信長の生涯を描くとき、避けて通れないのが近江・浅井家との対立。
義弟の浅井長政に裏切られ、絶体絶命のピンチに陥りながら奇跡の生還を果たし、それから激しい戦いを繰り広げていく姿は、まさしく手に汗握る展開でしょう。
そんな戦国時代の代表とも言える攻防戦でキーマンとなる武将がおります。
天正18年(1590年)9月10日に亡くなった磯野員昌(いそのかずまさ)です。
浅井長政の片腕として知られるこの武将。
残念ながら大河ドラマ『麒麟がくる』では出番がなかったものの、浅井家の合戦では先陣を切る勇将として知られ、人気漫画『センゴク』でも注目されました。
いったい磯野員昌とはいかなる人物なのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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浅井軍の先鋒を任された勇将・磯野員昌
磯野員昌は大永三年(1523年)に生まれ、浅井氏の家臣として働いていました。
生家の磯野氏は、元々京極氏の家臣でしたが、浅井長政の祖父・浅井亮政(すけまさ)の時代に仕えるようになり、員昌の父・磯野員宗の時代に佐和山城(彦根市)に入っています。
何らかの事情があったのか。
員宗の後はその弟(員昌の叔父)である員清が一度家督を継ぎ、さらにその後、員昌が当主になっております。
佐和山城は六角領との境目に近いため、自然と磯野氏と対峙し、そして員昌は対六角氏との戦で活躍するように。武功と信頼を積み重ね、浅井軍の先鋒を任されるほどにまでなりました。
主君である浅井長政が織田信長と義兄弟となり、離反してからは、対織田戦でも活躍します。
浅井氏時代の員昌について最も有名なのは、元亀元年(1570年)における【姉川の戦い】での奮戦です。
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合戦当時、織田軍は信長本陣まで十三の部隊が防備を固めていたと言います。
猛将・員昌はこれを十一番目まで打ち破り、一時は信長の身も危ぶまれるほどだったとか。
このときは西美濃三人衆(稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)や、朝倉軍を押し返した徳川軍が駆けつけたとされ、員昌は信長を討ち取れませんでした。
もし彼らの増援が遅ければ、員昌隊が信長の首を挙げる……なんて大波乱もあったのかもしれません。
員昌と長政を離別させるのに必死だった織田軍
磯野員昌のこのエピソードは【十一段崩し】と呼ばれ、その武勇を称えるものですが……実はこの話、江戸期の元禄年間に成立した『浅井三代記』が初出。
後世の脚色が含まれている可能性がかなり高いです。
しかし、逸話とは元ネタがなければそもそも生まれません。
・員昌が日頃から勇敢な武将であり、信長を追い詰めてもおかしくないと思われていた
・それが時を隔てた元禄年間になっても伝わっていた
こういったことから生まれた話なのでしょう。
事実、姉川の戦いの後、織田軍は員昌と長政の間に疑心暗鬼を生じさせるべく、情報戦をしかけています。
【十一段崩し】そのままの出来事がなかったとしても、織田軍にとって「員昌は捨て置けない存在である」と判断されたのでしょう。
織田軍は「員昌は既に裏切り、織田軍と内通している」という風説を流しました。
よくある内容ですが、この時点で員昌の佐和山城と浅井氏の本拠・小谷城との連絡が寸断されてしまっていたため、双方ともに確かめる手段がなかったようです。
これにより長政は「員昌は既に裏切った」と信じてしまい、人質として小谷城にいた員昌の母を処刑してしまったとも。
本当に離反しているかどうかを確認する前に人質を始末してしまっては、人質の意味がほとんどなくなってしまうのですが……。
一方の員昌は、孤立する中でも織田軍相手に戦おうと、兵糧や水の確保をしていました。
しかし何事にも限度というものはあります。
織田軍による佐和山城の包囲は、姉川の戦いの直後(元亀元年7月)から実に半年以上も続いたのです。
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