本日は遠い昔、エラくなりつつある人に堂々と逆らった&しかもその後で気に入られたという、度胸ある人に注目。
嘉禎4年(1238年)9月14日は葛西清重という御家人が亡くなった日です。
命日から遡ること約50年も前の文治5年(1189年)、奥州総奉行に任命された武士であり、任じたのは源頼朝でした。
「奥州総奉行とはなんぞや?」
というテーマは以下の記事に譲り、
奥州総奉行を設置した頼朝の狙いとは? 鎮西奉行&京都守護と共に役割を確認
続きを見る
本稿では葛西清重の生涯などを見て参りましょう。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場こそしませんでしたが、なかなか重要なポジションにいた方です。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
葛西清重、かなり熱心に誘われて
葛西清重は、父が秩父氏の一族。
もとは武蔵国(現・東京都&埼玉県の一部)に領地を持っていました
清重は三男だったためか。
その一部である下総国葛西御厨(現・東京都葛飾区)を相続、現在も「葛西」と呼ばれている辺りですね。
彼らと頼朝との付き合いは、平家討伐のための挙兵をした頃からです。
【石橋山の戦い】で敗走した頼朝が、あらためて味方を募るため関東周辺の武士に書状を送ったことがありました。
その際、特に見込まれていたのが葛西家であり、かなり熱心に参戦を求められております。
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?
続きを見る
そして葛西氏も、諸々の事情ですぐには参陣できなかったものの一ヶ月ほどして合流しました。
ここでちょっとしたトラブルがおきます。
江戸重長
葛西家の親戚である江戸重長という人物が、【石橋山の戦い】では頼朝の敵方についていたため、なかなか源氏軍に加わらなかったのです。
頼朝が丁寧な手紙を出したにもかかわらず腰を上げない重長に次第に怒りは高まり、ついに清重らに討つよう命じました。
その後、情勢が変わり、結局、重長も源氏につきます。
が、頼朝の怒りは収まらず、江戸家の領地を取り上げて清重に与えようとします。
そこで清重が取った行動がカッコエエんですわ。
「一族を養うために戦をして領地を得るのに、親戚から分捕るのでは筋が通りません。どうしてもとおっしゃるのなら、他の方にどうぞ」(意訳)
とまぁ、真っ向から拒否したんですね。
頼朝は皇族である以仁王の命令によって兵を動かしていますので、それに逆らうとはなかなかの度胸ですから、頼朝はこれにも怒り、重長だけでなく清重の領地も取り上げようとしました。
しかし清重は、それでも江戸家の領地を受け取るとは言いません。
頼朝もついに根負けし、清重も重長も許した……とされています。
※続きは【次のページへ】をclick!