治承四年(1180年)10月20日は【富士川の戦い】が起きた日です。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第9回「決戦前夜」でも描かれたこの戦い。
「夜中に水鳥の羽音がバサバサバサ~! こりゃ大軍が来たか! と間違えた平維盛軍が我先にと戦場から逃げ出した」
という身も蓋もないエピソードで有名な一戦です。
ドラマでも演出たっぷりに水鳥の話が描かれていましたが、実際は何が起きていたのか?
史実における富士川の戦いを、前後も含めて振り返ってみましょう。
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大飢饉の真っ最中に追討軍を派兵させ
この頃まだ平清盛は健在。
そこへ挙兵したのがご存知のように源頼朝です。
関東の諸将を従えた源氏の棟梁を、放っておくわけがありません。
「あんのガキ、負け犬のくせに調子こきやがって! 恩知らずを叩きのめしてこい!!」
と、孫の平維盛(これもり)に命じて、追討軍を編成させました。
頼朝の挙兵に対して、追討軍を編成させられた平維盛も大変です。
なんせ当時の近畿地方は大飢饉の真っ最中。
兵どころか兵糧すらまともに集まらず、当然士気は上がりません。
しかも出立の日から副将・藤原忠清(ただきよ)と揉める始末で、「吉日じゃないので出立しません」とか、出発前から平家軍はグダグダ。
それでも何とか富士川まではやってきました。
もちろん意気揚々とはならず、現地に着いて早々数百人もの投降者を出す始末ですから平維盛も頭が痛かったことでしょう。
おまけにリーダーは、河内源氏の棟梁・源頼朝です。
石橋山の戦いで敗れながら、坂東武者たちを味方につけて勢い最高潮のまま、甲斐源氏・武田信義まで味方になっていました。
平家の信頼 地に落ちる
平維盛としても、さすがに勝つのは難しいと考えていたのではないでしょうか。
現代でもそうですが、戦場におけるヤル気=士気はかなり重要です。
時に兵の多寡(多い少ない)すら逆転するほどの威力を持つこともあります。
「僅かな兵で大軍を打ち破る」ことに成功した戦いは、士気において相手よりも圧倒的に勝っていることがほとんど。
富士川の戦いは各資料で記録が食い違っているため、どちらがどれだけの兵を率いていたのかはわかりませんが……。
※『平家物語』では頼朝軍185,000・『吾妻鏡』では頼朝軍200,000など、かなりの誇張が見られます
しかも富士川は日本三大急流にも数えられる、とても流れの早い川です。
秋も深まりつつある中、そこへ叩き落されでもしたら何人の兵が犠牲になるかもわかりません。
元々万全の状態には程遠い状態でしたし、損失の面から考えると、全軍撤退という選択はさほど悪くもないんじゃないかという気もします。
そんなときに源義光の血を引き、甲斐武田氏の初代となる武田信義が攻撃を仕掛けようと富士川に馬を乗り入れたところ、平家サイドは大混乱。
ここで水鳥が一斉に羽ばたき、それに慌てたかどうかはさておき、戦わずに逃げたことにより、平家軍は決定的に信頼を失ってしまいました。
脱走者が相次ぎ、維盛が京都へ着いたときには10人いるかいないかになっていたそうです。
元の人数がわからないので割合は計算できませんが、数千程度はいたでしょうから相当な減りっぷりにはまちがいないでしょう。
シンプルに見れば、富士川の戦いは
武田信義軍
vs
平維盛軍
の戦闘があり、敗北した平維盛が逃亡。
源頼朝が到着した時、すでに敵が居なかったから「水鳥の音に驚いて逃げ出した」なんてエピソードが生まれたのでは?という見方が史実のようです。
まぁ、そう考えた方がスンナリ入ってきますよね。
では、逃げた平家はその後どうなったか?
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