狩野派」と言います。
狩野家初代正信の曾孫で、4代目にあたる永徳は、つまりは血筋にも環境にも恵まれたサラブレッドだったのですね。
祖父に当る2代目元信からも、次代を担うホープとして可愛がられ、9歳の時には、彼に連れられて将軍・足利義輝にも拝謁しました。
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少年にとっては身がしまる思いだったでしょう。大人たちの中に交って、緊張すると同時に、彼らと同列に扱ってもらえることに誇らしさも感じたのではないでしょうか。
また、将軍の御用絵師になった曽祖父の話を思い出して、「いつかは自分も…」と、胸を膨らませていたかもしれませんね。
傑作『洛中洛外図』屏風の誕生
将軍拝謁の後も、順調に修行とキャリアを重ねていった永徳。23歳の時、ついに将軍義輝から、注文を受けます。
世に名高い『洛中洛外図屏風』(上杉本)。義輝は、越後の上杉謙信へ贈るつもりでした。
洛中洛外図とは、京の町の景観を上から見下ろすように描き出した【二隻一双】からなる屏風です。
祇園祭の山鉾巡行や、天皇の住まう内裏など。京ならではの風俗や名所が描きこまれた、絵による百科事典と言っても良いでしょう。
実際に、当時の生活風景やイベントなどがいくつか描かれておりまして。例を挙げますね。
こちらが闘鶏で
↓
こちらが祇園会の場面となります。
↓
全体に広がっている「金の霞」は【すやり霞】と呼ばれる日本伝統「やまと絵」の技法の一つです。画面を区切ったり、遠近感を出す役割を担っております。
何と言っても、特筆すべきは描きこまれた人数でしょう。
その数なんと2500人近く!
一人一人の大きさはわずか数センチメートルしかありません。想像するだけでも、目が痛くなりそうですね。
もちろんこれらを全て一人で描いていては日が暮れてしまいます。
永徳が基本的な構図や配置を考え、その指示のもと、門人たちが実際の作業にあたったと考えられています。
言い換えれば、この屏風に「当時の狩野派の全て」が結集されているのです。
残念ながら、義輝本人は、完成した屏風を見ることはできません。1565年、松永久通(松永久秀の息子)らに襲われ、壮絶な最期を遂げたのです。
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屏風が完成したのは、それから約3カ月後のこと。
事件から9年経った1574年、狩野派の新たなパトロンとなった織田信長により、改めて謙信へと贈られたのです。
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