文治2年(1186年)3月9日は武田信義の命日です。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で八嶋智人(やしまのりと)さんが演じたこの武将。
名字から察するように甲斐源氏の系統である初代甲斐武田氏であり、あの武田信玄のご先祖様にあたる人物です。
そうなると、色々と疑問が湧いてきませんでしょうか。
・甲斐源氏はどこで枝分かれした?
・源頼朝との関係は良好だったのか?
・鎌倉幕府の成立には関わっている?
と、掘れば掘るほど何かが出てきそうな武田信義。
前述のように文治2年(1186年)に亡くなっているため、頼朝の将軍就任(1192年)は目にしていません。
では、それまで、どんな生涯を過ごしたか?
史実から振り返ってみましょう。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き
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新羅三郎に遡る武田信義の出自
武田信義はどのような出自なのか?
信義を輩出した甲斐源氏は、源頼朝たちの家である河内源氏から枝分かれした一派。
その河内源氏も、元はと言えば清和源氏から出た一派であり、ざっくりと系図をまとめると、以下のようになります。
清和天皇
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貞純親王
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源経基(経基王)
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源満仲
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源頼信
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源頼義
と続き、ここから
・源頼朝
・足利氏
・武田氏
の系統へ枝分かれします。
図で確認しましょう。
いかがでしょう?
“八幡太郎”として名高い、武士の中の武士・源義家。
その義家を補佐し、これまた武名高い“新羅三郎”こと源義光。
二人は【後三年の役】で活躍したことでも知られる河内源氏の兄弟で、彼等の子孫たちが分かれていきます。
ただし、源義家と源義光の二人は、だいぶ前の時代(1030~1040年代)に生まれてますので、源頼朝と武田信義の関係は
「半世紀ぐらい前に別の家になった、ちょっと遠い親戚」
といった感じですかね。
双子だった信義
甲斐源氏の祖となった源義光は、芸達者な武将であり、弓馬はもちろんのこと、音楽なども得意としていたとか。

源義光像(摂津国寿命寺蔵)/wikipediaより引用
甲斐守に任じられたことや、元々は常陸国の武田郷にいた二代目・源義清が甲斐の市河荘に移住して勢力を広げたため、この系統は「甲斐源氏」と呼ばれることになりました。
そのうち初代の甲斐武田氏とされるのが武田信義で、頼朝たちの家である河内源氏とは、また違った形で東国に根付いた一族というわけですね。
ではなぜ彼等が、甲斐で勢力を安定させることができたか?
というと、このエリアに皇室や摂関家の荘園が数多く存在していたことが挙げられます。
荘園の警護や税の運搬を通して、東国にいながら上方との繋がりを保ち続けていたようです。
いわば「没落しなかった源氏」とでも言いましょうか。
そうした経緯と力のある家で、武田信義は大治3年(1128年)8月15日に生まれました。
信義は、当時としては珍しく、双子として生まれ、二人とも育ち上がったという記録が残っています。
双子の兄弟は逸見光長(へんみ みつなが)という人物。
信義が保延六年(1140年)、13歳で武田八幡宮にて元服したとされているため、光長もおそらく同じ頃に元服したことでしょう。
信義たちが壮年に差し掛かった頃に【保元の乱(1156年)】や【平治の乱(1160年)】が起きていますが、甲斐源氏はこの期間に目立った動きを見せていません。

保元・平治の乱合戦図屏風/wikipediaより引用
上方での戦に意義を感じなかったのか、政争に興味がなかったのか……理由は定かではありません。
しかしこれにより、甲斐源氏は力を保つことができ、後に源頼朝から睨まれる遠因ともなりました。
木曽義仲の挙兵とニアミス
甲斐源氏が再び記録に登場するのは、治承四年(1180年)のこと。
平家打倒を計画した以仁王の令旨を受け取ってからです。
例によってこの時代には公的な記録が存在しないため、武田信義がいつ令旨を受け取ったのか、具体的な日付は明らかになっていません。
しかし、源頼朝が【石橋山の戦い】で敗れた後、平家方の大庭軍と信義軍が波志田山で戦っているため、おそらく頼朝とほぼ同時に挙兵したものと思われます。
石橋山で頼朝とはぐれた(別れた)者のうち、甲斐源氏軍と合流した者もいたようです。
9月には諏訪に攻め込み、順調に近場を固めて後顧の憂いを断っています。
この間、近い場所から挙兵した木曾義仲(源義仲)と衝突しなかったことは、幸運だったかもしれません。いろいろな意味で。
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なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?頼朝との違いは?
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義仲は9月頃から本格的に動き出し、西上野に進出した後、横田河原の戦いを経て北陸道に進出したため、信義とはいい感じに場所もタイミングもずれていました。
ぶつかっていたら……なかなか面倒なことになってそうです。
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