寿永二年(1183年)閏11月18日、源義仲(木曽義仲)が法住寺殿という後白河法皇の御所に攻め込みました。
【法住寺合戦】と呼ばれる戦いです。
「源氏は、法皇から命令されて平家と戦ったんじゃないの?」とツッコミたくなるかもしれませんが、そこは大天狗こと後白河法皇の老獪すぎる政治外交力を忘れてはいけません。
振り回されるようにして行ったり来たりの義仲はついにブチ切れ、単に攻め込むだけでなく、後白河法皇を幽閉するという驚きの展開へ発展するのです。
義仲は、名門源氏の出自とはいえ、一介の武士が最高権力者を捕らえるなど、さすがにレアケース。
一体何がどうしてそうなったのか?
当時の状況を確認しながら進めて参りましょう。
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逃げる幼君 残る大天狗
源氏と平家の戦いが始まり、前者優勢の色が濃くなってきた頃。
平家では大黒柱だった平清盛が亡くなってカオスな状態に陥ります。
そしてとりあえず「陛下(安徳天皇)をお連れして西国へ逃げよう!」ということになったのですが、幼い安徳天皇は従っても、当時実権を握っていた大天狗・後白河法皇は京都に残り続けました。
安徳天皇は清盛の孫だったので平家が保護するのはある意味当然です。
一方、大天狗は「貴様らの言いなりにはならん!」と示したことになります。
権力は法皇にありますので、当然、他の貴族たちもほとんどが京都に残りました。
しかし都の中にいてはいつ源氏が攻めてくるとも知れず、危険だということで一時比叡山へ避難しています。
自分のことばっか考えてるから人気ないんですよね、この人。
大量の兵士が流れ込み飢饉は悪化
その後、平家がすっかり都から出て行ったタイミングで源義仲(木曽義仲)達が京都へやってきました。
平家がいないのですからとりあえず京都で市街戦が起こる可能性はぐっと低くなり、天狗たちも戻ってきます。
そして「源氏の諸君ご苦労。けしからん平家を討て!」という命令が下りました。
ついでに都の警察機能も源氏側の人々に委任されます。
二年前に【養和の飢饉】が起きており、平家の圧政もあって治安が大幅に悪化していたからです。
なんだか江戸時代末期と似ているような……。
しかし、元々食料が足りないところへ大量の兵がやってきたのですから、食糧難はさらに悪化。
しかもこの時代のことですから軍律という概念が浸透していたともいい難く、取り締まるはずの源氏軍の中から市民へ狼藉を働く者が出始めました。
当然のことながら、天狗にがっつり怒られました。
特に義仲は源氏軍の中でも治安回復を担当していただけに、こっぴどくお叱りを受けます。
それでも義仲はうまく部下を鎮めることができず、京都の荒廃は続くのでした。
今すぐ平家をぶっ飛ばしてこい!
見るに見かねた後白河法皇は、義仲へ「警察をやれないなら今すぐ平家をぶっ飛ばしてこい!!」(超訳)と厳命します。
義仲も慣れない仕事よりは武働きのほうがまだ可能性があると考え、急いで平家の後を追って西へ向かいました。
タイミングの悪いことに、ここで関東から源頼朝の働きを知らせる使者が戻ってきました。
頼朝はこの頃、平家が分捕っていたあちこちの荘園(皇族・貴族や寺社の持っていた領地)を取り返すという働きをしており、当然のことながら大天狗以下朝廷は大喜び。
「よーし頼朝にはご褒美あげちゃうぞ!」
ということで、幼い頃に取り上げられていた位を頼朝に返した上、東国の支配権まで認めるという太っ腹ぶりを見せました。
ただし、この時点では義仲の勢力圏だった北陸から上野(現・群馬県)と信濃(現・長野県)はそのままにしており、頼朝に対しても「お前ら仲悪いらしいけど、領地もちゃんと保障してやるから仲直りしろよな」(超訳)と命じています。
結局これもうまく行かなかったのですが。
京都を出た義仲は追撃戦で負けてしまい、またしても苦境に立たされます。
しかも、頼朝の命令で「源義経と中原親能が大軍を率いて上洛する」という情報が届いたため、お株を奪われると勘違いした義仲は、側近のみを連れて急いで京都へ戻ってきました。
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