織田家

織田信長の側室たち|嫡男を産んだ吉乃、磔にされた坂氏、才色兼備のお鍋の方

織田信長にはどんな側室がいたのか?

大河ドラマ『豊臣兄弟』では常に妹・お市の方が側に居て何やら不自然な印象を受けますが、信長には正室・帰蝶(濃姫)の他に複数の側室がいて、彼女たちが嫡男の織田信忠やその他きょうだいを産んでいます。

信長の側室事情を見てまいりましょう。

 

生駒吉乃:信忠や信雄の母

生駒吉乃は「信長の実質的な正室」とされることが多い女性です。

しかし、出自や出産については諸史料で食い違いがあり、実情は不明。

織田信忠・織田信雄・徳姫(五徳)の母とされていますが、このうち吉乃が産んだことが確定しているのは次男の信雄だけです。

生まれながらに嫡子だった信忠の生母がわからないというのも不思議な話であります。

ただし、成長後の信忠が、信雄に宛てて親密な雰囲気の手紙を書いていたり、その中で「詳しくは直接話そう」と記したりしていいて、三男の織田信孝とは異なる関係性が浮かびます。

少なくとも信忠と信雄は幼い頃から身近な場所で育っていたのではないでしょうか。

織田信雄の肖像画

織田信雄/wikipediaより引用

吉乃の生年についても、信長より年上の享禄元年(1528年)生まれという説がありながら、確定とはされておらず。

没年は永禄九年(1566年)とされ、徳姫が永禄二年(1559年)生まれなので、吉乃が生母でも矛盾はなさそうですね。

名前の読みについても「よしの」「きつの」と二説あります。

さらに実名は「お類」という説もあり、何から何まで不明瞭です。

父は生駒家宗、兄が生駒家長とされますが、親族とされる生駒親正が信長の生前にほとんど取り立てられていないことなどから疑問が残ります。

ぶっちゃけると「有名なのに、信雄の生母であることと、没年以外は全くわからない」というのが吉乃に関する情報といっても過言ではありません。

他に確実なのは、吉乃の墓が生駒家墓所として現代まで守られていることくらいでしょう。

もともと久昌寺(江南市)の敷地内にあり、同寺が老朽化により取り壊されたため、現在ではお墓だけが残っているのだとか。

周辺にお堂を建て、引き続き保管する計画もあるようです。

クラウドファンディングで呼びかければ、資金が一気に集まり話が進むかもしれませんね。

 


坂氏:信孝の母

織田信長の三男・織田信孝の母です。

「坂氏が、吉乃よりも身分が低かったため、本当は信雄よりも信孝のほうが先に生まれていたにもかかわらず、三男とされた」という説があります。

織田信孝(神戸信孝像)/wikipediaより引用

彼女もまた出自は不明。

本能寺の変直後の6月末に坂氏個人へ朝廷から紙が下賜されたり、『兼見卿記』や『お湯殿の上の日記』に「三七(信孝の幼名)母」として記載されたり、朝廷や公家との接点は浮かんではきます。

わずかんがら公家社会に彼女の記録が散発していることから、坂氏はあまり身分の高くない公家の出身か、公家に仕えていた女性だったのでは?

信長の三男となる信孝を出産したのが永禄元年(1558年)。

つまり、その前年である弘治三年(1557年)までには織田家へ来て、信長との関係を持たれたのでしょう。

当時の信長は、かなりの苦境にありました。

前年の弘治二年(1556年)に長良川の戦いで舅の斎藤道三が討死し、実弟の織田信勝(信行)に謀反を起こす予兆あり。

また、弘治三年(1557年)は後奈良天皇が崩御した年でもあります。

信長との関わりが強い正親町天皇の先代にして父親だった天皇で、当時の朝廷があまりにも窮乏していたため、即位式すらなかなかできませんでした。

それを信長の父である織田信秀を筆頭に、各地の大名が献金したおかげでなんとか済ませるも、永禄十二年(1569年)には十三回忌法要の費用がなく、公家の山科言継が徳川家や織田家に協力を求めるため直接交渉を行っています。

皇室でさえその有様ですから、公家の困窮は想像に難くないでしょう。

だからこそ坂氏もそうした経緯で織田家に来て、まだ子供が信忠しかおらず男児を望んでいた信長の目に留まり、側室になった……そんな流れだったのかもしれません。

坂氏の最期は悲惨なものでした。

本能寺の変の後、織田信孝が豊臣秀吉と対立し、一度降伏した際に人質として秀吉に囚われてしまったのです。

そして翌天正十一年(1583年)4月、信孝が柴田勝家に呼応して再挙兵したため、坂氏は磔にされて殺されたとされます。

同年4月末に信孝も自害させられており、信孝には子供がいなかったといわれているため、坂氏の血は残っていません。

 

お鍋の方(興雲院):才色兼備の女性

信長の八男・織田信吉と振姫の生母です。

他に七男・織田信高を産んだとする説があります。

子供を産んだ回数からすると、吉乃と並んで信長の寵愛が深かったようで、才色兼備の女性だったのでは?と目されています。

彼女は信長が初婚ではなく、もともとは近江八尾山城主・小倉実房(実澄)の妻だったとされ、その時期にも二回出産しており、子供に恵まれやすい体質だったのでしょう。

実房が蒲生定秀に滅ぼされたため信長の側室になりました。

前夫との間にできた松千代は信長の小姓になったらしく、本能寺で死出の伴を務めたとされています。

また、お鍋の方が才色兼備と考えられる理由として、この時代の女性には珍しく、自ら筆を執ったとされる公文書が残っているのが大きな特徴です。

一つは本能寺の変直後、6月6日に美濃の崇福寺(岐阜市)へ出したもので、以下のような内容。

「このお寺を信長様の位牌所にするので、不届き者が立ち入ろうとした際には断りなさい。そのために一筆申し上げます」

もう一通は翌天正十一年(1583年)に、丹羽長秀に対して出されたもので、亡夫の供養に専念する様子が見て取れます。

「崇福寺は信長様と信忠公の菩提寺なので、放火や乱暴を禁じる札を掲げ、不届き者を敷地内に入れないようにしてください」

これほどの実権を持っていたことから、お鍋の方が「本能寺の変当時の実質的な正室だったでは?」とする見方もあります。

なぜなら濃姫の没年が全くわからないためです。

濃姫(帰蝶)

清洲城・模擬天守の横にある濃姫(帰蝶)像

注目は天正十五年(1587年)頃の『織田信雄分限帳』に記された“化粧料”です。

その中に「安土殿」とされる女性に600貫文の知行が与えられていたことが記されており、濃姫が生きていたら安土殿=濃姫と考えるのが妥当。

仮に、濃姫が亡くなっていて、お鍋の方が信長の実質的な正室扱いだったなら、この「安土殿」はお鍋の方だということになるでしょう。

しかし、お鍋の方は、秀吉の庇護を受け、近江に500石の化粧料を与えられています。

もしも彼女が信雄に庇護されていたら、秀吉からの化粧料は与えられなかったのではないでしょうか。

あるいはお鍋の方の長男・甚五郎が天正十一年(1583年)に加賀松任城主に任じられたという説もあり、彼女が豊臣政権での地位を確立させていたことも浮かんできます。

実際に、どんな役割を果たしていたのか不明ですが、秀吉の正室・ねねの側近だったとか、松の丸殿(信長の娘で秀吉の側室)の侍女だったという説があります。

いずれにせよ豊臣政権との関係が深く、お鍋の方が才色兼備な女性だったのは間違いないのでしょう。

出自は土豪の娘ということになっていますが、前述の手紙の件をはじめ、ある程度、武家の慣習に馴染んでいる感があり、武家出身のようにもみえます。

しかし、後半生においては、なかなか苦労を強いられました。

息子の信吉が関ヶ原の戦いで西軍についたため、秀吉から認められていた化粧料を取り上げられてしまったのです。

その後は、淀殿の意向を受けた豊臣秀頼や、北政所(ねね)から少しずつ支援を受け、晩年は京都で過ごしたとされます。

公家との交流もあったそうなので、その家を通してどこかの武家からも支援を得られたかもしれませんし、旧織田家臣から何かしら援助があったかもしれません。

慶長十七年(1612年)6月25日に亡くなり、信長の菩提寺である総見院に葬られました。

 

養観院:於次秀勝の生母

四男・於次秀勝の生母です。

羽柴秀吉の養子となったことで知られる於次秀勝ですね。

また、蒲生氏郷の正室となった相応院(俗称・冬姫)も養観院が産んだという説があります。二人の墓が知恩院の同じ塔頭にあるためです。

秀勝が永禄十一年(1568年)生まれなので、それ以前に信長の側室になったのでしょう。

天正四年(1576年)に秀勝が秀吉の養子となり、本能寺の変後は丹波亀山城(亀山市)の主となったため、養観院も亀山に移ったようで。

天正十一年(1583年)に「養観院が吉田兼見に病気平癒の祈祷を複数回頼んできていた」と『兼見卿記』に書かれており、養観院が近江坂本城(大津市)にいた秀吉のもとへ出向いて、秀勝の病状を伝えたこともありました。

秀勝はまだ結婚していなかったので、体調や私生活のサポートは養観院が担っていたのでしょうか。

しかし秀勝は一時回復するも、天正十三年(1585年)12月に亡くなってしまいます。

その後、養観院は出家し、京都で信長や秀勝の菩提を弔って余生を過ごしたとみられます。

秀勝は亡くなる前年に毛利輝元の養女と結婚しており、その縁で養観院と輝元はたびたび連絡していたようです。

養観院は生没年ともに不明ながら、天正十六年(1588年)8月21日付けの手紙があるため、少なくともここまでは存命でした。

仮に、秀勝を産んだ永禄十一年当時が15歳前後だったとすると、もう少し長生きしていた可能性もありますね。

 


慈徳院:三の丸殿の生母

秀吉の側室となった三の丸殿の生母とされる人です。

彼女も本名と生没年は不明。

出自は滝川一益の親族、あるいは娘とされます。といっても滝川一益自身の素性も不詳なのが歯がゆいところです。

滝川一益の肖像画

滝川一益/wikipediaより引用

慈徳院は信忠の乳母を務めたことにより、信長の目に留まって側室になったとされます。

三の丸殿を産んだこと以外の足跡は定かではありませんが、慈徳院の兄が妙心寺の五十六代住持・九天宗瑞とされ、本能寺の変後、信忠の戒名を冠した「大雲院」が妙心寺内に建てられました。

これは後に一益が建てた長興院と合併されたため、現代ではこちらの名で残っています。

余談ですが、京都市東山区祇園町には信長・信忠の供養のため正親町天皇の勅命によって建てられた同名の単独寺院が存在します。

妙心寺は右京区花園妙心寺町ですので、観光に行かれる際はご注意ください。

 

御ツマキ:光秀妻 妻木氏の縁者?

明智光秀の正室・妻木氏の縁者と思われる人です。

御ツマキは興福寺と東大寺のちょっとした諍いの取次を務めたことがあり、側室というより女官のような働きをしていました。

文書によって”御ツマ木”や”爪木殿”、”妻木”などの表記ゆれがあります。

『多聞院日記』に「御ツマキは天正9年(1581年)8月に亡くなった」という記述があり、その後に

「信長一段ノキヨシ也」

「向州、無比類力落也」

と続くため、研究者の間で物議を醸している人でもあります。

「信長一段ノキヨシ也」がどういう意味なのか、専門家の間でも意見が割れており、この記事を書いている時点ではまだ定説と呼べるものがないようです。

外部の記録に書かれていることからすると、「キヨシ」を「清し」と捉え、

「信長(に仕えていて公のことに関われるような女性の中で)一際品行方正だった」

と取ることもできるかもしれません。

『兼見卿記』や『言継卿記』などにも、御ツマキや信長周辺の女性へたびたび贈り物をしていたことが記録されています。

御ツマキがそうした贈答の有無に関係なく、公正に仕事をしていたことを評価した可能性も考えられるのではないでしょうか。

この時期の『多聞院日記』を書いていた英俊からすると、信長が個人的にどの側室を気に入っていたかなどわかりようがありませんし、他の側室にもそういった評判は記録されていなさそうです。

吉田兼見の肖像画

『兼見卿記』の著者・吉田兼見/wikipediaより引用

一方で、公の場における御ツマキの対応などは織田家の関係者や興福寺・東大寺などから聞こえてきていたはず。

「向州、無比類力落也」については「明智光秀がひどく落胆した」で良いでしょう。向州=日向=当時の光秀の官職名である”日向守”からきています。

「御ツマキの死が本能寺の変の一因になった」

そんな説も聞かれますが、さすがに無理がありそうなので詳細は割愛。

御ツマキについては「そもそも側室じゃないのでは?」という見方もあり、その立場についても見解が分かれています。

彼女は徳川家康にとってのお勝の方(英勝院)みたいな立ち位置の女性だったのかもしれませんね。お勝の方は子供を産んでいますので、少々異なりますが。

織田信長には、他に、足跡を辿れない側室も何人かいます。

信長の九男・織田信貞を産んだとされる土方氏や、三条西実枝の娘・あここの方など。

信長周辺の女性は謎が多く、御ツマキについては特に今後の研究次第でかなり評価が変わってきそうです。

なお、濃姫については別記事「帰蝶(濃姫)の生涯」をご覧ください。

戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


参考書籍

和田裕弘『織田信忠―天下人の嫡男』(2019年8月 中央公論新社)
楠戸義昭『戦国武将「お墓」でわかる意外な真実』(2017年12月 PHP研究所)
『歴史読本』編集部『物語 戦国を生きた女101人』(2014年6月 KADOKAWA)
『日本人名大辞典』(2001年12月 講談社)

【TOP画像】絵・小久ヒロ

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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