絵・小久ヒロ

織田家 信長公記

勇将・磯野が織田家を去り 三木城・別所が秀吉を裏切る~信長公記161話

天正六年(1578年)2月3日。

織田家に激震が走りました。

元浅井の家臣にして勇将として知られた磯野員昌(いそのかずまさ)が、突如として織田家を出奔してしまったのです。

員昌は、かつて浅井長政の右腕として同家を守り立てていましたが、織田家の猛攻に耐えきれずついに臣従。

以来、近江の高島郡を与えられ、越前一向一揆でも活躍するなど、織田家で働いておりました。

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それがなぜ?

 

信澄への家督譲渡に不服だった?

『信長公記』では「磯野員昌が、信長の意向に従わない点があったため、譴責けんせきしたところ、出奔してしまった」と書かれています。

このため、員昌の領地だった近江高島郡は津田信澄に与えられました。

津田信澄は織田信勝の実子。信長の甥っ子です。

【兄】信長
【弟】信勝 ―【子】信澄

という関係ですが、実際はなかなか複雑な関係です。

というのも信澄の父であり、信長の弟でもある織田信勝は、裏切り行為が災いして信長に処刑されているんですね。

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津田信澄は、明智光秀の娘を妻としており、そのことが理由で非業の死を遂げるのですが、詳しくは以下の記事でご確認ください。

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信澄はこの頃、員昌の養子となっておりました。

員昌出奔の理由は明確になっていませんが、

「信澄への家督譲渡を命じられ、それに不満を抱いたから」

という説があります。

員昌はその後しばらく行方がわからなくなり、本能寺の変後に高島郡へ戻って帰農し、天正十八年(1590年)に亡くなったといわれています。

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地元住民に討たれた磯貝久次

それから数日経った2月9日。

今度は信長のもとに、一つの首が届けられます。

元亀四年(1573年)【槙島城の戦い】のときに将軍方につき、信長と敵対していた磯貝久次のものでした。

久次は吉野で発見され、現地の住民に討たれたのだといいます。

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物騒な話にも思えますが、戦国時代の一般人は割と好戦的というか、生きるためには手段を問わないこともありました。むしろ、そういう時代だったといえます。

武士が農村などの近くで戦をし、敵方の領地の田畑が実る前に刈ってしまったり、住民に暴行や略奪を働いたりするのですから、致し方ないところです。

戦の後、負けた側の軍に対して農民による落ち武者狩りが起きていたのも、そうした日頃の状況によるものなのでしょう。落ち武者狩りは、勝者側から依頼されることもあったようですが。

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信長は褒美として、久次を討ち果たした者に黄金を与えたといいます。

具体的にどの程度の金額なのかは、記載がありません。

しかし以前(154話)、迷子になった信長の鷹を保護した者に旧領を回復したくらいですから、

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敵将の首となれば褒美を惜しまなかったでしょう。
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