葛西清重

葛西清重/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

頼朝に逆らいながらも許された 名将・葛西清重は奥州総奉行に任ぜられる

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
葛西清重
をクリックお願いします。

 


「奥州総奉行」として東北の御家人を統率

短気なのか寛容なのか――頼朝には、よくわからんところがありますよね。

これより後の話ですが、北条政子静御前をかばったときも、その場で説得されてすぐ許していますし。

強引な相手に弱かったのか……と思いきや、義経と不仲だったこととかよくわからなくなります。“面と向かって言われる”と弱かったんですかね。

閑話休題。

時は流れ【富士川の戦い】や佐竹氏討伐の後、

富士川の戦い
富士川の戦いで水鳥は飛び立っていない?現実は武田信義軍vs平維盛軍だった?

続きを見る

佐竹義政
なぜ佐竹義政は広常に謀殺されたのか? 義光流源氏の佐竹が河内源氏の頼朝と対立

続きを見る

頼朝が清重の館に寄ったことがありました。

清重はこれを光栄と思い、丁重にもてなした後、妻を差し出したといいます。

頼朝はこの褒美として新たに武蔵国丸子荘(現・神奈川県川崎市)を与え、さらに自分の寝所の警備をする武士の一人に清重を選びました。

清重の奥さんはどんな気持ちだったんですかね……。北条政子にバレたらヤバそうですが(小並感)。

北条政子
北条政子はどうやって鎌倉幕府を支えたのか 尼将軍69年の生涯と実力を振り返る

続きを見る

ともかく、これで驕り高ぶらないのが、清重の出世の秘訣だったのかもしれません。

その後は頼朝の地味なほうの弟・源範頼に従って平氏討伐に参加、壇ノ浦の戦いの前に北条義時らと共に功績を賞されました。

平氏滅亡後も真面目に働き、奥州合戦奥州藤原氏討伐)では奮戦して胆沢郡・磐井郡(現・岩手県)と牡鹿郡(現・宮城県)を所領としてもらっています。

さらに「奥州総奉行」として東北の御家人統率を任されるなど、頼朝の信頼ぶりがうかがえますね。

源範頼
源範頼が殺害されるまでの哀しい経緯 “頼朝が討たれた”の誤報が最悪の結末へ

続きを見る

壇ノ浦の戦い
決戦 壇ノ浦の戦い!源氏vs平家の最終戦はどんな戦いでいかなる結末を迎えた?

続きを見る

北条義時
北条義時が頼朝を支え鎌倉幕府を立ち上げ 殺伐とした世で生き残った生涯62年

続きを見る

 


記録があまり残っていない

清重は他にも多くの権限を与えられており、奥州藤原氏の立ち位置をそっくり任されたような形になりました。

奥州藤原氏の遺臣が反乱を起こしたときも見事鎮圧し、これを機に関東へ戻っています。

藤原泰衡
奥州の藤原泰衡は頼朝に騙された愚将なのか?義経を討ち最後は家臣に裏切られ

続きを見る

そんなわけで、清重自身は奥州にあまり滞在しなかったのですが、彼の子孫と思われる葛西氏が後々ここに定着。

頼朝が亡くなった後はかつての戦友でもある北条家につき、宿老としての位置を固めました。

最後にもらった官職が壱岐守だったため、引退・出家の後は「壱岐入道定蓮」と呼ばれています。

これだけ頼朝や北条家と近い人なら、何かしら頼朝の死に関することを知っていそうですが、書き残したりはしなかったんですかね。

もっとも、葛西家自身の系図が複数あるくらいなので、記録することに大きな意義を感じない一族だったのかもしれません。ただ単に散逸した可能性もありましょう。

まぁ、いずれにせよ清重が竹を割ったような性格のメンタルイケメンだった、ということは間違いなさそうです。


あわせて読みたい関連記事

奥州総奉行
奥州総奉行を設置した頼朝の狙いとは? 鎮西奉行&京都守護と共に役割を確認

続きを見る

源頼朝
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?

続きを見る

富士川の戦い
富士川の戦いで水鳥は飛び立っていない?現実は武田信義軍vs平維盛軍だった?

続きを見る

コメントはFacebookへ

佐竹義政
なぜ佐竹義政は広常に謀殺されたのか? 義光流源氏の佐竹が河内源氏の頼朝と対立

続きを見る

源範頼
源範頼が殺害されるまでの哀しい経緯 “頼朝が討たれた”の誤報が最悪の結末へ

続きを見る

壇ノ浦の戦い
決戦 壇ノ浦の戦い!源氏vs平家の最終戦はどんな戦いでいかなる結末を迎えた?

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
日本史史料研究会『将軍・執権・連署: 鎌倉幕府権力を考える』(→amazon
日本史史料研究会/細川重男『鎌倉将軍・執権・連署列伝』(→amazon
葛西清重/Wikipedia
奥州総奉行/Wikipedia

TOPページへ


 



-源平・鎌倉・室町
-,

×