氏家卜全のイメージイラスト

斎藤家

氏家卜全の生涯|斎藤家から織田家へ移って活躍するも長島一向一揆に散る

2025/05/12

尾張から始まった織田信長の覇道――。

一代で全国へ勢力を拡大できた理由の一つとして「優秀な人物は、敵でも積極的に引き入れる」という点がありました。

初期の代表例が、旧斎藤家の家臣・美濃三人衆(西美濃三人衆)でしょう。

【美濃三人衆】

・稲葉一鉄(良通)

・安藤守就

・氏家卜全(氏家直元)

三人衆とは文字通り3名の戦国武将であり、このうち稲葉一鉄(稲葉良通)については、大河ドラマ『麒麟がくる』で村田雄浩さんが演じられ、

斎藤道三

斎藤義龍

織田信長

と次々に主君を乗り換える姿が話題にもなっていました。

稲葉一鉄、安藤守就については関連記事(本記事末)に譲り、今回、注目したいのはもう一人。

氏家卜全のイメージイラスト

元亀2年(1571年)5月12日が命日である、氏家卜全(氏家直元)についてスポットライトを当ててみましょう。

出家前の名前は”直元”ですが、本記事では“卜全”で統一いたします。

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御家騒動に揺れる美濃土岐氏

氏家卜全の生涯は大きく【前半・後半】に分けられます。

前半は、美濃の国主に仕えていた時代。

後半は織田家に仕えてから亡くなるまでの期間です。

この時代の人によくあることで、卜全の生年はわかっていません。

始めは土岐頼芸、続いて斎藤道三に仕えているので、この点から推測を広げていくことはできそうです。

卜全本人の話題とは少々離れますが、簡単に確認しておきましょう。

斎藤道三/wikipediaより引用

土岐家の当主(美濃守護)が頼芸の父・土岐政房だった頃、同家でお家騒動がありました。

政房が次男・土岐頼芸を偏愛し、長男の土岐頼武を廃嫡しようとしたのです。

頼武に健康や行状の問題があるならともかく、この場合はそうではありません。

当然、家臣たちも頼武派・頼芸派に分かれて対立。

永正十四年(1517年)にはついに戦へ発展してしまいます。

このとき道三の父・松波庄五郎(新左衛門尉)が頼芸派につき、紆余曲折の末、享禄三年(1530年)に頼芸が実質上の美濃守護となりました。

それから12年後の天文十一年(1542年)に道三が頼芸を追放していますので、卜全がお家騒動~美濃守護時代の頼芸に仕えていたのなら、この間に少なくとも元服していなければなりません。

元服する年齢については個々人で幅があるものの、卜全が15歳で元服したと仮定すると、

・永正十四年時点で頼芸に仕えていた場合→文亀二年(1502年)前後生まれ

・享禄三年(1530年)の場合→永正十二年(1515年)前後生まれ

・天文十年(1541年)の場合→大永六年(1526年)前後生まれ

と、おおよその見当をつけることはできます。

後述する卜全の次男・氏家行広が天文十五年(1546年)生まれとされています。その上に長男・氏家直昌がいますので、少なくとも1540年代初めには結婚していた年齢となるはずです。

また、卜全の母方の年代からもある程度推定できます。

母親は、長井利隆の娘でした。やはりこの時代のことですので、彼女の生年はわかりませんが、利隆は文安二年(1445年)生まれとされています。

となると、卜全の母は1460~1490年代ごろの生まれとみていいでしょう。

これらのことを総合してみると、卜全の生年は1500~1510年代あたりが妥当ではないかと思われます。

あくまで私見ですが、これならば享年59説とも合致します。

生まれの話が少し長くなってしまいました。

では、卜全の生涯を追いかけていきましょう。

 


龍興に軽んじられ織田家へ

彼は斎藤道三が亡くなった後、斎藤義龍・斎藤龍興に仕え、安藤守就・稲葉一鉄とともに「美濃三人衆(西美濃三人衆)」と呼ばれました。

信長の生涯を記した『信長公記』には「美濃三人衆」と記されています。

義龍が道三を討った【長良川の戦い】で、彼ら三名は既に義龍の味方でしたので、道三に対しては何らかの思うところがあったのでしょう。

斎藤義龍/wikipediaより引用

しかし、龍興は祖父の代からの重臣を軽んじていくようになります。

美濃の中心から、次第に疎遠にされていく三人衆にとっては、当然ながら斎藤氏を見限る選択肢も入ってくるわけです。

と、そんな絶妙のタイミングで美濃への攻撃を仕掛けていたのが織田信長。

ここぞとばかりに調略を仕掛けると、三人衆も織田家への内通に応じることにしました。

要は、斎藤氏の本拠・稲葉山城攻略の手助けをしたのですね。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

これが永禄十年(1567年)のこと。

卜全は、この時点で既に出家しており、同名を名乗っていたようです。

現代でも”直元”より”卜全”で知られているのは、織田家に来た時点で後者を用いていたからなのでしょうね。

以降は信長に仕え、数々の戦に参加しました。

 

織田家の主要な合戦に従軍する

永禄十一年(1568年)。

信長が足利義昭を奉じて上洛の途についたときも、卜全を含めた美濃三人衆は動員されました。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用

美濃では有力者だったとはいえ、この時点での彼らは織田家にとっては新参者。忠誠や実力を試すために、先鋒として鉄砲玉扱いされてもおかしくないところです。

しかし、信長はそうしませんでした。

三人衆は皆「意外だ」と思ったそうですが、これでかえって忠誠心が強まったかもしれません。

以降、卜全は

・永禄十二年(1569年)【伊勢大河内城攻め】

・元亀元年(1570年)【姉川の戦い】

・元亀二年(1571年)【長島一向一揆】

などの戦に参加しています。

 

秀吉や信盛らと共に奮戦するも

【伊勢大河内城攻め】は、伊勢の国司だった北畠家を織田家の傘下に入れ、伊勢を手に入れるための戦でした。

この戦で織田方が勝利した結果、信長の次男・織田信雄が北畠家に婿養子入り。

織田信雄/wikipediaより引用

伊勢は織田家の勢力圏となります。

【大河内城攻め】は持久戦の期間が長かったこともあってか、卜全の活躍は記録されていません。

木下藤吉郎(羽柴秀吉)や佐久間信盛と同じく、城の西側に布陣していたことはわかっています。

翌年【姉川の戦い】では、信長のお馬廻り衆や守就・一鉄とともに、戦場の東側で浅井軍相手に奮戦しました。

その後、浅井氏の本拠・小谷城への足がかりとして、横山城攻めにも参加しています。

そして元亀二年の長島一向一揆が、卜全最後の戦となりました。

 


長島の撤退戦で殿(しんがり)を請負い……

長島一向一揆は、その本拠地・石山本願寺と同様、織田家が長期間に渡って悩まされた相手としてよく知られています。

根が同じ組織であり、どちらも自治能力を保持。

さらには信仰による団結力・兵数・物資とあらゆる条件が揃っていたのですから、無理のない話です。

長島一向一揆は大きく分けて三回ありますが、卜全が参加したのは最初の回でした。

このときはほんの小手調べといった感じで、織田軍は周辺の村に放火し、引き上げようとします。

しかし、敵の撤退は背後から攻める絶好のチャンス。

一揆勢は織田軍の撤退ルート上で、道が狭まっているところに弓と鉄砲を用いる兵を準備しました。

信長本隊・佐久間信盛隊は無事に引くことができましたが、卜全が所属していた柴田勝家隊は、一揆勢の追撃をモロに食らう形になってしまいます。

猛将として知られた柴田勝家/Wikipediaより引用

勝家自身も負傷。

そこで卜全が殿(しんがり)の最後尾を受け持ちました。

 

敵の集中攻撃を受け

殿(しんがり)を務めるとはどういうことか?

最後尾で敵の追撃を食い止める命がけの役割です。

味方は戦地から退いている一方、それを追う敵にとってはこれ以上のチャンスはないわけで、卜全の部隊は敵の集中攻撃を受けてしまいます。

そして不運、ここで戦死してしまったのです。

討ち取ったのは、元近江守護・六角氏の一族である佐々木祐成だったといわれています。

卜全の享年には59説と38説がありますが、冒頭で述べた通り、おそらく59説のほうが正しい(または近い)でしょう。

最期の地となった現在の海津郡南濃町には、その「首を祀った塚」と「首を洗った沢」と言われている場所があるとか。

ファンの方は訪れてみるのも良いかもしれませんね。

岐阜県海津市南濃町にある卜全塚/photo by 立花左近 wikipediaより引用

卜全は、信長の家臣の中では知名度が比較的高い武将ですが、織田家に属していたのは

永禄十年(1567年)

元亀二年(1571年)

という非常に短い期間のため意外に感じる方もいらっしゃるかもしれません。

彼の息子や子孫についてもあまり知られておりませんが、なかなか波乱含みな生涯を辿った方がいます。

よろしければ最後までお付き合いください。

 


秀吉の信用を得た息子の氏家行広

卜全の死後、三人の息子たちはそのまま織田家に仕え続けました。

父の存命中はあまり記録上に現れませんが、家中での問題がなく、別個扱いをされなかったからなのでしょう。

家督は長男・氏家直昌(直通・直重とも)が継ぎました。

父の立ち位置をそのまま引き継ぐ形で、安藤守就や稲葉一鉄らと出陣したことも多々あります。これは弟たちも同様で、記録によっては直昌と行広を混同したと思われる箇所が見られることも。

彼の有名な武功は、天正元年(1573年)【一乗谷城の戦い】で、かつての主筋である斎藤龍興を討ち取ったことでしょう。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

※ただし、龍興には複数の生存説があるため、断言は難しいところ

その後は父の弔い合戦でもある第三次長島攻めや【長篠の戦い】、【有岡城攻め】など、織田家の主要な戦に美濃衆の一角として参戦。

天正十年(1582年)に本能寺の変が起きた後は、早い時期から秀吉に従いました。

直昌は翌天正十一年(1583年)に亡くなり、変わって弟の氏家行広が家督を継ぎます。

彼もまた秀吉に従い、小田原征伐などへの従軍と加増を繰り返し、秀吉からの信用を勝ち得たようです。

文禄の役では名護屋城に在陣しており、渡海はしていません。

戦以外ですと、伏見城の普請にも参加していました。

それらの積み重ねの結果か、慶長三年(1598年)には秀吉の形見として国俊の刀を譲られています。

”国俊”というのは日本刀の刀派のひとつである「来(らい)派」の刀工の名です。銘に「国俊」と「来国俊」の二種類が存在しており、同一人物説と別人説があります。

このとき「来国俊」を拝領した人もいるようなので、行広が拝領した刀は前者だったようです。

号が記録されていないため、どのような来歴の刀だったのかはわかりません。

 

忠興に助けられ熊本藩へ

関ヶ原の戦い直前の【会津征伐】では、後から徳川軍に合流するために進軍していました。

しかし道中で石田三成挙兵の知らせを聞き、家康に断った上で自領の伊勢に帰還。

当初は領内に留まり中立を保つつもりでいたようですが、西軍が攻めてきたため、やむなく弟・氏家行継と共に西軍に加わりました。

石田三成/wikipediaより引用

それにより、東軍の勝利後に改易され、浪人として不遇をかこつことになります。

そして関ヶ原の戦いから14年後、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で、再び戦場に戻りました。

”荻野道喜”という偽名を用いて大坂城に入り、豊臣方の一員として参加したのです。

これを知った家康は、行広の器を惜しみ、徳川家へ出仕するよう持ちかけたものの、応じなかったようです。

まあ、この経緯ですと「14年前に改易しておいて、今さら何を言うか!」という気分ですよね……。

行広はこの頃70歳になろうかという高齢でしたので、死に花を咲かせたかったのかもしれません。

結局、そのまま豊臣方を貫き、翌元和元年(1615年)5月8日【大坂夏の陣】で大坂城が落ちた際、自刃したといわれています。

行広には四人の息子がいましたが、天海の弟子だった三男以外は捕らえられ、切腹に追いやられています。

三男・氏家行継も、ほとんどの経歴は兄たちと同じだったようで、あまり単独で記録上に出てくることはありません。

行継はいったん高野山に行った後、許されて細川忠興預りとなりました。

細川忠興/wikipediaより引用

兄との扱いの差は、

・当主だったかどうか

・自発的に西軍についたかどうか

といったあたりが理由でしょうか。

行継はそのまま細川家に仕えたようで、子孫も熊本藩に仕え続けます。

戦国時代から江戸時代にかけては、文字通り一家全滅した家も少なくありませんから、大名という立場でなくとも、家が残ったのは不幸中の幸いといえるでしょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典「斎藤道三」
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon
太田牛一/中川太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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