平維盛

平維盛/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

富士川の戦いで惨敗した平維盛はその後どうなった?平家敗北の戦犯か

2025/03/27

なぜ平家は頼朝たちに負けたのか?

大きなキッカケとなったのが【富士川の戦い】での敗戦でしょう。

水鳥の羽ばたく音に慌てふためき、自ら崩壊していったとされる平家ですが、このとき軍を率いていたのが平維盛(これもり)。

「光源氏の再来」とも称される平家の将で、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では濱正悟さん、アニメ『平家物語』では入野自由さんが演じられ、確かに高貴なオーラをまとっています。

しかし、ある意味、平家敗北の“戦犯“とも言えるわけで、富士川の戦いに敗れた平維盛はどうなったのか?

そもそも、なぜ選ばれたのか?

寿永3年(1184年)3月28日は維盛の命日。

本稿で、生涯を振り返ってみましょう。

平維盛/wikipediaより引用

 


平維盛は「光源氏の再来」

平維盛は平治元年(1159年)、父・平重盛のもとに生まれました。

重盛は、あの平清盛の嫡男。

平重盛/wikipediaより引用

つまり順当なら維盛は平清盛の嫡孫となりますが、母は出自が不明であり、庶長子(正室の生まれではない長男)であったとも考えられます。

実際、維盛の誕生2年後には、藤原家の母を持つ異母弟・平資盛(すけもり)が誕生しました。

これで後継争いではすっかり不利に……と思いきや、資盛は嘉応2年(1170年)に【殿下乗合事件】を引き起こしてしまいます。

車同士のすれちがいで揉め、暴力沙汰となったこの事件。

資盛が恥をかかされ、父親の重盛(あるいは清盛)が後で仕返し――という、なんとも締まらない内容で「平家悪行の始まり」と京の人々を嘆かせています。

そうした素行や資質を考慮して、嫡子は平維盛とされたのでしょう。

安元2年(1176年)3月4日のことです。

後白河法皇が五十歳を迎えるとき、桜と梅の枝を烏帽子に挿した維盛は「青海波」を舞いました。

その姿があまりに美しく、当時の日記に「まるで光源氏のようだ」と讃えられた維盛。

『源氏物語』第七帖「紅葉賀」では、光源氏と頭中将が「青海波」を舞う場面がありますが、おそらくそのシーンを連想させたのでしょう。

東洋における美しさとは、雰囲気や所作も含まれていて、現代人からすれば見た目の具体的な描写は少なく、想像がつきにくいものですが、ともかく優美だった。

そんな貴公子の美貌を曇らせる出来事が、わずか数年後に起こります。

治承3年(1179年)に父の平重盛が苦悩の末、病死したのです。

享年42。

気になる清盛の後継者は、叔父の平宗盛とされました。

 


以仁王と源頼政の挙兵を鎮圧

生前の平重盛は、父・清盛と後白河法皇の間をとりもつべく、苦労を重ねてきました。

父子は一致団結するどころか、同床異夢ともいえる状態であり、有力者と姻戚関係を結ぶこともできず、不安定な状態。

重盛の遺児である平維盛たちは、清盛や宗盛から厚遇されることもありません。

官位昇進を見ても、宗盛系と比較して重盛系が押しのけられた跡がみてとれます。

維盛の人生に影が差し始める……というか、この後、10年も経たないうちに平家の天下そのものが儚く潰えてしまいます。

始まりは治承4年(1180年)。

後白河法皇の皇子である以仁王が挙兵をします。

以仁王/wikipediaより引用

このとき討伐軍の大将軍に任じられたのが平維盛であり、叔父の平重衡らと共に宇治へ向かうと、足並み揃わぬ以仁王や源頼政らを鎮圧します。

若い平家の貴公子である維盛や重衡らには、伊東忠清という家人が付けられ、目を光らせていました。

忠清の役目は若者の勇み足をとどめること。しかし、この忠清の慎重さが仇となってしまいます。

同じく治承4年(1180年)8月のことです。

伊豆にいる源義朝の遺児・源頼朝が兵を挙げると、事態を楽観視していた平家は、現地の平家方・大庭景親らに頼朝討伐を任せました。

地元の有力者である大庭軍は【石橋山の戦い】で頼朝軍を撃破。

ところが負けてもしぶとい頼朝は、安房に渡ると多くの味方を得ていきます。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

同年9月5日――平家は追討軍派遣を決めました。

このとき総大将に任じられたのが平維盛だったのですが、いざい出立しようとすると、日にちが悪いと伊東忠清が主張し、月末まで延びてしまう。

維盛は美しく、絵にも描けぬほどだと語り残されていますが、前途は多難です。

天候不順による飢饉のため民は飢えていて「この飢饉も平氏のせいではないか?」と不満が横溢していて、味方につく者が次々に減ってゆく。

いくら天変地異だと説明したところで、平家が後白河法皇を冷遇し、遷都を強行し、この世の栄華を楽しんできたことを人々は知っており、源氏につくものが膨れあがっていくのです。

それでも維盛たちは、なんとかして駿河まで辿り着きました。

目前に迫る敵は、武田信義でした。

 

富士川の戦いで大敗

武田信義は曽祖父に源義光がいる。

源頼朝は曽祖父に源義家がいる。

この源義光源義家は兄弟。

つまり信義と頼朝は曽祖父が兄弟という血縁関係はあるのですが、始めから共闘していたわけではなく、頼朝の挙兵と鎌倉入りに呼応して共に平家軍を待ち構えていました。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き

一方、平維盛の軍は、思うように士気が上がりません。

前哨戦にあたる【鉢田の戦い】で惨敗すると、甲斐源氏の武田信義から居丈高な書状が届き、怒った伊東忠清は使者を斬り捨ててしまいます。

そして治承4年(1180年)10月18日――富士川を挟み、源平が向き合いました。

『平家物語』に記された7万の大軍勢とは明らかに大袈裟です。とても現実的な数字ではなく、戦場では、劣勢から脱落する者も出ていて、せいぜいが1~2千とされます。

それでも戦おうとする維盛に対し、伊東忠清は撤退を主張する有様で、肝心の兵士たちも一向に戦う気概がありません。

そうした最悪の雰囲気の中で、突然、バサバサバサッ!と大音量が鳴り響きます。

水鳥の羽ばたく音でした。

「敵襲だー!」

誤解した平家の軍勢が慌てふためき総崩れになると、維盛もわずか数騎で京都へ逃げ帰る――出陣時の綺羅びやかな姿は、もうそこには残されていません。

富士川と富士山

平家滅亡を予感させる大敗でした……が、この【富士川の戦い】、知名度の割に実態はよくわかっていません。

勝利をおさめた源氏側は『吾妻鏡』が頼朝の活躍を誇張しすぎており、ありえない場所にいたかのような記述も見られます。

敗北した平家にせよ、悲観的な論調で軟弱さが誇張され、果たして「水鳥の音」だけで撤退したのか、問題はそこではない可能性があります。

・そもそも戦うだけの軍勢が揃っていなかった

・士気や軍勢が明らかに不十分だった

そんな複合的な要素がからまっていて、水鳥に驚いた軟弱ぶりだけが敗因とも断定できないのです。

 


倶利伽羅峠でも大敗し

11月――数騎とともに京都に辿り着いた平維盛の姿は、平家失墜を知らしめるには十分でした。

激怒した清盛は、維盛の入京すら拒みます。

そしてその翌年の治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は高熱にうかされながら世を去りました。

高熱にうなされる平清盛(月岡芳年『平清盛炎焼病之図』)/wikipediaより引用

これを機に平家は総崩れ……とはならず、その直後に起きた墨俣川の戦い(3月10日)で平維盛は、頼朝の弟・義円を討ち取り勝利します。

そんな中、新たな強敵が北陸に現れておりました。

木曽義仲です。

この義仲を迎え撃つにあたり、飢饉のためろくに兵糧もなく、強引な取り立てをしながら、北陸へ向かう平家。

義仲との間に【倶利伽羅峠の戦い】が勃発します。

木曽義仲/wikipediaより引用

数では勝る平家でしたが、縦横無尽に急襲や夜襲をしかけられ、結局は敗北し、足並み乱れた軍勢は命からがら逃げ落ちることがやっとでした。

こうなっては後白河法皇にとって木曽義仲こそ救いの神です。

一方、惨敗を喫した平維盛は、一門内でも立場が悪化してゆきます。というより、騎虎の勢いの木曽義仲に追い詰められ、平家一門自体が都落ちする他ありません。

 

最期は謎の消え方

翌寿永3年(1184年)2月、平維盛の姿が、屋島の陣中から突如消えました。

彼は死んだという曖昧な噂が流れます。

あまりに突拍子もない話ですが、実際に姿を消していて、様々な憶測が飛び交います。

・念願通り出家を果たしたのち、那智において入水した

・隠れ住み、どこかで娘と恋に落ちるものの、もはやこれまでと世を儚み入水した

・入水ではなく、東下の最中に病没した

・いやいや、実は死んでいない

全国各地にある平家の落人伝説。

突如として消えてしまった維盛には墓すらなく、供養碑が残りました。

ワケがわからないかもしれまんが、ともかく「謎」というのが平維盛の最期なのです。

「光源氏の再来」といわれた貴公子は、皮肉にもその消え方までもが似ています。

なぜなら光源氏も、その死を描かれることはなく、ふっと消えるように、宇治十帖へ物語は移ります。そしてその中で、光源氏のその後が語られていくのです。

維盛のみならず、平氏の人物は入水することが多い。

敵に捕らえられ、斬首される酷い死を避けたいという思いからとされますが、いざ入水しても、人体はそう簡単には沈みません。

特に女性の装束は浮き上がり、救出される人も多いです。

切腹の手順が成立するのはこれよりずっと先のこと。

平安末期を生きた平家の貴公子・維盛は、儚く水の中に消えてしまったような最期を迎えたのでした。


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【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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